荒れた土地、その名は名古屋

私の家から一番近いスーパーマーケットは、ヤマナカというスーパーの系列で高級食材寄りに品揃えをふった「フランテ」という店である。確かに品は良い。しかし少々お高く、生鮮食料品の品揃えがやや手薄でもある。だから、ここで入手しにくい食材を、歩いて十数分程の「マックスバリュ」に買いに行くこともあるのだが、このふたつのスーパーはかなり客層が違っている。

そもそも、今住んでいるのが、江戸時代には武家屋敷、それも位の高い武士の家があったと言われている辺りで、そう荒れた雰囲気はない。だから「フランテ」に来る客もあまり荒れた感じはない。しかし「マックスバリュ」があるのはもっと庶民的な一角であって、ちゃんとしている人は勿論ちゃんとしているのだが、荒れている人は結構な荒れ具合、のようなのだ。

水戸で暮らしていた頃にはまずお目にかかることがなかったのが、愛知に暮らすようになってから頻繁に目にするようになったのが、商品がとんでもない場所に置き去りにされている光景(たとえばスナック菓子の棚に刺身が置かれていたりするような)である。おそらくレジを前にして、

「これ買うのやーめた、でも戻すの面倒だから手近なところに置けばいいや」

ということなのだろう。大阪でも、私の住んでいた豊中・箕面・池田の界隈では(皆無とはいわないが)あまり目にすることはなかったのだが、愛知県という場所(まあ私は刈谷と名古屋しか知らないんだが)では、残念なことにかなりの高頻度でこれにお目にかかるわけだ。

勿論、これは名古屋でも場所によって傾向が異なる。一年弱前に今のところに引っ越してきて「フランテ」で買い物をしてみると、それを目にすることがほぼ皆無でほっとしている位なのだけど、「マックスバリュ」では、残念ながら、この現象を見ない店というのを私は知らない。いやそれは愛知のせいじゃなくて「マックスバリュ」のせいじゃないの?と言われる方がおられそうだが、私は(差別的な言い方で恐縮だけど)「マックスバリュ」に来る層の愛知県人にこの傾向が強いのだろうと理解している(だって大阪の北方面では見なかったからね)。

この現象の根源にあるのは、

「金を払っていない品物は、自分の籠に入っていても自分のものではない」

という概念の欠如、ということなのだろうと思う。残念ながら、商品置き去り以外でもこれに起因する現象を見ることがある。そして、皆が皆そういう輩ではないことも、見ることがあるわけだ。今日はそういう日だったらしい。

夕食の食材で足りないものがあったので、自転車で「マックスバリュ」に行った。この店は毎週火曜にセールがあって、そのためか店内はかなりの混雑だった。レジの前にもかなりの列ができていたわけだが、この店はレジのエリアのすぐ後ろに、エリアを横断するように通路が設けられているので、そこは人の通れる位に空けておかなければならない。こういう状況でどう動くか、というのが、その人がどんな人なのかを露呈させてしまうわけだ。

私の前に、クリアアサヒ 350 ml 缶24本入りの箱を籠に入れた男性が立っていた。彼は感心する程にちゃんとしていて、自分の直前の客がレジ会計の直前に行くまで、人の通る空隙を空けて立っていた。途中、手が痛くなったのだろう。籠を床に置こうとしかけたのだが、ちらりと自分の籠を見、持ち上げ直して耐えていた。

私も彼に倣って、最初は彼との間に空隙を取り、彼が会計の直前になったところで彼の背後についた。彼の前の客が凄まじい量の商品を抱えていて、なかなか進まない。やれやれ、と思いつつ、ふと後ろを振り向いたのだった。

後ろにいたのは、おそらく30代と思われる母親と、小学校低学年と思しき娘の二人連れだった。ちょっと奇妙な母娘で、娘は母親に敬語で話し続け、母親は威勢の良い口調でそれに答えている。私が目前の男性の直後につけたので、この母娘は私との間に人が通る空隙を確保しているだろう……と思っていたのだが、振り向いてみると、すぐ後ろに母娘はい……いや、いなかったのだ。視線を落とすと、彼等の買う物が詰め込まれた籠が、人の通るエリアの中央にどかっと置かれ、母娘はそれを場所取りに置いたつもりなのだろうか、少し離れたところのワゴンに乗せられた菓子を選んでいるのだ。

菓子を選び終えて戻ってきても、それを床に置いたまま、取ってきた菓子をぽいっと放り込んで、母娘は話し続けている。そこに、籠を持ったひとりの老人が通りがかったのだ。彼は通ろうとする。しかし母娘は避けもしない。そしてその目前に籠を転がしたままだ。老人は不快をあらわに顔に浮かべ、唸りながら、母娘の籠を足で蹴って押し遣ると、振り返りもせずに歩き去っていった。

以下、母と娘の会話である。

娘:「え、何?何?」
母:「あのジジイが籠を足で蹴った……ムカつくぅ」
娘:(声が出ない模様)
母:(聞こえよがしに)「私、モラルのない人って大っ嫌いなんだよね。何なんだろう」

この手の輩に限って、自分は正しいと思っている。自分の横暴は知らん顔だ。つくづくこの店は客が荒れているなあ、と溜息をつきながら、店を出たのだった。

"Mother's Taste" or "Taste of Mommy" ?

