愚問
先日のこと。とある中学3年生から相談を受けた。イオンがよく分からない、というのである。
調べてみると、今年の中学3年生というのは、どうも悪いタイミングでこの学年になってしまったようである。この学年から、あの悪名高きゆとり教育が完全に終了し、新しい指導要領に沿ったカリキュラムに全面的に移行しているとのことで、脱・ゆとりに合わせて、イオンに関する項目が大幅に増強されているらしい。
えー、でもたしか、これって移行措置とかいうのがあるんじゃないか……と、もう少し調べてみると、移行措置の段階ではイオンの単元に入れられていなかった事項、たとえば原子の構造のようなことが、今年になってから増えているらしい。だから、この分野に関しては、去年までに増して学ぶ事項が増えているということになるらしい。
うーん。原子の構造ねえ。原子ってのは原子核と電子からできていてだな、原子核は陽子と中性子からできているんだ、これは教わったよな……と話しても、何やら寝呆けたような顔をしている。
「あー。ひょっとして、『中性子って何のためにあるんだか分かんねー』とか思ってないか?」
と聞くと、果たしてその通りだ、と言う。参ったなあ。こんなことも教えないのかよ。
「あー。陽子って、プラスの電気を帯びているんだろ? だったら、同じプラスの電気を帯びたものが集まったら、反発する力がはたらくよな。だから、陽子だけではくっついていられないだろう?」
「はあ」
「ところが、陽子と中性子の間には、核力と呼ばれる強い力がはたらいている。これは電気的な力の数百倍の強さで、陽子と中性子を引きつけている。だから、中性子が仲立ちになることで、原子核は一体になっていられるんだ」
「……」
「この核力が、中間子という素粒子によるものだということを理論的に予測したのが湯川秀樹という人で……って、あー、本当に習ってない?」
「……はい」
こんな調子である。ゆとり教育で呆けているのは生徒だけではないということなのか? ノーベル賞シーズンと前後してこの単元を習うという話だから、そういう話をするのが教師の仕事なんじゃないのかね? ったく、お粗末な話である。
しかし、こんな話はまだ序の口なのであった。この子が持っていた問題集に載っている問題が、まーひどい代物だったのだ。以下に概略図を示す:
上の図は、電解質の水溶液で濡れたろ紙の上に、赤色と青色のリトマス紙が載っていて、その両端には金属製のクリップを経由して直流電圧が印加されている。2枚のリトマス紙の中央には、細く切ったろ紙(上図の黄色の部分)が置かれていて、この細く切ったろ紙には塩酸、もしくは水酸化ナトリウム水溶液がしみこませてあるらしい。この装置(とか言うのも嫌になるような代物だが)を作動させてしばらくすると、どちらのリトマス紙のどちら側(中央の黄色いラインから、右か、左か)の色が変わるか、というのが、この図で示される問題である。
「ほー。電気泳動ってわけか。でさ、君はこれ、学校の実験でやってみたことあるか?」
「はい」
「……うまくいかなかったろう?」
「そうなんですよ。全然うまくいかないんです」
どうして、中学や高校の理科の先生は、こういう愚問を生徒に出題する前に、自分で検証してみようともしないのだろうか。こんなもの、そこらの文房具と理科室に転がっているもので装置を組めば費用もかからないだろう。こんな愚問を得意気に出題している時点で、自分が無能な教師だと喧伝しているようなものなのに、馬鹿だからそういうことも理解できないのだろう。
水素イオンや水酸化物イオンというのは、たとえば DNA の構造解析などで対象とされる物質と比べて、極めて拡散し易い。だから、こんな装置を組んだって、電気泳動による移動がはっきり見える前に、下のリトマス紙にしみこんだ電解質の拡散の方が速く進行するから、こんな実験がうまくいくわけがないのである。どうしてもこれでやってみたいのなら、たとえば全体を電解質を溶かし込んだ寒天で固める、等の対策でもしない限りは、そんな絵に描いたようにうまくいく筈がないのである。
いくら無能な教師だって、塩橋というものを一度位は見たことがあるはずだ(ないとは言わせませんぜ)。なぜ塩橋は中身を寒天で固めているのか。固めなければならないのか。分かるでしょう? ったく、どうしてこんなアホな問題のために、俺の貴重なプライベートの時間が浪費されなきゃならないんだよ。
「Thomas さん、あのー……」
「ん? ああ、あのさ、おそらく、ゆとり教育が終わって、新しい内容で問題を作るのに、まだ先生とかも慣れていないんだろう。だから、ああ、この問題は、イオンが電気的な力によって動くということを言いたいんだな、と、無能な教師の意図を、どうか汲んでやってはもらえないだろうか」
「は、はい……」
こうやって、無能な教師は結局は生徒や受験生に甘えているようなものなのだ。いい加減にしてもらえないだろうか。