酒をよく飲む関係で、いわゆる authentic bar に行くことが多かった。その関係で、バーテンダーや料理人と知り合いになることがちょくちょくあったのだけど、彼らとの交流は楽しいものだったが、彼らの顧客との交流は、お世辞にも楽しいものではなかった。
いわゆるグルメ、グルマンというのは、密やかな楽しみだと思うのだ。いつだったっけ、あの店であれ食べたなあ。これこれこんな時期だったっけ。あれ美味しかったなあ……という記憶を楽しむ、そういう楽しみだと思っていたのだけど、どういう訳か、SNS に行った店と飲食物の写真を記録・公開することがグルマンの行為だということになってしまっている。そしてそういう手合いは徒党を組む。そして店を占領して排除的な雰囲気をそこに匂わせる。気の利いた酒屋の角打ちでも覗きに行こうか、と思っても、その手合いが内輪感覚という名の排他的雰囲気丸出しで、馬鹿みたいにデカい声でゲラゲラ笑ったり、カウンターをバンバン叩いたりしていやがる。そういう店に入る気にはならない。
僕の知る「良き常連」は、その店を愛している。だから、見ず知らずの人が入ってきたら、その人が心地良く過ごせることを考える。この人がもう一度、ああ、こんな店あったよね、と来てくれたらいいよね……そういう愛を感じるわけだ。しかし、上に書いたような手合いは、ただ寝穢く金を出し、金やモノやサービスをひたすらに消費する。それは僕から見たら一種の排泄行為だ。飲み食いする場の自分の横に排泄する者がいるなんて、僕には我慢できないのだ。
で、この地方のその手合いが何かにつけてしきりに喧伝するのが、この「名古屋めし」なるものだ。それ、何?と訊いてみると、どうやら赤味噌、あんかけ、海老、餡を使ったものらしい。ああそうそう、あとは炭水化物てんこ盛りなんだよね、どれも。
たとえば「天むす」というのがあって、名古屋の人はそれを名古屋めしだと言う。でも、違うよね、それって。天むすの発祥は三重県津市の千寿で、これを名古屋に持ち込んだ藤森晶子って人は、暖簾分けされるや発祥の店が嫌がっていた宣伝をガンガンやらかして、あたかもそれが名古屋発祥であるかのように世間に定着させちゃったんだよね? ああ、なんてゲスなんでしょう。
あんかけスパなんてのもゲスな代物だ。だって、あれってパスタを 300 g 位食べるんでしょう? 馬鹿じゃないの? イタリアンでそんな量のパスタが出てくること、ありますか? ないよね? 要するにバランス感覚を欠いているだけでしょう。満腹感を提供すれば客は満足する、という店と、何も考えずにそれに乘ってる客で成立しているだけのメニューだ。
小倉トーストというのもゲス極まりない。朝から、分厚いトーストにてんこ盛りのマーガリン、そして餡を山盛り。いやーそれって健康的な朝食なわけ? 僕は御免被りますよ、そんな代物。
ああ、手羽先もありましたっけ。世界の山ちゃんが発祥みたいに言うけどさ、あれは風来坊でしょう? ちょっと前に亡くなった山ちゃんの創業者は、風来坊で修行して、酒が進む(居酒屋で利益を増やしたければ酒の出る量を増やすしかないものね)ように胡椒塗れにして、それが名古屋めしでござい、って、消費活動に血道をあげる名古屋人が乗っかったんだよね?
