僕は、自分自身では全くやらないのだけど、バレエが好きで、NHK でローザンヌ国際バレエコンクールなどをやる時期には、教育テレビで何時間もかかるコンクールを観ていたりする。何故そういうものを観るのか、というと、舞踏というものが如何に過酷で、そして残酷なものなのか、ということに惹かれるからだ。こう書くと分かりにくいかもしれないけれど、もし興味のある方がおられたら、5月に NHK で放映されるはずなので、是非観ていただきたい。背景知識は一切必要ない。中途半端に知識がない方が、むしろ分かり易いかもしれないからだ。
僕が最初にあのコンクールの様子をテレビで観たのは半ば偶然だったのだけど、2時間細の間、僕はブラウン管(まだ液晶じゃなかった)に釘付けになってしまった。身体が形成する曲線、そしてその時間変化、躍動、そういうものが、舞踏の経験のない僕が見ても、その差というものがはっきりと見えてしまうのである。そして、素晴しい舞踏はやはり素晴しい。たとえそれがまだ若い人であったとしても。そう。肉体表現というものは、残酷なまでに人の the art of beauty というものを僕達に突き付けるものなのだ。そしてそれは、たとえ優美に見えていたとしても過酷である。優美な曲線は、過酷な修練で疲れ、削られた身体が形成するものなのだ。お気軽に見ている人には単なるカタチにしか見えないかもしれないけれど、その表現者の立つところに自らの視点を据え、その表現者の呼吸を体感しようとしたとき、人はその下にある過酷な領域を垣間見ることができるのだ。
この舞踏の過酷さ、残酷さを孕んだ美しさは、そのままフィギュアスケートのそれにあてはまる。僕は浅田真央という人のスケーティングを見たときに、瞬時にそれを感じた。そして、他の何人かのスケート選手の演技を見て、やはりその美しさの下に過酷さ、残酷さがあることを確信した。
僕が浅田真央という人のスケーティングを見たときに、最初に感じたことは「ああ、この人は絶対にバレエをやっていたに違いない」ということだった。調べてみると、やはりそれは当たっていて、彼女は越智インターナショナルバレエでバレエを習っていたのであった。彼女がトリプルアクセルを跳べるのは、おそらくはこの経験が大きく関わっているに違いない。それに、彼女のつくりだす曲線の佇まいとその揺蕩い(特にその曲線が肩を経由して両腕で形成される瞬間のそれ)は、やはりバレエをやっている人でなければ形作ることはできないものだと思う。それだけではない。彼女がトリプルアクセルを跳び続けながら、金妍兒のように慢性的な腰痛などを抱えずに済んでいるということは、バレエの練習を基礎とする足腰の柔らかさ、しなやかさがあるからに違いないのだ。もちろん、バレエだけが彼女を形成しているわけではないけれど、あれはやはり土台にバレエがあってこそのものだと思うし、あの曲線を形作れない人というのが、残酷なことに確実に存在するのだ。
そして、音楽をやっている端くれとして付け加えるならば、彼女のコーチで振付けも行っているタラソワ女史は、さすがにロシア人だと思う。ロシア音楽の真骨頂である荘厳さと重厚さ、それを最大限にアピールしているあの二曲(ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」とラフマニノフの「鐘」)を持ってくる、なんて、実によく分かっていると思う。何が分かっているか、って?アートが、ですよ。あの2曲を持ってくるというセンスが、実にアーティスティックなのだ。
ハチャトゥリアンという作曲家は、日本では「剣の舞」の作者として有名だと思うけれど、あの「剣の舞」が実はバレエ音楽だということは、どうもあまり知られていないらしい。そして今回のスケートで用いられた「仮面舞踏会」は、戯曲のための音楽である。十九世紀の帝政ロシアを舞台に、上流社交界の華麗なる仮面舞踏会、そこでの妖しい男女のやりとり、そして妻への疑念からその妻を殺害してしまう男を描いたレールモントフの戯曲のために書かれた曲を持ってくる、という、このセンスは実にいい。ロシアという国のアートへの意識の高さがうかがえるような選曲である。
そしてラフマニノフ(100809・訂正:コメントに書かれてるのにさっき気づきましたが、これはムソルグスキーです……なんでラフマニノフなんて書いたのか自分でも分かりませんよ……)。彼の名も、「展覧会の絵」と共に有名だけど、実はこの「展覧会の絵」がピアノ組曲であることは、どうも日本ではあまり知られていないようだ(補足:『展覧会の絵』は、ムソルグスキーの死後遺品の中からピアノ譜が発見され、リムスキー・コルサコフの補作とラヴェルのオーケストレーションで有名になった曲である)。ラフマニノフは、自身が非常に高い技巧を駆使するピアニストでもあったために、ピアノ曲の名曲と言われるものが数多く存在するのだけど、今回のスケートで有名になった「鐘」も、もともとピアノのために書かれた曲である。ラフマニノフの作品で、声楽のために書かれた曲に「鐘」というのがあって(ややこしい)、今回の「鐘」の方は「前奏曲 嬰ハ短調」(作品3-2)と呼ばれることの方が多いのだが、「幻想的小品集」の一曲であるこの曲は、ラフマニノフ自身のピアノによって1892年に初演され、それ以来音楽好きの間では良く知られる曲である。今回スケートで使用されているのは、おそらくストコフスキーの編曲による管弦楽曲として、であるが、原曲の持つ重厚かつ深み・広がりに富む曲調はちゃんと継承されている。やはり、この曲を持ってくるというセンスには、唸らざるを得ない。タラソワさん、本当に、よく分かっていらっしゃる。
でも一番凄いのは浅田真央その人だろう。重過ぎるかもしれない、他の曲にしようか、と言ったタラソワ女史に、先生が下さった曲だからこれにします、とゴーサインを出したのだから。この曲の良さを分かって、その過酷さを背負うことを決めた浅田真央という人の「覚悟」には、やはり唸らざるを得ないのである。
さて。青嶋ひろのというフリーライターが、浅田真央という人はそういう美、そしてそれを養う努力の重要性に気付いていない、という論旨の文章を書いたという。あまりに低次元な話なので、正直反論する必要性も感じないのだけど、最近はこういう public なところにちゃんと書いておかないと、こんな阿呆な話も妥当性のあるものだと思われてしまうことがあるので、ここにちゃんと書いておきたい。
まあ、この件に関してレトリックを尽くす気にはなれないのだけど、あえて言及するなら、この間の世界選手権の SP の演技を、フジテレビの中継で観ていただければよろしい。ここで、アナウンサーや解説者が喋ったことに注目してはいけない。この中継で、アナウンサーや解説者の言葉が止まってしまったことに注目すべきなのだ。
映像使用権などの問題があるので、YouTube 等で皆さんが捜してご覧頂きたいのだけど、あの日の実況で、浅田真央の SP 演技の後半、実況のアナウンサーも解説者も、何十秒もの間、一言の言葉も発していない。それは、今冷静になって観てみると、まるで放送事故のようにすら見える程だけど、どうして、実況すること、解説することが仕事の彼らが言葉を失なってしまったのだろうか。理由は簡単だ。その美しさに心を奪われたから。心を奪われる、というのは、こういう状態のことを指すのではないだろうか?
先に音楽の話を書いたけれど、こういう状態を作り出すということは、音楽と演技が総合芸術として、話す仕事の人の言葉すら奪いおおせた、ということだ。これを the art of beauty と言わずして、何がアートなんだろうか?
まあ、これだけ言えば十分でしょう。あとは、刮目して浅田真央の演技を観よ、そして感じよ!そういうことなんですよ。