権力依存構造

平野新大臣も超ゴーマン!!福島原発に行った有名識者を「逮捕しろ」

恫喝めいた暴言で辞任した松本龍前復興担当相(60)に替わって就任、「堅実な実務家」との評もある平野達男復興相(57)に意外な“裏の顔”があった。内閣府副大臣だった4月、初めて福島第1原発に入り実情を調べた独立総合研究所の青山繁晴氏(58)に対し、権限もないのに圧力をかけたうえ、警察に逮捕までさせようとしたというのだ。

政府の原子力委員会の専門委員も務める青山氏が福島第1原発に入ったのは4月22日。津波で破壊された構内や吉田昌郎所長へのインタビューの映像はテレビや新聞などで世界に報じられ、青山氏は「事故の多くは人災による」と訴えた。

その後、内閣府の官僚から青山氏に対し、「なぜ、こんなことをしたのか」と問いただす電話があった。青山氏が「東電の許可も吉田所長の許可も得ている」と反論すると官僚がわびて収まったが、数日後に同じ官僚から「内閣府の原子力委員会担当の副大臣がお怒りだ」と電話があった。その副大臣が、元農水官僚で今年6月まで内閣府副大臣(その後に復興担当副大臣)を務めた平野氏だった。

そのとき、平野氏は官僚の隣におり、官僚に代わって電話口に出た。青山氏は「何の法的根拠と権限があってこういうことをするのか」と抗議した。専門委員は原子力委員会にアドバイスをする立場であり、「副大臣や委員会に指図を受けるいわれはない」(青山氏)ためだ。

平野氏は「権限はない。ただ副大臣として聞いておきたいから聞いている」と説明。「法的根拠も権限もなく役人を使って圧力をかける。強権的だ」と怒る青山氏に「ご不快ならおわびするが東電には話を聞く」と話し、青山氏が「このやり取りはすべて明らかにする」と言うと「何でもやってくれ」と応じた。

青山氏は「私も怒鳴り声だったが、平野氏は非常に高圧的で、東電への圧力もにおわせ“恫喝官僚”そのものだった」と振り返る。

さらに驚くべき展開があったのはその後だ。青山氏は「平野氏を含む首相官邸側から、警察に『青山を逮捕しろ』と圧力をかけた事実があった」と明かす。

災害対策基本法は警戒区域への立ち入りを制限しているが、青山氏は東電や吉田所長に許可を得ており、同法に抵触することはあり得ず、警察は逮捕を拒否した。「閣僚クラスにも(逮捕に)反対する声があった」と青山氏は言う。

それにしても松本前復興相にせよ平野復興相にせよ、なぜ恫喝や圧力をかけたがるのか。青山氏は「民主党は民主主義の普遍的価値に関心が薄い」と同党の体質の問題を指摘している。

(ZAKZAK, 2011.07.08)

民主党関連のこの手の「恫喝」騒ぎは、別に今に始まったことではない。震災直後には、海江田経産相が放水作業を準備していた東京消防庁職員に対して「言う通りにやらないと処分する」と恫喝した、と石原慎太郎都知事が明かし、海江田経産相が陳謝の意を発表したし、菅首相が東電等に怒鳴り散らしたというのは何度も報道されている。

「無理が通れば道理引っ込む」という諺の通り、こういうときに無理を通そうとしたら、道理を無視してかかることになる。道理が通っていなければ、当然納得し難いという話になる。そういうときに、擦り合わせようとか、相手の言わんとするところも貪欲に取り込んでベストな道を模索しようとかいう心がなければ、「俺の言う通りにしていればいいんだ」という話になって「黙ってやれ!」もしくは「こんなことはするな!」という恫喝に至る。まあ、こんなことは小学生でも理解できそうだ。

このようなことになってしまう背景には、やはり「政治主導」という言葉があるのだと思う。いや、勿論、「ちゃんとした」政治主導、なら問題はないのだ。問題が生じるのは、「政治主導」という言葉が「為政者に絶対的専決権能がある」という意味だ、と、愚かにも誤解しているからである。

こんなことを今更書くのも苦痛なのだけど、そもそも日本の行政体制というのは、官僚が実働部隊として動くようにできている。これは明治の昔から何も変わっていない。もし官僚の代わりに政治家が実働部隊となるならば、これは国の行政体制を根本から組み替えなければならない。そして、政治家が実働部隊たり得るスペシャリストにならなければならない。

