To be, or not to be, that is the question.

パリで起こった連続テロに関して、まずは心より哀悼の意を表する。そして、これが連鎖に至らないことを心より祈る。

で、だ。facebook では早速、自分のプロフィールの写真をトリコロールにするオプション、というのが提供された。何人かの僕の知人も早速トリコロールにしている。僕は彼らを批判するつもりはない。しかし、自分のプロフィール写真をトリコロールにする気には、残念ながらなれそうもない。

それは何故か。哀悼の意というのが、そういうテンプレに対応するというアクションで「お手軽に」表明すべきものではない、ということがまずひとつある。何度も言うが、他人のそれを否定する気も、批判する気もない。僕自身の個人的な信条の問題に過ぎないし、それは一般人から見たら、きっと頭の固い考えかもしれない。

そしてもうひとつ。何かにあるアクションを暗に求める、という、この全体主義的な風潮が嫌なのだ。そういう風潮は、反テロよりもむしろテロ側の思想に近いように、僕には思われてならぬ。集団の信条が個の信条に勝って求められる。そしてそれが自己保存の本能を超えて発揮されることが美徳とされる。そういう思想には、僕は断固として反対の立場をとりたいのだ。

再び、哀しい聖体拝領

前から書いているように、僕は日曜の朝のミサに行っていない。それは、僕の所属教会が司教座教会であるために、周辺のあちらこちらから人が集まってくるためなのか、嫌な思いをさせられることが多いからなのだけど、一応主日のミサというのは土曜の夜から始まるものなので、土曜の夜のミサに代わりに行っているわけだ。

で、昨日のミサ、聖体拝領のときのこと。僕は大抵前の方に居るので早めにいただくことになるわけだが、自分の席に戻って、短い祈りをした後に、拝領する信者の列に目をやっていた。前にも書いた通り、洗礼を受けていないのに聖体拝領に与ろうという不心得者がいるからである。

この手の話を書くと、こういうことを言われることがある:

どうせ洗礼を受けていない人にとってはただのウェハースなんでしょう?食べるにまかせておけばいいんじゃないんですか?
それは傲慢というものである。洗礼を受けていない人にとってそうであっても、信徒にとっては、聖化されたホスチアはキリストのからだなのだ。それをないがしろにするのは、たとえば仏教だったら、寺の仏舎利塔をあばいて、「どうせただの灰なんでしょう?」と中身をないがしろにする、とか、神道だったら、神社の神体を取り出してきて「たかが磨いた金属板でしょ?」とないがしろにするのと同じことなのだ。これは断じて許し難い蛮行なのだ。

さて、その聖体拝領の列を見ていると、大学生位と思しき女性が、司祭の前できょときょとしている。ん……と見ていると、横に居た年配の女性信者が確認を取り、その女性は司祭に祝福を受けていた。ほっとしたところに、その後ろにいた家族連れらしい4人連れが司祭の前にやってきた。父親、母親、息子が二人。息子はいずれも小学校低学年位だろうか。見ていると、先頭にいた少年が、司祭からホスチアを貰ったのである。

これは明らかにおかしなことである。カトリックでは、幼児洗礼を受けた信者の場合、だいたい10歳位になると、要理教育を受けてから初聖体を受ける。つまり、この少年の歳の頃では、まだ初聖体前である可能性が高いのだ。おかしいなあ……と思って見ていると、もう一人の少年の番になった。この少年は、明らかにどうして良いか分からない風だ。何となく、司祭の方に両手を伸ばしてはいるのだが、聖体拝領の所作を明らかに知らないようである。

そこで、驚くべきことが起きたのだった。後ろにいた少年の父親が、後ろから手を伸ばして、少年の手を広げさせたのである。司祭は親に確認しているようだったが、親が受洗していると答えたのだろう、その少年にも聖体を渡した。その後に母親、最後に父親が聖体を受け取ったのだが、父親は両手に聖体を包んだまま、それを持ち帰ろうとした。これは聖体拝領の本質を理解している者が決して行わないことだ。僕は眩暈のするような思いだった。こいつら、一家揃ってやらかしたのか!

僕が立ち上がり、その父親のところに歩み寄ろうとすると、この父親は雰囲気に気付いたのだろう、掌の間に包んだホスチアを口に放り込んだ。この場での確証が消えてしまったので、仕方なく僕は再び席に座ったのだが、僕は未だ自分の目前で起こったことが信じられなかった。親が渋る子供に聖体拝領させていた、ということか?信じ難い話だが……

その後、閉祭の歌の最中に、一人の年配の信者がすっくと立ち上がり、前に歩いていった。一枚のホスチアが落ちているのを見つけたのだ。彼はもう引っ込んでしまった司祭のところに、それを渡しに行った。あーこれは酷い、酷過ぎだ。僕は後ろの方に目をやった。先の一家はまだ後ろに揃っている。僕は閉祭の歌が終わったところで、聖堂の後ろに歩いていった。

一家は揃って、自分達のやったことなど忘れてしまったかのように、祭壇の正面まで歩み寄り、その左右の石像などを眺めている。僕は、父親の方に歩み寄った。

「失礼ですが……洗礼、受けられていますか?」

父親はん、はぁ、何だコイツ、みたいな顔をしてこちらを向き、

「え?……いえ、受けていませんが」

やっぱりだ。僕は多少声を荒げて、聖体拝領は受洗者しか受けられないことを説明して、

「それだけじゃない。あなたのお子さんは、よりによってホスチアを床に捨てましたね? 」

と言うと、この父親、何を思ったのか、にやにやしながら「はあ、そうですか」と言うと、踵を返して、子供と妻と一緒に、聖堂の中を周るように歩きながら出ていったのだった。

僕がそのとき何を思っていたかって?いやあ、あの二人の子供が可哀想で可哀想でならなかった。子供は親を選べない。あんな親に育てられたら、きっとあんな大人に育ってしまうことだろう。何と哀しいことではないか。本当に、哀しくてやりきれない思いだった。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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