ギャンブル小4生

僕は、一応は「センセイ」と呼ばれる立場でこの何十年かを過ごしているわけだけど、いつでもその呼ばれ方に違和感を感じている。いや、人に何事かを教える際は、今持てる力を惜しまず注ぎ込むように、そして教わる側の資質や状況を軽々に断ずることのないように細心の注意を払っているつもりだ。しかし、それでも「センセイ」と呼ばれることには抵抗を感じるし、そう呼ばれることにステイタスを感じたり、その呼び名を以て存在を主張したりする気にはなれない。困ったことに、僕は自分のそういうところが好きなのだ。こういう違和感……というか「居心地の悪さ」というか……を感じているからこそ、自分には人に何事かを教える資質があるのだと思っているし、それを無くしてしまったら、人として大事な何事かを失ったということなのだ、と思っているのだ。

僕がそういう思いを持った原因は、おそらくは僕が小学4年生だった頃にまで遡る。当時、僕は成績は良かったのだが、授業態度が非常に悪かった。教科書なんて、学年はじめの1週間で頭に入れてしまうのだが、ちんたらちんたら授業をやっているのが退屈でたまらない。だから、先生の説明を先読みしてそれを言ってしまったり、私語や、関係のない本に目を通していたり、挙句の果てには寝たり……まあ、教師からすると、実に困った児童だったに違いない。

そういう僕のことを、何人かの先生方は面白がってくれていたらしい。大分後になってからのことだけど、母が、僕の小学校の近所にある喫茶店にコーヒーの豆を買いに行って、豆を挽き終えるのを待っていたとき、店の主人から名前を呼ばれたら、横でコーヒーを飲んでいた数人の集団から、一人の女性が歩み寄って声をかけてきたらしい。

「あの…… Thomas 君のお母さまですか?」

吃驚しながらも、そうだ、と答えると、僕がいかに変わった面白い児童だったかを、その人は滔々と母に話し出したのだ、という。名前を聞いて分かったのだが、それは僕の担任になったことはなかったけれど、挨拶や世間話位はすることのあった先生だった。いや、有り難いことだなあ、と思ったのを今でもよく覚えている。

しかし、そういう先生ばかりだったわけではない。特に、4年のときの担任の女性教師は、僕にとっては最悪の教師だった。品行方正な優等生(と言っても、テストの点数は僕に及ばないのだが)を可愛がり、僕を敵視する。まあ前者は理解できるとしても、何故僕が敵視されなければならないのか。当時の僕にはそれが謎だった。ただし、ひとつだけはっきりしていることがあって、それは、この教師は僕にとって味方ではない、ということだった。この学年で、僕は1度だけだが、通信簿にひとつも5がない、というのを体験した。テストでは常に90点以上を確保していたのに、である。

そして、ある日の授業前のホームルーム。教師は、行われる学年テスト(期末テストに相当)の説明をしていたのだが、僕と目が合うなり、こんなことを言い出したのだ。Thomas のような生活態度の子に、良い成績が取れるはずがない、と。なぜ皆の前でそんなことを言われなければならないのか。さすがに僕も怒りが湧いた。そして、この先生に向かってこう言ったのである。

「先生、賭けをしませんか?僕が良い成績取れないって言うのなら、僕が100点取ったらラーメンおごって下さいよ」

今にして思えば、この教師は本当に馬鹿だったのだと思う。子供の戯言と、この時点で無視しておけばよかったのだ。しかし、なにせ馬鹿だから、それができなかったらしい。彼女はこの賭けに乗ってしまったのだ。クラスの全児童の、その目の前で。

テストが終わり、返却されてくると、クラスの児童、特に男子の間では大騒ぎになった。国算理社4科目、各2枚づつ、合計8枚のテストのうち、僕は4枚で100点を取ったのだ。そりゃあもう大騒ぎである。