たとえば、菅首相は、自分が東工大の応物を出ているから「自分は原発はよく分かっている」などと思っているそうだけど、これが本当だとしたらとんでもない話だ。核分裂反応に関して学部レベルの講義を取った位で、原子炉や原子力発電システムに関して理解しているなど、こんな思い上がりはない。原子炉はひとつの巨大なシステムで、たとえそれに関わる一分野のスペシャリストであっても、原子炉全体に関して把握している人などまず存在しないだろう。何十年も原子力関連一筋に研究や実務を重ね、その過程で学位を貰ったりしている人達ですらそうなのだ。それが、学卒でその分野の研究経験もろくにないような輩が何を思い上がっているのだろうか。

そもそも、政治家の為すべき仕事は、その管理対象に直接触れることではない。管理対象を中心とする、多くの人が関わるシステムを、そのシステム内のコンシステンスを維持しながら望むべき方向へ導くことこそ、政治というレベルで行われるべき仕事なのだ。「俺は原発に詳しい」?ハァ?って話である。

まあ、そういう思い上がった人の場合、結局自分に理解できないことが進行している気配を感ずると、不安になる。それを内包した全体をある方向に導くことに専念していればいいものを、内奥に不穏な気配を感じたところで、それのチェックや是正を信頼する者に任せることができない。スペシャリストの職能を(勿論これを盲信していてはいけないのだけど)疑い、コキおろすことだけに執着しているものだから、自分がそこに対して何らかの影響を与えなければならない、と焦る。その結果、自らの権限を以てこの話のように圧力をかける、ということになるのである。

これも今更書くことが苦痛なのだけど、こういう輩は、結局管理能力がないのだ。管理職失格なのだ。そういう人間は、小さな会社等でも厄介もの扱いされるのに、国政などに関わっていたら大迷惑である。権力に依存することでしか事を進められない為政者など、いるだけ有害なのである。

証左

政治家という職は、全うに務める上においては、実に大変なものだろうと思う。その理由は二つあるのだが、ひとつは、政治家の業績というものが専ら結果においてのみ評価されるものだからだ。どれだけ汗をかこうが、不眠不休で臨もうが、そんなことは国民においては何も問題にならない。国民の暮らしや、国の有り様、その未来など、国というものをある意味で決定付ける、その結果においてのみ、政治家の業績は評価される。傍目から見てどんなに不純に見えようが、あるいはハナクソでもほじって股座を掻きながら……みたいな不真面目な態度であったとしても、意義深い結果を残せる政治家は、社会において存在意義のある政治家なのである。

そしてもうひとつ、政治家は現在に対してのみならず、未来に向けて仕事をしなければならないからだ。まあこれは政治家に限定した話ではないのだけれど、先の「結果においてのみ評価される」ということを前提として考えると、これは逃げがきかない、ということになるわけだ。未来は誰にも分からない。しかし、未来に向けた布石が結果を残せるのか、ということで評価されるとなれば、これはキツい話である。

以前にも書いたことがあるけれど、僕は大学の教養部(この言葉も今や死語だなあ)時代に『西洋史学』という科目を受講していたことがある。講義していたのは堀井敏夫という人だった。この堀井氏、細身で背も低い、実に華奢な感じの方なのだけど、研究者としての心の強さをありありと感じさせる人だった。今でも鮮明に覚えているのだけど、堀井氏の講義中に、教室に中核派が2人、覆面にヘルメットというお馴染の格好で入ってきて、講義を無視してアジ演説を始めたことがある。このとき、堀井氏はゆっくりと彼らの方に顔を向けてこう言った。

「君達、覆面を取りなさい」

中核派の2人は、その言葉を無視するかのように演説を続けようとしたが、堀井氏はこう言葉を続けた。

「覆面を取りなさい」

彼らは、何を言うのか、この覆面は我々の闘争においては……と言い始めたのだが、堀井氏はこう言葉を続けた。

「レーニンや毛沢東が非合法時代覆面をしましたか? 覆面をして人々を説得できますか? 説得できる理論があって、それでも成功しないのが革命なんですよ。覆面なんかしてては革命は成功しません。」