英語というと、時々イタい表現に出喰わすことがある。その度に、自分はこういうことをしていやしないか、と思い、他人事とは思えず冷や汗が出るわけだけど、同時に何とも腹立たしい気分になることもあるわけだ。

先日も、ある中学生の英語の話を聞いていたら、「食事の会話」なる単元で出てくるらしき Please help yourself. を平然と Please eat yourself. と宣うた。これなどは、自分は正しいと確信していて、テメエの書いたものを確認する為に読み返しすらしないせいで発生するのだろう。莫迦に限って傲慢なものである。

で、思い出した話。これはここにも以前書いた話なのだけど、豊中に住んでいたとき、近くに開店したケーキ屋の看板にこう書いてあったことがあった。

Taste of Mommy
うーん。これってどう考えても "Mother's Taste" のつもりで書いてるわけだろう。きっと "Taste of Honey" 辺りが頭にあって、そこからの連想でこう書いたのではないかと思うんだが、本来企図するニュアンスと異なる(incest or cannibal)ニュアンスが喚起されるのではなかろうか……

ところが、ここになんと後日談が出現したのだ。2017年に韓国で『엄마의 맛』という原題の映画が公開されたそうなのだが、その英題が "Mother's Taste" というらしい。いつまで観られるか分からないが、youtube にある動画のリンクを張っておく。

これを見ると明らかなのだけど、いわゆる "Growing Up" Movie の類いで、若い継母と筋肉ムキムキの息子の間の雰囲気が何やら怪しく……みたいな、そういう映画のようである。悪いがまあ大した映画ではなさそうだ。

辞書を引くと、엄마 = mom, 맛 = flavor らしいので、"Mom's Flavor" とか、それこそ "Taste of Mommy" にしておけば良かったものを。先のケーキ屋の場合と逆の一例といえるだろう。

祝福はしていただきましたか?

facebook の非公開グループに「カトリック」なるものがある。知人が何人かこのグループに入っているので、試しに申請を出してみたら許可された。しかし、そこを流れている書き込みを見て、程なく僕は後悔したのだった。

「祈ります」とか書いてる輩がうじゃうじゃいるんだが、祈りって facebook に書くものなの? まず黙って自分で祈ることが重要だと思うんだが。ああそうか、「祈ります」のこころは「私はほら、祈っているんですよー!皆さん、認知してー!」なわけね。この露出狂が。

あと、毎日の聖人や聖句の類をだらだら書く奴。リタイアして暇なのかなあ。それともひきこもって他にやれることがないとか? いずれにしてもノイズばっかり。しかもその背後に「自分がカトリックだと認知せよ」という感情が見え見え。いやー、本当に厭になる。しかし、こうもアレな連中、監視していないと怖いような気もしてきて、抜けるに抜けられなくなっているわけなのだ。

そんな中、一人のユーザーが写真を公開した。見ると、華美な一連用のロザリオだ。要するにカトリックにおける数珠である。ロザリオの祈りというのは、カトリックの信徒が日常的に行う(行わない人もたくさんいるけどね……例のグループにも、きっと)ものなのだけど、詠唱や黙想と共に「アヴェ・マリアの祈り」を10回唱えるのを一連という。それを数え上げるために使うものだ。

しかし、イカツいヤンチャな面々が手首に数珠を嵌めるのと一緒で、この一連用ロザリオをアクセサリーとして持つ人も結構いるらしい。その写真を上げたユーザーも、持ち歩いて楽しんでいる、みたいなことを書いているわけだ。うーん、何か違和感を感じるんだよなあ。いや、持ち歩くのは勝手だし、アクセサリーとして使うのも勝手なんだが、カトリックのグループでそれを持ち出してきて、ただのアクセサリーでござい、というのも、何ともおかしな話ではないか。

そこで僕は、このユーザーが祈りのためにそれを持っているのか、ただのアクセサリーとして見せびらかしたいだけなのか、ひとつ本人に聞いてみようと思ったのだ。短く、ひとつだけそこに書き込んでみた。

祝福はしていただきましたか?
マトモなカトリックの信徒だったら、ロザリオを貰うなり買うなりして、それをロザリオとして使うのであれば、必ず司祭に祝福をしてもらう。祝福されたロザリオはそこで初めて「その人のためのもの」になり、日々の祈りに使われ、その恵みをその人にもたらすものになるのだ。

で、この質問に、このユーザー自身、もしくはその周囲の「綺麗ですねー」「素敵ですねー」とか美辞麗句を書き込んでいる連中が何を返してきたか。言葉はゼロで、「いいね」が2つ。はぁ? 何が大事なのか分かってるのかなあ。結局はゴシックなアクセサリーを見せびらかしているだけじゃん。何とまあ、下らない連中なんだろう。

お知らせ

突然ですがお知らせです。

実は11月11日に結婚することになりました。おそらくここを読まれている方で、実像としての僕を知っている人はもはや本当に少ないのだろうと思うけれど、彼らの目にこれが触れることを祈りつつ書いております。結婚しても僕は僕ですので、今後ともひとつ、よしなに。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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