「これってさあ、4杯おごってもらえるってことか? だったら1杯まわしてくれよぉ」

さあ、この女性教師がどうしたか。シカトしたのである。すべきでない約束をしておいて、まるでそれが存在しなかったかのように、完全に無視したのだ。僕はこのとき、「鉄面皮」という言葉の意味を初めて実感した。いやあ、こんなことがあるんだなあ、と思った。そして、ああ、この人は、そういう人なんだな、と思ったのだ。

有り難いことに、その反面教師としての彼女の像のおかげなのか、僕自身はそういう手合いになることなく、今日まで生きてくることができた。しかしねえ。飲み屋で飲んでいたり、食事をしていたり、あるいは友達に子供の話を聞いていて、人としてどうなんだろう、と思うような教師を目の当たりにしたり、その話を聞いたりする度に、僕の頭にはそのテストのことと、その鉄面皮の女性教師のことが浮かぶのだ。もう退職されていると思うけれど、いっそあそこで辞めておきゃよかったんじゃないのかねえ。大人になった一人の人間として言うけれど、アンタら、クソだぜ。この世に居ない方が良いんじゃないの?何が教師だ、何が教育者だ、今思い返しても、その資質の欠片すら、アンタは持っていないんだろうに。

○○以外全部××

音楽用に使っている Dell inspiron 1501 のディスプレイが突然表示できなくなった。どうやらインバータの故障らしいのだけど、インバータだけを交換したり、バックライトを自力で交換したりする気力は今はない。新しい機種に更新しようか、とも考えたのだけど、少なくとも現状のレコーディングには今以上のマシンパワーは(そりゃあればある方が良いのだけど)是非とも必要というわけではない。プラグインのセットアップの手間を考えると、現行機種のままでちょっとの間は使い続けたい。

ということで、ヤフオクで Inspiron 1501 の出物を探す。そうそう、Vostro 1000 ってのもあったっけ(ビジネスユースのモデルで、中身は Inspiron 1501 と同じ)、と探してみると、キートップが一部破損した Vostro 1000 を発見。これを落札した。どうせ僕の場合は ASCII 配列のキーボードに換装してしまうのだから、JIS 配列のキーがどうだろうが関係のない話である。

早速送られてきた Vostro 1000 をチェックする。おー、思っていたよりも程度が良い。特に ExpressCard スロットは全くと言っていい位使用形跡なし。なるほどねえ。僕のようにここに eSATA ボードを突っ込んで、とかいう奴は少数派なのか。

とりあえず HDD だけを換装してみると、若干怪しいところがあったものの、Windows のライセンスの問題も発生せず、普通通りに使える状態になった。しかし、この Vostro 1000 の CPU は Mobile Athlon 64 で、そりゃあもうクソ遅い。うーむ、帰ったら換装かなあ、と思いつつ、仕事に出掛けたのだった。

ハードな仕事から帰ってきて、一息ついたら換装作業を開始。何が苦しいって、こいつは CPU の換装のためにディスプレイを外さなければならないのだ。何なんだかなあ……と思いつつも、メインボードが剥き出しになるところまで、新旧2台をバラす。ついでに無線 LAN のボードも換装しておくことにしよう。

もともとの Inspiron 1501 に装着していたのは、ちょいとマイナーな Turion 64 X2 というCPU である。リリースされた中で二番目にクロックの速いモデルを装着していて、これとメモリを潤沢にしておいたおかげで、この年代物が未だに何とか使いものになっているわけだ。これを Mobile Athron 64 と交換して、ついでに mini PCI Express 端子に挿さっている無線 LAN ボードも交換しておくことにする。もともとここには Dell の純正ボードが挿さっているのだが、僕のもともとの Inspiron 1501 では Intel のボードを使っていたので…… Linux の方の kernel の reconfig が面倒だし。

かくして、問題なく元に戻った Vostro 1000 は、今 Debian のパッケージの更新中である。この状態で寝て、明日起きてから、音楽関連のチェックを行えば、あとはゆっくり休める……いや違う。録音の準備なんだよこれが。結局休めやしないというわけなんだが。まあ、これも性分なんでね。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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