標記の語は、意訳するならば「哲学のない人」ということになるだろうか。先日読んでいたある本に、何故日本が海外でバッシングされるのか、という話が載っていて、その中にこんな言葉が出てきたのだった。曰く、日本の企業は上に行けば行く程、a man with no principle ばかりになってしまって、時流に阿ることばかりに終始して、一貫した主張というものがない。そういう企業や企業人と、哲学を持つ者同士の契約というかたちでの信頼関係を結ぶ欧米人が、信頼関係を結べるはずがないのだ、だからバッシングされるのだ、と。
僕はいつでも「じゃあお前はどうなんだ」と問いを向けられるところにしか身を置いたことがないし、仕事以外においても、自分にしかできないことをしたくて、音楽を作ったりものを書いたりしてきたので、「哲学のない人」というのが、どうにもピンとこない。ただ一つだけ言えるのは、確かに周囲にそんな人はいて、自分の信条や思想を以てものを言うということがない人々であって、そういう人々の言うことはうつろうばかりで信用できない、ということだ。なるほど、ということは、僕は日本人的じゃない、ということなのか?
でも、昔の日本人、たとえば明治維新以降に国のために欧米に出ていった人々なんてのは、皆何かしら信条というか、志というか、そういうものを持っていたんだと思うから、そうなると、今の the men with no principle というのは、決して日本に普遍的な存在だというわけではないのだろう。
まあ、その分布に関しては別にしても、「哲学のない人」というのは、互いの責任を担保してロジカルに意見を交わしたり、その結果を共有したり、ということは、とてもじゃないができそうにない。つまり、コミュニケーションや相互理解というものが持てないということで、これは(非常に差別的な書き方だけど)愚者を相手に法を説くようなものなわけだ。ああそうだ、お釈迦様がこう仰ったって話があったよな:「人を見て法を説け」なるほど。大昔から人は全く進歩していないものらしいや。
最近、聖書関連の調べものをしているときに、雑誌がそのまま検索に引っかかってくるのに気付いた。これって、ちょっと前にアメリカで物議をかもしたGoogle Booksではないか?と見てみると、ちゃんと日本語版のサイトが beta release されている。どんなんかなぁ、と「LIFE Robert Capa」の3語をキーワードに検索を行った結果がこちら:
http://books.google.co.jp/books?as_brr=3&q=LIFE+robert+capa
おー、ちゃんとキャパが落下傘降下して撮影した写真(詳細を知りたい方はキャパの第二次世界大戦の回顧録である『ちょっとピンぼけ』を御一読のこと)も観られるじゃないか!これは凄い。今に web 上の文献の citation とかもこれでできるようになってしまうのだろうか。著作権に関する問題がまだ完全に解決したとはいえないだろうけれど、これは確かに使える機能だ。
先日、このブログの記事『金姸兒選手は五輪憲章に違反しているらしい』に関連した話で、聞いて開いた口が塞がらないような思いのする話を聞いた。この問題に関して、韓国のネットユーザーから、完全に屁理屈としか言いようのない反論が盛り上がっているのだ、という。
これが……何だか書くのも面倒なのだけど、「浅田選手がリンクで使っていたティッシュペーパーが、浅田選手が宣伝に参加している製品なので、金姸兒が違反しているなら浅田選手も違反だ」という話らしい……いやはや。本当に、開いた口が塞がらない。
僕がこの話を「開いた口が……」と断じることができるのには理由がある。日本の各メーカーは、オリンピックの絡んだ宣伝に関してはちゃんと配慮をしていて、オリンピック開催中は、選手個人を宣伝に起用しているメーカーは選手を宣伝から外すようにしているのだ(IOC / JOC の公認宣伝を除く)。今回韓国ネットユーザーとやらが問題視しているティッシュペーパーの広告サイトにおいても、五輪期間中は、浅田選手の肖像を「出張中」と書かれた画像に差し替えていた。今のそのティッシュペーパーの広告サイト(←ブラウザ強制リサイズ + 音が鳴りますのでご注意を)で公開されている画像を、わざわざニュースサイトで公開している東亞日報のサイトからリンクしておくけれど、

