我が家では、お好み焼きを食べることが結構多い。お好み焼きというと「粉モン」と呼ばれ、炭水化物がっつり……みたいなイメージがある食べ物なのだろうと思うのだけど、私自身はそういうイメージがあまりない。勿論炭水化物が少ない、とは言わないが、キャベツをがっつり食べられるもの、という印象の方が強いのだ。それは私の作り方にも関係しているのかもしれないので、せっかくだからここに記録しておくことにしようと思う。
まず生地だが、基本になる量は、
- 全卵 2個
- だし 100 cc
- 小麦粉(量は後述)
- ベーキングパウダー(量は後述)
というところか。ボウルに全卵とだし(かつおベースで濃い目にとったものを冷まして使用)を入れてホイッパーでよく溶いたところに、小麦粉を振り込みながらホイッパーで合わせていく。ややもったりと、ホットケーキの生地よりこころもち柔らかいかどうか……位になったところで粉の投入を止める。目安としては、上の全卵とだしの量に対して 60〜70 g 程度ではないかと思う。小麦粉の袋をキッチン秤で秤量しながら行うと、投入した小麦粉の量をおさえやすい。小麦粉の量が決まったら、投入した小麦粉の質量の 3 % 程度のベーキングパウダーを投入する。「膨らし粉なんて邪道や、ふっくらさせるなら山芋やろ」……ええ分かります。その場合はだしを半量位に減らして、すりおろした山芋を入れて、最後に残りのだしでかたさを調節して下さい。だしの代わりにかつお粉 + 水を使用しても良い。山芋を使う際はこちらの方が水分調整がし易い。
野菜はキャベツ。春キャベツだと完全に溶けてしまうので、できれば「寒玉系キャベツ」と呼ばれる、巻きの密なものを使うと良いかと思う。買う際は、巻きがしっかりしていて、持ってずっしり重いものを選んでいただきたい。これを千切りにして使用する。細かさは概ねトンカツの付け合わせ程度で良いのだが、長さが長過ぎると絡みやまとまりの上で扱いにくくなるので、刻んだ後で長手方向に包丁で半分に切るようにすると丁度良いかと思う。
生地とキャベツを合わせる際に注意すべきなのは、生地を入れ過ぎないこと。これは私の考えなのだが、お好み焼きはキャベツを食べる料理であって、生地はキャベツをつなぐことができればそれで良い。だから生地は1枚あたり大さじ3〜4程度で十分である。まず最初に,小さめのボウルに全量の半分以下の量のキャベツと生地を取り、大きめのスプーンで合わせてから、残りのキャベツを投入して合わせていくと、キャベツの表面が生地で濡れた程度のミックスができあがる。え、こんな少なくていいの? 位が実は丁度よろしい。昔、これと全く同じことを島田紳助氏が言っていたなあ。揚げ玉とか紅生姜とかはお好みで、このタイミングで入れて下さい。
焼き方だが、私は樹脂加工したフライパンを使う。火加減は中火(炎の先端がパンの底に丁度当たる位)で固定。少なめに油をひき、生地を残さずフライパンに広げる。やや厚めの円盤状、厚みを揃える(焼いているとやや膨らんでくるが)のがコツだろうか。縁をスプーンの腹でくるりと整えてから、上面に豚肉(定番のバラスライスでも良いが、豚小間でも肩ロース、ロースのスライスでも良いと思う……やや固くはなりますが)をひいて、蓋を隙間なくする。タイマーをセットして、ここから5分(大きい場合は6分位でも良いが)焼いていく。5分経過したら蓋を開けて引っくり返し(かなり柔らかいので、フライ返しだけで返すのではなくパンを振って返す方が安全)、再び蓋をして5分焼き、もう一度返したら焼き上がりである。皿に盛り、ソース等のトッピングをお好みで。私はまずソース、その上に辛子マヨネーズを少々、かつお粉と青海苔……という感じだろうか。
ポイントは、
- 生地をゆるくし過ぎない
- 生地は極力少なめでキャベツたっぷり
- 火加減は中火
- 蓋を使い、時間を守ること
であろうか。粉の生地がボソボソのところに、キャベツに十分に火が通っていないボソボソバリバリのお好み焼きが私は好きじゃないので、こういう作り方に落ち着いたというわけ。一度お試しあれ。
所属教会の土曜の夕ミサ(教会の扱いとしては主日のミサ……日曜朝のミサ……と同じ扱いなのだが)の先唱者をこの何年かずっとやっている。既にこの奉仕をやっていた老齢の男性二人に声をかけられ、3人いれば交代でできるし、互いの都合に合わせて融通できるだろう……ということで引き受けていたわけだが、程なく一人が重度の難聴で行うことが無理になり(いや、これは不可抗力だからいいんだが)、もう一人は経営している海外のコテージに行ったきり帰ってこず(こちらは確信犯っぽい)……ということで、ほぼ独りでずっとこれを行っている。私は個人的にはこういう状況が非常に苦痛なのだ……いや、土曜に好き勝手できないから、ということではない。
そもそも、私の所属教会というのが、この手のことにおいて非常にいい加減なのだ。もっと正確に書くならば、所属教会の典礼委員会なる組織が、である。本来ならば、そういう組織が各典礼奉仕の人材を確保し、指導をし、必要に応じてマニュアル等を作成するのが当然の筈だ(実際他の教会……たとえば八事の南山教会とかね……はそうしている)。ところが、所属教会の典礼委員会はこういうことをまぁやっちゃいねぇ。私が先唱を引き受けたときにも、マニュアルも何もない状態だったから、まず自分用にマニュアルを作るところから始めたのだった。ミサというものにはもう数十年も慣れ親しんでいるわけだけど、いつでも何処でも何もかも一緒というわけではない。だから、やはりマニュアルはあった方が良い。
他にも、たとえば典礼奉仕としての聖書朗読などにおいても、未だにマニュアルも何も作成されていない。で、来た信徒のうち朗読ができそうな人をつかまえて読ませる。まあ酷いったらないわけだ。なので、そのマニュアルも作成した。先唱者をやっているうちに分かってきたのだが、ミサで何故聖書朗読が行われるのか、という一番根本の話に関して理解していない人が、実はかなり多いのだということが分かってきたからだ。
で、このマニュアルを共有できるように、先週辺りから何人かの関係者に渡したり、CD-R に焼いたものを置いたりしているのだけど、こういうものを作ると、漁夫の利とばかりに自分のものにしそうな手合いがゴロゴロいる教会だし、書いた方としての責任もあるので、ここで公開しておくことにしようと思う。こんなものすら、誰も作ろうとしない。酷い教会……いや、酷い共同体ではないか。