今は簡単なカレーを煮ているところ。じゃあ簡単じゃないカレーというのがあるのか、と言われそうだけど、こんなのがある。今日はこれよりは大分簡単だ。
まず、みじん切りにした玉ねぎをオリーブオイルで炒めて、しょうがを摩り下ろしたものを加えてから、豚肉を加えて火が通るまで炒める。そこにじゃがいもと人参を加えてさっと全体をなじませて、ホールトマトとひたひたの水、ベイリーフとブイヨン(マギーが出している化学調味料の入っていないものを使っている)を入れて一煮立ちさせる。胡椒とカルダモン、トマトの酸味を和らげるための牛乳を加えて一時間煮込んで、カレー粉を加えて10分ほど煮込んでから塩で味を整えて出来上がり。簡単である。
今日はじゃがいもも人参も大きめに切ったけれど、細かく切って、肉に鳥(軍鶏とか、ある程度歳をとった固めの鶏がよろしい)のひき肉を使ってあっさりとしたキーマカレーのように仕上げても美味しいだろう。まぁカレーなんてのは、作り方に無限のバリエーションがあるし、そもそもルールなんてない(大体インドではカレーという特定の料理は存在しないのだし)のだから、皆さんお好きなように作られればよろしい。
片山右京氏らが富士山での訓練中に遭難し、片山氏の同行者二名が凍死するという事故が発生した。状況を聞いた限りでは、出来ることは全てやった上での突風による事故でもあり、一人残された者として出来ることの限界を超えたところでの惨事だと思われる。しかし、ネット上では、何も山に関して知らない輩が氏を罵倒する記述が散見される。
僕の郷里にある運動具店の店主で、服部満彦という方がおられる。芳野満彦と言った方が分かり易いだろうか。高校二年生のときに冬の八ヶ岳で遭難し、同行していた先輩を失い、自らも両足先の前半分を失ったが、一年のリハビリの後に復学、後にマッターホルン北壁を世界で始めて登頂するなど、戦後の日本の登山家として数々の国際的な登攀を成し遂げた人物である。新田次郎の『栄光の岩壁』の主人公はこの芳野氏がモデルであるし、同じく新田氏の『アイガー北壁』においては、芳野氏は実名で登場している。
僕は子供の頃、この芳野氏のファンで、親父の書棚にあった芳野氏の著書『山靴の音』をしゃぶり尽くすように読んだものだが、芳野氏は、低体温症で徐々に命を失っていく先輩の様子をこの本の中で克明に描写している。このような体験をし、自らも傷ついて、それでもなお、部屋にザイルを張り、足先を血で濡らしながらも歩く訓練をし、そして山靴の中が血でぬるつくような状態でも山に登ったのは、何故だろうか。芳野氏は「とにかく山に登りたかった。ただただ、それだけだった」と証言されているが、つまりは山とはそういうものなのだ。そこに、麓でぬくぬくとしている連中が、自らの安全を謳歌しながら何事か言ったところで、そんな言葉は意味を持たない。ただただ、半可通がニュースを評するのは、暴力的である、ただそれだけなのだ。
先日、S と教会の話をしていたときに、そう言えば僕達は人間崇拝というのには縁がないな、という話になった。
「司教が来られているときに、『司教様、司教様ぁ〜っ!』とか言って追いかけまわしているオバサン連中、あれは何とかならないのかねぇ」
「そうだねぇ……まぁ、あの人達はきっと神様以外の何かを信じているんだろうな」
などとキツい話を平気でしていたのだが……この手の輩は哀しいことにどこの教会に行っても見かけるのだ。そんな連中が、その舌の根も乾かぬうちに、ファリサイ人がどうのこうの、などと言うのだから、全く以てお話にならない。上にも書いたけれど、神以外の(神と自分の間にある)存在を神と勘違いし、無闇矢鱈に持ち上げて、その権威の代執行者を気取ろうとする輩は、見るにつけ本当に浅ましく思うものだ。
この手の輩は、ある領域において高く評価される存在が、一般的に高くある存在なのだと、半ば確信犯的に誤解している。そうしておけば、水戸黄門の印籠の如く、8時45分に周囲を平伏させて自分が胸を張れる、と思っているからに違いあるまい(つくづく下らんな)。ところがどっこい、その反例なんてのは歴史を顧みれば枚挙に暇がないのである。