……名古屋人は馬鹿だとしか思えない。もともと武家文化があって、果樹栽培の盛んな内陸部、漁業の盛んな沿岸部、そして発酵食品の生産が盛んなこの地の利を、まるっきり捨ててかかっている。発酵食品って八丁味噌だけじゃないよね? 醤油も味醂も酢も酒も発酵食品だし、それらでバランス良くものを作ってる料理人はナンボでもいるんだよね。でも、見た目をひくことの方を重要視して、何でもかんでも味噌、味噌って……ああ、きっと脳味噌が少ないのかね。
いや、実は、この「とっつきにくい」というところこそが、名古屋人の求めるところなんじゃないだろうか。他者が「いやこれは」と眉を潜めるような代物を共有するところに、先の角打ちを占領している面々のような「内輪感覚という名の排他的雰囲気」を感ずるわけだ。しかし、その内側には実がない。それは虚構なのだ。それを彼らは認めないし、それを共有することにひたすらにしがみつき、そしてそれを受容することが「仲間の証」とみなされているんだろう、きっと。
ということで、現代の名古屋で喧伝される名古屋めしなる代物に、僕は何らシンパシーを感じないし、僕はきっとこの先ずっと名古屋人にはなれそうもない。
キリスト教文化には、動物に対する殺生の罪という概念はあまりない筈なのだけど、僕は東洋人の端くれでもあるので、動物を殺すことには多少なりとも罪の意識を感ずるわけだ。困ったことに、今の職場ではこの罪悪感を感ずることが少なからずあるもので、僕としても困ったものだと思うわけだ。
今の職場は、決して郊外というわけでもない場所なのだけど、隣と裏が、地主さんの菜園になっている。そのため、ここだけカントリーサイドみたいになっていて、たとえば梅雨の頃には蛙の鳴き声が聞こえたり、今時分には鈴虫の音が聞こえたりするという状況になっている。蚊や蠅、いわゆる羽虫の類も多くて、帰り際に殺虫剤を撒いて、翌日に出勤すると、入口横にあるテーブルの上に死屍累々と羽虫の骸が積もっている。僕は大量殺戮者としての罪を存分に感じながら、そこを掃除するわけだ。
この羽虫の類を餌にしているのだろう、入口の戸袋の辺りには守宮が住み着いている。こいつはドジな奴で、時々戸締りのときに落ちてきたり、何かの拍子で入口横のポストの上面に寝そべっていて、僕がポストの中身を引っ張り出すと驚いて飛び上がったりする。まあでも憎めない奴である。そして屋内には、ハエトリグモが住み着いている。こいつが時々出てきてはちょろちょろするのを、僕は大分黙認してきたのだが、最近どうもそうもいかなくなってきたのだ。というのも、こいつが屋内に弁当を持ち込むからである。
掃除をしていると、部屋の隅などに干涸びたダンゴムシやヤスデの死骸がいくつも見つかる。どうもおかしいなあ、と思っていたのだが、よくよく考えるに、犯人はこのハエトリグモに違いない。奴は外でダンゴムシやヤスデを捕えてはここに持ち込み、牙から消化液を注入して中身を美味しくいただく。そして残った外骨格を捨てていくのだろう。一日に3つも4つもその殻が発見される。クモの奴は栄養も行き届き、親指の爪に乗り切れない程の大きさになって、時々僕の PC の辺りに出てきてうろうろしている。
僕がこまめに掃除していれば良いのかもしれないが、気がつかないところにこの殻が転がっていると、何せうちの職場は女子率が高いので大騒ぎになってしまう。そういうことが何度か続いて、さすがに僕も辛抱ならなくなってきた。クモの奴が現れたので、
- 食糧を持ち込まないこと
- やめない場合は屋外に放り出す。二回目に同じことがあったら殺す。
旨、きつくきつく言い渡したのだった。勿論奴に人間の言葉が分かるとも思われないわけだが、それでもそれでやめてくれれば、という淡い期待があったのだ。
しかし奴はやめてくれない。しかも他に人がいるときに現れる。腹が立ったので、捕まえて屋外に放り出したのだが、何せ虫を持ち込める機動性がある奴のこと、また戻ってきてしまったのだ。