この言葉に、彼らは返すことができなかった。彼らは教室を出、教室は喝采に湧いたのだった。

こんな堀井氏が、最初の講義のときに、受講者である僕達にこう聞いたのだった。

「皆さんは、歴史というのはどんなものだと思っていますか?」

皆が答えられずにいると、堀井氏は静かに話し始めた。

「私はね、こう思うんですよ……我々は、一台のクルマに乗って疾走している。そのクルマは窓を塗り潰されていて、我々は目前を見ることができない。目前に何が迫っているのか、確認することもできない、そんなクルマに乗って疾走しているような状況に、我々はあるわけです。しかし、このクルマは、バックミラーだけは見ることができる……歴史というものはこのバックミラーのようなものなんじゃないか、そう私は思うんです」

歴史というものの重要性を、これ程までに直感的に、端的に表現したことばを、それまで僕は聞いたことがなかった。この言葉には、革命前後のフランス史の研究者である堀井氏の魂が籠もっていたのだ、と今でも思う。

僕は一応自然科学者のはしくれなので、この堀井氏が言う歴史以外にも、我々が未知の未来に立ち向かうための術を挙げることができる……それは、科学的方法論だ。客観的なデータを集め、その中に普遍的に成立していることを見出し、それを基にして未来を予想する。もちろん、これは時として、外挿 extrapolation というものの持つ危うさを孕んでしまうわけだけど、その限界を熟知している限りにおいて、この科学的方法論は極めて有用性が高い。

そして、もうひとつ、我々が持つ術というものがある。それは、哲学だ。哲学というのは、対象を限定しない。この世に現存する、もしくは仮想される凡そ全ての事象に対して、それを理解するための試みの集成が、哲学と呼ばれるものの正体だ。それは決して空論でも知的遊戯でもない。そして、未知なる未来に人が立ち向かうときに、そのクルマをハンドルやアクセル、ブレーキでどのように動かすべきなのか、ということに対しても、それは重要な意味を持つ。誤解を恐れずに言うならば、先の科学的方法論だって、広い意味では哲学と呼ばれるものの一形態に過ぎない。哲学というのは、決して単なる空理空論ではないのだ。

たとえばフランス人は、このことをよく分かっているから、未だにバカロレア(大学入学資格試験)の初日の最初には哲学のテストが行われる。フランスでは、大学に入るため(だけではなく、高校卒業資格を得て有利な就職をするためにも、なのだが)には哲学が必須なのだ。しかもこの哲学の試験(だけでなく、バカロレアの口述以外の問題は皆そうなのだが)は論述式である。3問程度の問題に対して、各々小論文形式の回答をしなければならない。つまり、フランスにおいて「哲学がない」ということは、比喩ではなく「教養がない」ということに等しい。しかし、日本という国では、他の先進国と比較しても尚、哲学というものが信じ難い程に軽視されている。哲学について……と話し始めたら、ほとんどの人が話すことを拒否するか、笑って誤魔化すかのどちらかだろう。

しかし、先にも書いたような未来へ疾走するクルマの舵取りをする人々……つまり政治家ということになるわけだが、彼らにとって、この哲学というものは、比喩ではなく「必ず求められるべきもの」だろうと思う。もし人に「あなたの哲学は」と問われたら、まさに政治家としての資質のアピールをする絶好のチャンスに違いない。今風に言うならば「ドヤ顔」で、自らの理念を語る……そうあるべきものだろう。

さて、昨日の菅直人内閣総理大臣の会見において、そういう意味から、非常に興味深いやりとりがなされた。首相官邸のサイトで公開されている書き下し文から、該当部を以下に引用する:

(内閣広報官)

それでは、次の方。

島田さん、どうぞ。

(記者)

フリーランスの島田と申します。よろしくお願いします。3・11の後に、日本の国民性、社会性というものにいろいろな変化が起こったと、いろいろな言論が増えております。菅総理の中で3・11後、哲学が変わったこと、またそれをどう国民に、菅総理の哲学を伝え、それを指導していこうと思っていらっしゃるのか。その辺のご自身のご意志をお伺いしたいと思います。

(菅総理)

私はこの3・11、地震、津波、そして原発事故、これを体験した多くの国民、あるいは全ての国民は、このことを自分の中でいろいろな形で考え、そして自分の行動の中にその経験をある意味で活かそうとしておられるんだと思っております。やはり何といっても、こういった大変な災害が生じたときに、家族やあるいは近隣の皆さんとの関係、あるいは会社や自治体や企業や、色々な人間と人間のつながりこそが、やはり最も頼りになる、あるいは自分たちが生きていく上で重要だということを、それぞれの立場で痛感をされていると、そのように感じております。そういったことをこれからの日本の再生に向けて、是非色々な形で活かしていきたいと考えております。

