……で合ってるかな。フランス語は専門外なので、間違っていたらご指摘下さい。言わんとするところはお判りと思うので。
表題の通り、いわゆる「仕分け」でばっさばっさと切り捨てているわけだけど、そもそも民主党の議員が independent に判断し、ああ斬り捨てている、と思ってはいけない。個人の責任が問われる状態で、ああもキャンキャン吠えて億単位の金を斬り捨てられるわけがないのであって、その責任を代わって担保している存在があることを、我々は見失ってはならない。その存在が、財務省、もっと正確に書くならば財務省主計局である。
皆さんがニュースでどの程度あの「仕分け」の内実をご覧になられているかは分からないが、あの「仕分け」、実は事前に配布資料が用意され、配布されている。そこには、各々の組織のどこが問題で、どう判断すべきか(「廃止すべき」とか「削減すべき」とか)まで含めて書かれているのである。資料を用意しているのが財務省主計局であるのは言うまでもない。
資料だけではない。あの「仕分け」の始めには、あの場に臨席する財務省主計局の担当官僚が資料を読み上げつつ説明し、「どうすべき」なのかまでを「ガイドラインとして」示し、そこからあの議論が始まっているのである。要するに、蓮舫をはじめとした民主党の議員が吠えているのは、その後ろ立てがあってのことなのである。そして、彼女達が independent に責任を負って出している意見・見解は……断言していいと思うけれど、ない。それが現実だ。
この何日か、「仕分け」の標的になっているのは文科省だ。SPring-8 の予算も切られたし、次世代スパコンの予算も切られた(これなんかはベクトル演算部を諦めさせられた、その上で更に予算を切られているのだからお話にもならない)。そもそも科振自体の予算が切られているし、聞く話によると、文化勲章受賞者でこの何年かのうちにノーベル医学生理学賞を受ける可能性大、と言われている僕の母校の元学長のプロジェクトまで切られたらしい。研究に関してこうもシブチンでは、この国から研究者が(スキルを持つ人であればあるほど)逃げ出す可能性が極めて高くならざるを得ない。
ナポレオン失脚後の欧州で行われた軍縮会議は、表題の元ネタ(フランス外相が言ったといわれる Le congrès danse beaucoup, mais il ne marche pas. 会議は踊る、されど進まず、という言葉)に言われる通り、皆で集まって一騒ぎしたにも関わらず進捗はかばかしくないものの代名詞となった。その言葉に着想を得たオペレッタ『会議は踊る』 は、ロシア皇帝と町娘の恋の話だけど、相手がスピッツみたいに吠えるだけで、ただ財務主計官僚に乗せられているだけの蓮舫では、恋をする気も起きやしない。つくづく、厭な時代になったものだと、ただ嘆息するのみである。
【後記】16日、厚労省管轄の「優良児童劇等巡回事業」(優良な児童劇団の巡回を支援する事業)に対して、仕分けのまとめ役である菊田真紀子衆院議員が「自身の政治的判断」として、初の「予算要求通り」の判定を出した。しかし、これは菊田議員の「子どもに希望を与える事業は大切にしたい」との一存で出された判定であり、しかも概算要求段階で金額が明示されていない段階である。いかに恣意的に「仕分け」が行われているか、これを見るだけでも分かろうというものである。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091110-OYT1T01243.htm
以下、保存のために引用:
「キリスト教は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に
民主党の小沢幹事長は10日、和歌山県高野町の高野山・金剛峯寺を訪ね、102の宗教団体が加盟する「全日本仏教会」会長の松長有慶・高野山真言宗管長と会談した。
小沢氏は会談後、記者団に、会談でのやりとりについて、「キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ」などと述べたことを明らかにした。
さらに、小沢氏は記者団に、「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと私は思っている」とも語った。
小沢氏の発言は、仏教を称賛することで、政治的には「中立」ながら自民党と古くからつながりのある全日本仏教会に民主党との関係強化を求める狙いがあったものと見られる。しかし、キリスト教やイスラム教に対する強い批判は、今後、波紋を広げる可能性もある。
小沢氏の訪問は、来年夏の参院選に向けた地方行脚の第1弾という位置付けで行われた。
(2009年11月10日23時33分 読売新聞)
……うーん。こういうことを言っている小沢氏や、彼の所属する民主党の方が余程排他的だと思うのだが。で、これに関して mixi で書かれている日記の一覧を見ていたら、思わず唸らされた一文があった。当たり前のことを指摘しているのだが、「何者かを賞賛するために他者を貶める人は知れたものだ」というのだ。まさに言いえて妙である。
しかし、小沢氏は、世界で一番信者の多い宗教が何なのか分かっているのだろうか(もちろんキリスト教である)。まぁカトリックはこの手の発言を適度に無視することを歴史的に学んでいるからまだいいだろうが、特にアメリカのプロテスタントがこの発言を知ったらどうなるか、そちらの方が心配である。ただでさえ日米関係が微妙な時期なのに、何も蛇の絵に足を描き足すこともあるまいに。こういうときに人の浅さを見てしまうと、何とも味ない思いがするものだ。
逃亡中の市橋達也容疑者が先程確保された。TBS と MBS の一大スクープである。
僕が書いたタイトルを見て、お気を悪くされた方がおられるかもしれない。しかし、僕が今まで聞いた、逃亡犯の捕まったときの話からすると、まず頭に浮かんだのはこの言葉なのである。警察関係者の書いた回顧録などを読むと、異口同音にこのことが書かれている……どのような逃亡犯も、捕まったときに、皆安堵のため息をつく、というのだ。市橋容疑者も、この何年かの間、写真を撮られることを恐れ、他人と入浴することを避け、いつもひとりで、ひたすら貯金し、形成手術で仮面を被ろうとしていた。その恐怖から解放されるためには、彼自身が縛につき、己の罪を償うしか術がなかったのだ。だから、僕はあえて言いたい。達也君、これで君も楽になったろう、と。
それにしてもメディアというのは恐ろしい。市橋容疑者が確保されるやいなや、容疑者の両親の顔をさらしやがった。両親もメディアの要請に応じてのことなのだろうけれど、なぜ両親までこのように顔をさらされ、カメラの前で社会的責任を総括させられなければならないのだろうか。メディアには明らかに、「自分達は正義の代執行者だ」という驕りがあるに違いない。自らが正義を名乗るものに対して、僕は正義よりむしろ疑いを感じてしまう。なら「正平協」なんてのはどうなるんだ、とか突っ込まれそうだけど、僕はあの団体の名前には疑問を感じている(活動を全否定するつもりも、このような連中に無批判に連帯する気もないけれど)。
【後記】
今日になったら、両親の顔は出さず、局によっては音声も加工している。勢いで出したものは許されるというのだろうか。やはり、メディアのこの対応には不信感が深まるばかりだ。