この画像には「出張、おつかれさまでした。」と書かれている。ここに痕跡が確認できる通り、オリンピック期間中は、この画像は「出張中」ということで差し替えられていたわけだ。だから、このティッシュペーパーと浅田選手の直接のリンケージは、少なくともオリンピック会期中は断たれていたわけだ。
翻って、金姸兒の方はどうだろうか。僕がこの件に関して書いたのが3月4日で、そのときに宝飾製品の販売元では、「これが金姸兒選手の着用していたアクセサリーです」とメディアに嬉々として出演してすらいるわけだ。まあ、お話にならない。
正直、こんなことを書くのすら時間の無駄に思えるのだけど、まあ一応書いておく方がいいだろう。発言をしないと、考えてすらいないと断じられそうで怖いからね……
この邦題は、ちょっといかがなものか、と思うのだけど、この本の原題は "Misquoting Jesus --- The Story Behind Who Changed the Bible and Why---"(『イエスの誤引用――聖書を改変した人とその理由の背後にある物語――』というところか)である。新約聖書本文批評学の世界的権威であるバート・D・アーマン ノース・キャロライナ大学宗教学部長の書いたこの本は、彼の専門である新約聖書の「本文批評学」(多数の写本や引用をもとに、そのオリジナルの記述を求める文献学の分野)的分析に関して、実に明解に解説している本だった。
なにより興味深いのが、このアーマン氏が、子供の頃からの、いわば筋金入りのボーン・アゲインのプロテスタント(宗教的生まれ変わり、つまり「回心」を経験して、聖書の無謬性をバックボーンとした信仰をもつプロテスタント)だということである。聖書の無謬性を信じてこの道に入ったアーマン氏は、やがて自らの「第二の回心」とでもいうような境地に至った……聖書は数え切れない程の改変を経ている文書であって、オリジナルの文書が書き下ろされたそのときを含めて、記者の宗教的な思いが投影された文書として存在しているのだ、と。このことからも明らかなように、この本はいわゆる聖書根本主義者などにあるような聖書の都合良い解釈と対局にあるような、実践的な聖書の文献学的考察を示している。
やがてこのアーマン氏は、自分が不可知論者であり、世間で信仰されているような神を信じえない……との境地に至る。その心境を書いた『破綻した神キリスト』(これも邦題がなあ……原題は "God's Problem --- How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question - Why We Suffer---"(『神の問題――いかにして聖書は私たちの一番重要な問い「何故我々は苦しむか」に答えそこねるのか――』というところか)も手元に来たので、これも読み進める予定。え、お前はどうだって?まあ僕はトマスですからねえ。この問いは子供の頃から僕の中にはあったし、僕は不可知論者という程ではないけれど、「神様はそう簡単には助けてくれない」し、「神様は助け方を僕らの恣意に沿ってデザインしてくれるわけではない」と思っているのでね。まあ、それを自らに向けているからこそ、カトリックでい続けられるんでしょうね。
そう言えば、『誰も教えて……』とか、今回の『捏造された……』とかに言及すると、決まって然り顔で、
「その本は信仰の躓きを生みます」
とか言う輩がいたりするんだけど、そんなもの位で躓いてしまう位なら棄教してしまえ!と思うのをぐっと堪えて、
「お聞きしますが、あなたは読まれましたか?」
と聞き返すと、
「読みましたが、読むに足る本ではありませんでした」
とか、しれーっと言ったりするんだよなあ。ズバリ、アンタ読んでないだろうゴルァと聞いてみると、行頭だけ読み齧っているだけか、ひどいのになるとタイトル知ってるだけだったりするわけだ。本当に、そういう下らない奴等と一緒にはされたくない。