先日も「新しい公共」、鳩山前首相のときから取り組んできたこの中で、NPO等に対する寄付金の控除を大幅に拡大する法案が成立を致しました。こうしたことも、今回の大きな事故、失礼、大きな災害というものから立ち上がっていく上で、国の力あるいは税金による支援と言いましょうか、そういうものももちろん重要でありますけれども、やはり一人ひとりの人たちがその気持ちを持ち寄ってお互いを支え合う、そういうことがもっともっと拡大するように、そういった税制度についても一歩前進が出来たと、このように思っております。

あまり思い出話をしても恐縮ですが、私が1年生議員の頃にアメリカに出掛けて、コモンコーズとかコンシューマーズ・ユニオンとか多くの市民団体を訪れました。ほとんどの団体は100人、200人という、給料はそう高くないけれども、給料を払って雇っているスタッフがおりました。そのお金は、ほぼ全て寄付によるものでありました。私は日本に帰って来て、そういう寄付文化について、日本でももっと広げられないのか。市川房枝先生の選挙などはカンパとボランティアと言われておりましたけれども、しかし規模において、アメリカのそうしたNPO、市民団体の財政の大きさとは、もう桁違いに違っておりました。それから既に30年が経過致しましたけれども、今回のこの大震災の中で、そうした助け合いというものが、例えば今申し上げたような寄付という形で、そうした具体的な形が広がるとすれば、私は大きな進歩ではないかと、このように考えております。

……この問答を読んで、皆さんはどのように考えられるだろうか。僕は、これこそ「菅直人はロジカルな問答ができない」ということ、そして僕が前から何度も何度も言っている「菅直人には哲学がない」ということの、これ以上はない証左だ、と思ったのだが。

日和った民主党執行部

会期末前夜の迷走劇  四面楚歌の首相“軟化”

(東京新聞 2011年6月22日 朝刊)

菅直人首相の退陣時期と今国会の会期延長幅をめぐる二十一日の調整は迷走に迷走を重ねた。退陣時期の明示を嫌がる首相に対し、民主党執行部の説得工作は難航。同日夜になって、首相もやや柔軟姿勢を示し、八月中の退陣につながる可能性がある七十日間延長を容認したが、野党側が受け入れるかどうか。前代未聞の迷走劇の結末は結局、国会閉幕日の二十二日に持ち越した。 (政局取材班)

「世の中はままならぬものだ」。民主党の岡田克也幹事長は二十一日午後、首相が説得に耳を貸さないことに周辺にこう漏らした。

同日、岡田氏がまとめた案では延長は五十日間程度とし、成立させるのは公債発行特例法案と二〇一一年度第二次補正予算案に限定。わざわざ、第三次補正予算は新首相が編成することも加え、首相が八月には退陣することを事実上約束した形になっていた。

どちらかといえば、首相よりも早期退陣を求める野党側に配慮したといえる。岡田氏としては首相の意向よりも、国民生活に影響を及ぼしかねない公債発行特例法案の成立を確実にしたかった。

野党側は岡田氏の狙い通り、賛成する考えを示したが、首相は納得しなかった。首相の退陣時期を事実上明示するのは首相にしてみれば、岡田氏らによる「クーデター」に映る。

首相がこだわっている再生エネルギー特措法案の扱いを成立ではなく、「審議を促進する」にとどめたことも許せなかった。

首相は岡田氏に対し、公債発行特例法案の成立について「本当に成立の担保がとれるのか」とかみついたという。

首相の態度に党幹部は「もう、やるべきことはやった」と一時、あきらめ顔になった。

同党の平田健二参院幹事長は記者会見で「何が再生エネルギーだ。公債発行特例法案を早く通さないと予算執行もできないではないか」と首相を強く批判した。

党内が首相批判に傾く中、首相も同日夜になって変化した。岡田氏との同日夜の会談で首相は延長規模を七十日とした上で、再生エネルギー特措法案の扱いを「審議促進」ではなく、「早期の審議・採決に協力」と修正し、「新首相」の表現を「新体制」に弱めることで岡田氏の提案を受け入れた。

今後を考えれば、首相としても与野党合意による円満な形で延長したい。「四面楚歌(しめんそか)」の中、首相としては再生エネルギー特措法案成立の可能性をかろうじて残すことで折り合わざるを得なかった。