ざっと思い返して思い当たるのを書いていくと……そうだな……ショックレーという科学者がいた。彼はベル研で世界で初めてトランジスタを発明して、その業績でノーベル物理学賞を受けたことで有名だけど、電子工学者としての彼に高い評価を向ける人がたくさん居たとしても、人間としての彼に同じ評価を向ける人がもしもいたならば、溜息をつかれるか笑われるかのどちらかだろう。ショックレーは白人至上主義者として有名で、あの IEEE Trans. に「遺伝学的に白人が有色人種より優れている」という内容の論文を投稿した(というか、掲載させようとした、というか)位なのだ。それだけではない。アメリカにはノーベル賞受賞者等の精子を扱う精子バンクがあることが知られているが、これを作るのに尽力したのはこのショックレーである。
コンピュータの世界に関わりのある人、ということならば、フォン・ノイマンを挙げるのがいいだろう。彼は紛れもない天才だった。彼は人間の脳の記憶容量を算定したことで知られているけれど、その容量は、現在世間で受け入れられている値より大きい。何故かと言うと、彼は「人は決して覚えたことを忘れない」という前提で脳の記憶容量を計算したからだ。どうしてか、って?彼がそうだったから、だよ。
それ程の才能で知られ、爆縮型原子爆弾のいわゆる「爆縮レンズ」の設計者としても知られるフォン・ノイマンだが、その振舞いは決して他者の尊敬を受けるものではなかった。彼の研究室での一日は、秘書の尻を触ることから始まった、というのは有名な話だし、自分より能力が低いと見做した存在には徹底的に悪口雑言の限りを尽くした。そんな彼が骨肉腫の脳転移で簡単な四則演算もできなくなり、今迄信じてきた己が能力が崩壊したことの恐怖に苛まれながら死んでいったのは、皮肉としか言いようがないのだけど、彼はそういう人だった。
世間でナイスガイだと知られている人だって、違う一面を持つことがある。あのリチャード・ファインマンは、その魅力溢れるキャラクターで未だに愛されているけれど、彼が二番目の妻と結婚するまでの間、共同研究者や後輩達の妻や恋人を寝取っていたのは、知っている人なら誰でも知っている。死せる存在を貶めることが無意味だから、こんな話は彼の伝記にこっそり書かれているだけだけど、事実なのは間違いない。
池波正太郎の言葉は、こういう多面的な人間を受容する上で大きな助けになるだろう:「人は清濁併せ持つものなのだ」。濁った部分だけで人を断ずるのは、池波の言葉を借りるなら「味ない」行為だろう。しかし、人は決して清いだけの存在ではない。都合のいい部分を、水戸黄門の印籠のように振りかざす馬鹿共は、きっとそんなことを考えもしないのだろうけれど。
うちのサイトのアクセス記録を解析していたら、僕が加藤守雄氏の『我が師 折口信夫』について書いた日記にアクセスが入っていたのだけど、折口信夫も、やはり清濁併せ持つ人だった。『死者の書』などで知られた彼の史観、そして文学は、勿論高く評価されて然るべきものである。しかし、國學院の折口門下生だった加藤氏の体験は紛れもない事実で、それが折口の一面だったこともまた否定できない事実なのだ。人は清濁併せ持つ。これを認識できない人は、権威を持ち上げるか、一つの曇りで貶めるかのどちらかしかできないカタワモノなのだ。
僕はゲームというものをすることがない。Windows にくっついてくるマインスイーパーとかも最初っから削ってしまう。そもそも1980年からコンピュータというものに触っている関係上、最初の段階でゲームというものには嫌と言うほど触っているわけで、そこで(条件分岐を含めた「仕様」に支配された)ゲームの内的世界が所詮は人間の創造物に過ぎず、その上でその世界の規則に拘束されて動くことがひどく滑稽に思えるようになってしまったのだ。だから、未だに家にはゲームの類が一切ない。