そして今日の夕刻。天井にクモがいることに他の人が気付いてしまった。ああ。もう仕方がない。彼女達の手前、放置するわけにもいかない。高電圧で放電する蠅叩きを持って、僕はクモを叩いた。閃光が瞬き、ショック死したクモは足を丸めて床に落ちた。
ああ、クモは殺したくなかったんだよなあ。俺一人だけだったら、こいつは死なずに済んでいたものを……まあでも、衷心から警告して聞いてもらえなかったのだから、本当に悪いけど、勘弁してくれよな。勿論、お前を殺したことは、俺の罪なんだろう。今日一日位は、その思いを胸に抱えて過ごすことにするよ。
先週の土曜が誕生日だったわけだが、誕生日らしい良いことというのがあまりなかった。土曜は休日出勤だったし、その後は教会で司会があってとんぼ帰りしなければならなかったし、正直懐具合もよろしくない。なんだかなあ、という誕生日だったわけだ。
ところが、愛知県、特に名古屋に住むようになってから、これがますますなんだかなあ、になってしまっている。その理由が「にっぽんど真ん中祭り」というイベントである。まあこのイベントを楽しんでいる方もおられるのかもしれないが、個人的にはこんなものを祭とか呼ぶのは御免被る。
Wikipedia のエントリにも書かれているけれど、そもそも
名古屋には島田豊年(名古屋ストトコ節などを振付)を開祖とする「日本民踊研究会」と言う日本民踊の中心的な役割を担う巨大な団体が存在する。当時、そのような地元の文化を知らない学生がYOSAKOIソーラン祭りに参加するために名古屋学生チーム『鯱』を結成し、北海道を模倣とした鳴子踊りを1999年に始めた(元々名古屋には鳴子文化は存在しない)。
つまり、これは伝統も地縁も何もない、まさに取ってつけた代物なのである。こんなものに金や時間を投入するんだったら、たとえば私の住んでいる辺りでは町会毎に山車を持っていて、祇園祭のようにお囃子が乘って山車が動く祭とか、そういうものがあるんだから、そちらに投入すべきだと思うわけだ。踊りたいって言うのなら
郡上おどりなんて徹夜で踊るんだから、そっちに行けば良いだけの話なのである。
音曲にしたってそうだ。最近はこの手の祭の音楽はその筋の大家みたいな人がいて……ってことになってるらしいが、いや要するに打ち込みでしょう?横笛とかのソロは邦楽経験者が吹いてたりするかもしれないけれど、私が自作曲の録音やってる方がまだ生楽器の利用比率が高いよね。コンピューターミュージックに祭だ心意気だ魂だ命だって言われたって、全然ピンとこないんですよ、ええ。
まあ、そういう代物でも、それを楽しんでいる人がいることを否定すべきではないのかもしれない。しかしだ……この祭?のときに大津通辺りを歩いている人々のマナーが、そりゃあもう悪いんだよね。まず平気で横並び。カップルなら二人、三人連れなら三人で、五人いれば五人で、横に広く並んで、すれ違うのに全く避けようともしない。これは愛知県以外の地方や東京、大阪ではなかなか出喰わすことのない状況だ。カップルだったら、気付いた方が連れの手を引いたり、肩を掌で押したりして、道を開けることを促すのがむしろ普通でしょう。とにかくそれが全くと言って良い程にないのだ。たまーにそういう光景に出喰わしたときに訊いてみると「ああ、僕岐阜なんです」「私三重なんです」とか返ってくるわけですよ。
で、昨日はある CD を探しに出て、まず栄の HMV を見たらなくって、パルコのタワーレコードまで歩いていって、そこでもなくて、諦めてラシックの地下の成城石井でワインとチーズ、神戸屋でトゥルニュを買って夕食にしたわけなんだが、もうそれだけでうんざりしてしまう。街を使う、街を楽しむ、街に遊ぶ……そういうことの上で、とにかくこの「横並びが大好きな人々」は私にとって敵なのだ。
