イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
(マルコ 6: 1-6)
イエスにつまづく、というのは、いかにもマルコ福音書らしい辛辣さである。「人は神を解さない愚か者なのだ」というのがマルコ福音書の通奏低音である。人は外面的なこと、血筋や家庭、そういうもので、イエスすらも決めつけ、その内奥の神性に目を向けることをやめてしまう。こういう事々が、今も尚、この短い福音書を読む人々に鋭く突き付けられる。だから僕は、このマルコ福音書が好きなのだけど。
カトリックとして生きていると、このナザレの人々のように、表層的なことにばかり目を向けてしまう人達に会うことが少なくない。昨日のミサでも、僕はそういう人に会うことになった。
聖体拝領のときのことだ。聖体拝領は、キリスト教徒にとっては特別な儀式である。司祭の祝福によって「キリストのからだ」になったホスチア(パン……イーストを使わずに焼いたもので、ウエハースのようなものと言うと分かってもらいやすいかもしれない)を、列になって一人づついただき、それを食べる。それから順に席に戻り、祈りと黙想のうちに、全ての信徒にそれが行き渡るまで待つわけだが、この聖体拝領は、キリスト教における秘跡のひとつとされていて、洗礼を受けた者しか与ることができない。
ところが、どういう訳か、洗礼を受けていないのに、このホスチアだけをいただこうという輩が後を絶たない。そういう輩が聖体を蔑ろにしないために、司会は必ず聖体拝領の際に説明をするのだけど、それでも尚、この手の輩が後を絶たないのだ。
残念ながら、カトリック生活ウン十年の我々が見ると、そういう手合いは一目で分かる。何故分かるかをここに書くと、検索等でここに辿り着いた不心得者がその手の輩に教えかねないので控えるけれど、聖体がどういうものかを理解している信者が絶対にしないことを、そういう輩はしてしまうのだ。
土曜の夕方のミサでは、僕が見ていないと誰もその手の注意を払っていない(日曜朝のミサでは従者が見ていてくれるのだが)ので、最近は特に、その手のチェックをせざるを得ない状況だ。聖体拝領後の祈りを終え、列の先頭の方に目をやると、肩を出したドレスを着た女性が司祭の前に進むのが見えた。信者は通常、このような格好でミサに出てくることを避ける。違和感が僕の目をロックオンさせたところに、普段聖体拝領に与っている人ならば決してしないことをするのが見えた。ああ。またいたのか。どうしよう。
前の席に座っていたUが、くるりと僕の方に向き直る。Uも同じことを確認したらしい。鋭い目で、席に戻っていくその女性と僕に交互に目をやっている。行けってか?はあ。憂鬱だ。
僕は、聖堂の丁度中央に座っていたその女性の方に歩いていった。
「すみませんが……」
と声をかけながら手の方を見ると、ホスチアを指で潰している。あーあ。面倒なことをしてくれる。アンタにはウエハースにしか過ぎなくても、我々には大事な「キリストのからだ」なんだよ。
「そのホスチアを、返していただけますか? 聖体拝領は洗礼を受けた人だけのものですので……」
と言うと、彼女は無表情のままでそれを差し出した。見ると、僕よりも年上に見える女性である。いい歳して、何やってるんだ、アンタは。舌打ちが出そうになるのを堪え、くちゃくちゃになったホスチアを受け取り、司会の方に歩いていく。司会は既に何が起こったのかを察してくれていて、カリス(ワインを入れる器)を片付けかけていた司祭を呼んでくれていた。僕は「こんなになってしまっていましたが……」と呟きつつ、司祭の手にそれを渡した。
聖体拝領を終えた司祭は、チボリウムの中に残ったパン屑を全てカリスに入れ、聖水を注いでかきまぜ、飲み干してしまう。それは、たとえ小さな欠片ひとつであっても、それが「キリストのからだ」だからである。聖体というのはそういうものなのだ。その意味も分からずに、それを貰って、持って帰るつもりだったのだろうが、そういう状態を我々は「汚聖」という。我々にとって、それは聖体の向こうにある、キリストと我々が共有し、大切にしているものが蹂躙されるということだし、それを犯してホスチアを持ち帰っても、それは洗礼を受けていない者にとってはただの物質的なパンにしか過ぎない。そこに込められたものは、そうお手軽に自分のものにできるものではないのだ。
カトリックというのは、とかく儀式として物事が行われるので、そこに引きつけられた人の中に、こういう勘違いを生じさせてしまうことがある。彼らはその儀式や、儀式で使われるものを我が物にすれば、その内奥にあるものまで自分のものにできると思っているのだろうが、それは儀式やものに「つまずいて」いるだけのことである。福音記者マルコがここにいたならば、きっと辛辣に、そして僕より簡潔に、事の真相を書いてくれるかもしれないけれど。
ミサが終わった後、Uから聞いた話によると、この女性は連れの女性と二人で、首からロザリオを下げ(これは、仏教徒が数珠を首から下げる位に不自然な行為である)、あちらこちらを徘徊していたらしい。連れの人は司祭に祝福をしてもらっただけだったのだが、この女性はホスチアを受け取った、ということらしい。ああ。この女性に、今彼女が魅かれているもののその向こう側にあるものが見える日は来るのだろうか。来てくれれば、今日、自分がしたことの意味を知り、悔い、そしてもう少しましな時間を、この教会でも、ここにいないときでも、過ごすことができるようになるのだけど。