ただ、ゲームに熱中する人間、というものには若干の興味があるので、何とはなくゲーム販売サイトを覗いたりすることはあったりする。最近は、特にいわゆるエロゲーの人気ランキングなどを見るにつけ「あーこの国には潜在的なペドファイルとかルサンチマンを溢れんばかりに溜め込んだ人とかが増殖しているのかな」などと厭世的な気分になってしまうので、あまり見ないように努めているのだが、でもまあ月に一度くらいは覗いてみるわけだ。
で、最近、ちょっと気になることがあった。その手のゲームの設定などを見ていると、「学園」という言葉が頻繁に出てくるのだ。まあ「学園もの」といえば昔からドラマなどでも王道なので、「学園」という名称を目にしてもおかしくない、という方もおられるのだろうが、じゃあ「高校」という名詞はどうなのか、というと、これが全くといっていいほどに目にすることがない。
で、昨日、たまたまゲームをやっている知人とメールでやりとりすることがあったので、ついでに思い切って彼にこのことを尋ねてみた。返ってきた答を読むと、あーなるほど、と得心したわけなのだが……要するに、ゲームの中では「学園」を舞台として、そこの学生同士であんなことやこんなことがあったりする。しかしながら、それらの行為のほとんどが、高校において行われたら倫理的に……というか、法律的に問題がある行為ということになってしまう、というわけだ。たとえば、恋愛系のゲームで、若き鬱勃たるパトスに暴走する男女が、人気のない校内でエッサカホイサと怪しげな行為に精を出している……という描写があったり、タバコや酒を嗜んだりするシーンがあったりするわけだが、これは高校においてそういう行為を助長するものと捉えられてしまう、というのだ。まあ、確かにそうだろう。
「……まあ、そこまでは分かるよ。けど、舞台をあえて『学園』と書く意図は?」
「だからね。この手のゲームにはちゃんと予防線が張られているわけですよ」
「予防線?高校を『学園』と書くこと?」
「そうです。この手のゲームの最初には『登場人物は18歳以上です』って但し書きが入るんですけど」
「はいはい」
「で、舞台を『学園』としておけば、18歳未満の不埒な行為を助長するのを避けられる、と」
いや、いくら何でも避けられないでしょ。どう見ても高校生の制服にしか見えないものを着ていて、で、登場する女性は例によってなんかロリロリした感じなんでしょ?それで「この人18歳以上だからオッケーです」って、言えるのぉ?
「言える……というより、無理やりそう主張するんですよ」
「主張する?」
「実際の服が明らかに高校生っぽい、とか、見た目がロリロリだ、とかいうのはもう無視してかかるわけですよ」
「無視するったって、ねぇ。実際は自明なんじゃないの」
「まあ、僕らから見たら自明なんですけど、それでもそうじゃない、と主張するわけです」
「……ということは、たまたまロリロリに見えるけど実際は18歳以上の学生だけで構成される『学園』なる学校があって、そこで何やかにやある、ということ?」
「そういうことです」
「でも、どう見ても高校なんだけどなぁ」
「いや、だから、そういう実に都合のいい『学園』という仮想舞台が設定されていて、そこでどんなにロリロリで未成年っぽく見える登場人物がいたとしても、実はその子達はことごとく未成年じゃないんです、という弁明が展開できるようにしてあるわけですよ」
しかしですな、そこに出てくる子達って、例えば……DMM.COM の18禁ゲーム売り場で散見するような、こんなのでしょ?これが皆18歳以上という「お約束」になってるわけ?で、ここで散見される子達は、18歳以上の人間だけで構成される「学園」なる場所に身をおいている、と?
「そう言い切っているわけです。どれだけ視覚的に無理があろうとも、非難する向きには決然としてそう言い切る、と」
はーなるほど。まさに21世紀のサイバーマージナルですな。しかし、そんな言い訳で納得する方もどうかと思うのだけど。