三次補正の表現を「新体制」に弱めさせたのは、可能性は薄いが、なおも自分が続投して関与できる細い糸をつなぐための首相の計算ともみられる。

問題は自民党など野党だ。自民党の石原伸晃幹事長は検討する考えを岡田氏に伝えたが、党内で協議した結果、少しでも首相の延命につながる道が残るのであれば、延長を拒否する可能性もある。

上引用記事で「新たな首相」という文言を「新たな体制」に改めた、とある。これはどうも菅直人が「新たな首相」という文言に対して抵抗したためだ、と言われているらしいのだが、これでは菅直人の粘り勝ちである。

こういうものは、決めるプロセスでゴチャゴチャした話になっても、後まで効力を発揮するのは、結局は決められた文言それ自身のみである。「新たな体制」とあるのをそのまま解釈するならば、それは「新たな首相」を意味するものではない。新たな内閣、つまり内閣改造を行いさえすれば、この文言に合致することになるのだ。これでは菅直人を辞めさせる上での効力を持ち得ない。

岡田幹事長は、最悪の場合は自らの辞任と引きかえに菅直人に辞任を迫るだろう、と言われているのだが、鳩山由紀夫のときに彼が小沢氏を道連れにしたのとは話が違う。おそらく岡田が辞めれば、菅直人はもっけの幸いとばかりに骨抜きになった新たな幹事長を据えて、自らの思うままに振る舞うだけのことである。

民主党執行部が本当に菅直人の辞任を実現したいのならば、上引用記事にあるような文言変更は「日和った」以外の何ものでもない。菅直人を本当に辞めさせたいならば、期日を切って承諾させ、それを国民に対して会見で、菅直人自らの声を以て表明させなければならない。密室でどれだけ口約束を交わしても、菅直人は平気で反故にするだろう。いい加減、皆、この菅直人という男を信用しないように努めなければならないのだ。

ゴルゴ待望論

昨日の『たかじんのそこまで言って委員会』を観ていて、原口前総務相にツッコミを入れたのは僕だけではあるまい。彼は、あの民主党代議士会で涙を浮かべて「若い人に道を譲る」発言をした菅直人が、あのとき辞任を口にしたものだと信じていた、と(どうやら原口氏は本気でそう思っているらしいから始末が悪いのだが)彼が口にしたとき「あれで信じたんかい!」と、思わず呟いてしまった。

拙 blog『混迷』で、僕はこう書いたのだった:

まあ、可能性として一番ありそうなのが、恥知らずの必殺技「馬鹿になる」だろうか。自分は馬鹿だから分からない……と言ってしまえば、全ての追及に知らんぷりすることができるというわけだ。いやはや、これから日本はそういう首相に翻弄されることになるのだ。もうこの国の未来は暗い。日本は既に沈みつつあるのだろう。
どうです?僕の書いた通りになったでしょう?

まあ、恥知らずというのは最強だ。民主党執行部は、菅直人が辞意を明示しない場合は自分達が辞任して菅直人に引導を渡す、と言っているらしいけれど、おあいにくさま。アンタら辞めたら、ウルサいのいなくなったじゃーん、と喜んで、執行部に寺田学みたいな若手の子飼いを並べて、自分はがっつり居座って、ますます政治は混迷の一途になるだけのことだ。菅直人に矜持とか美学とかを暗に求めても、そんなこたぁ無駄なんだよ。

ではどうしたらいいのか。はなはだ不謹慎な話ではあるが、僕の周りでは、ゴルゴ13がいたらなあ……という話をする人が非常に多い。僕の周囲だけかと思っていたら、何週か前の『そこまで……』で勝谷氏が同じことを言い出したので、思わず笑ってしまったけれど。いや、国会議員で議員在任中に殺されたのって、たしか戦後になってからは、山村新治郎と浅沼稲次郎……あと石井紘基か。だから、もしそういうことになったら4人目ということになるんだろうけれど、いやはや、それ位しか手がない、というのが現状なのだ。

なんでも、菅直人周辺では、郵政選挙に倣って、「自然エネルギー選挙」を仕掛けるために解散したらいいんじゃないか、という話が出ているらしい。この東日本大震災後の、選挙など無理に決まっているような自治体が複数あるような状況で、そんな話をしていられる連中に、我々は政権を託してしまっているのだ。この現状は、一刻も早く、どうにかして打開されなければならぬ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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