そして愛知県の夏は、とにかく湿気が殺人的な程に酷い。スーパーで買い物をしてから外に出ると眼鏡が曇ることがしょっちゅうなのだから、もう本当に不快だ。先の横並びと相俟って、私は厭な汗をふきふき行動することになってしまう。何なんだろう、この居心地の悪さは。せっかくの誕生日なのに。
最近は世間でもかなりレギュラーコーヒーが定着している、と思うのだけど、豆を家で挽くというのはどうもかなりの少数派になってしまったのだろうか。以前はスーパー等でも挽いていない豆を買うのに困ることはなかったのが、最近は、たとえば家の近所のマックスバリュに行くと、挽いていない豆は1種類しかない。他は良い豆だと謳っているものであっても皆粉なのである。これはないよなあ。
あと、ミルに関しても、何かおかしなことが定着しているのかなあ、と思わされることがある。たとえば、知り合いのやっているバーでの話なのだが、ここはこの辺りでも1、2を争う有名なバーで、アイリッシュコーヒーを注文すると、実に恭しく所作を見せながら作ってくれるようだ。僕は自分で頼むことはない(アイリッシュコーヒーは家で飲むものだという意識が強いので)のだけど、そういうことをやってもらうのが、もしくはそういうことをやらせるのが好きな客というのがいて、鼻高々で連れに説明しながら作ってもらっているのに出喰わすことがある。で、豆も一から挽きますよ、と出してくるミルがカッター式なわけだ。それってどうなのよ。そこまで拘るなら臼歯のミルじゃなきゃ、バランスを著しく欠いていると言わざるを得まい。ハンドミルでやりゃいいだろうにさ。
では、僕はどのようにコーヒーを飲んでいるのか。いや、別に何も変わったことはしていないんですよ。何も。豆は挽いていないものを買い、冷凍保存してある。冷凍も良いことばかりではなくて、取り出したときにぐずぐずしていると湿気を付けてしまうことになるので、小さなジップロック等に分けて保存して、使う分を素早く取り出すようにした方が良いだろう。で、それをハンドミルで挽く。ハンドミルは高速回転できないので、ほぼ全ての製品で臼歯を使っている。僕の使っているカリタのクラシックミルで \3,000 位だが、同じカリタでも円筒形の KH-3 なら \2,000 もしない。
挽いた粉は、大部分が設定された歯の間隔に応じた粒径になっているけれど、ごく一部が細かい粉になっている。これを除けてしまう人が多いようなのだけど、僕の場合は分けずにそのまま使う。以前は普段はドリップ、時々エスプレッソだったのだけど、最近はフレンチプレスを使っている。フレンチプレスは細かい粉を除去できないのだけど、それがコーヒーの風味を強くするので、欠点を逆手に取って使っているわけだ。やや多めの挽きたての粉を入れ、上からクルクルと円を描きながら熱湯を注ぐ。上面に細かい泡が厚めに立つのだけど、その泡を潰していくように注いで、それから4〜5分待って、ストレーナを上から突っ込んで、はい、出来上がり。マグカップに牛乳を注いで、上からそのコーヒーをダバダバ……と、まあ乱暴なカフェラテにするわけだ。毎日飲むコーヒーはほとんどこれ。
ブラックで飲みたいときにはドリッパーを使うこともあるけれど、これもあえて紙を使わず、金メッキされたメッシュを使ったドリッパーを使う。これも一番細かい粉を除去できないので、それを逆手に取って強い風味のコーヒーを淹れているわけだ。
たったこれだけのことなのだけど、安価に手軽に美味しいコーヒーが飲める。例えば、僕の母は昔からレギュラーコーヒーしか飲まないのだけど、母の場合は近所の喫茶店等で煎りたての豆を挽いてもらったものを少量づつ買って使っている。それぞれのやり方の中で、酸化した豆のイーッとくる嫌な味を避けるための工夫をしているわけだ。工夫はほとんど金がかからない。しない手はないと思うんだけどなあ。世間の人達は高いコーヒーメーカーとか買ってるんだろうに、金を出してわざわざマズい飲み方をしているのだろうか。こう、粉しか見かけないのを見ると、不思議で不思議でならないのだ。