「で、これはどうすればいいんですか?」

東大と東京藝大で教鞭を執っている伊東乾氏の『東大生はアウシュヴィッツを知らない――ナチスが分からない理系と行列を理解しない文系が「常識」化』なる文章を読む。ふむ。分かりますよ、仰りたいことはね。でもこれって、この10年位の間にじわじわと進行・浸透してきたものだよね。

この現象を何と言えばいいのだろうか、といつも考える。まあよく充てられるのが「反知性主義」という言葉だけど、僕は簡単にそう言い捨てるのには抵抗を感じる。そもそもこの言葉は、アメリカにおけるプロテスタントの中から生じてきたものなのだけど、その出自を知らぬままに濫用されることの多いものだという印象があるからだ。

宗教というものはいつの世でも、思想体系としての完成度と、民衆への受け入れられよう、という、ある種相反した要素を抱えつつ存在している。信仰は救いを希求するものだけど、その救いを求めて思想体系を磨き高度なものにしていくことが、それを誰よりも求めている満されない人々(多くの場合そういう人達は充分な教育を受けられず、文字の読み書きもできない)から救いを遠ざけてしまう……そういう現象は、いつの世においても確認され、問題とされてきたわけだ。

僕は仏教の話を聞く度にこれを思うわけだ。何故、念仏や題目というものが出現したのか。有り難い仏様や有り難い経典をいくら突き詰めても、民衆はそれを読み、知ることができない。そんな間にも戦が起き、飢饉が起き、病が流行り、理不尽にもどんどん人が苦しみ、死ぬ。そんな中で、「とにかくこの有り難い阿弥陀仏に取り縋りなさい」と「南無阿弥陀仏」と唱えさせる、あるいは「とにかくこの有り難い妙法蓮華経に取り縋りなさい」と「南無妙法蓮華経」と唱えさせた僧達の思いを考えるわけだ。

キリスト教でもこれは例外ではない。キリスト教はそもそも旧約聖書、そして新約聖書を構成する福音書、行伝、そして書簡というかたちで信仰が述べ伝えられていたわけだが、当然、当時のほとんどの人が文字など読めない。だから、ごくわずか存在した文字を読める信徒が、共同体においてそれらを読み聞かせることで、その内容を分かち合っていたわけだ。今もカトリックのミサで受け継がれている(そのくせこれを意識している信徒の何と少ないことか!)「ことばの典礼」がまさにそれである。

しかし、プロテスタントは "Sola scriptura"(聖書のみ)という言葉のもと、いわゆる聖伝(使徒からの伝承)を否定する。そして聖書に対しては自由解釈ということになっているわけだ。だから、先のような、思想体系とそれを享受し難い民衆の対立という構図があっても、そこに指導者の介入が行われた際に、それを批判するのではなく否定する、という現象がより起き易いのだろうと思う。実際、高度な神学論を否定し、平易な説教が受け入れられ、そして「そもそも我々に受け入れ難いものなんて真理じゃない」という主張にまで至る……まあ、アメリカにおける反知性主義というのは、こういうもの(いわゆるプロテスタントの言う「リバイバル」そのものと言ってもいいのかもしれないが)だと僕は理解しているわけだ。

僕はこれを全面的に否定する気はない。神の皮を被った人の誘導、そしてその結果としての腐敗、というものへの警戒、それはまさに彼等の原点だろうと思うし、中世からのカトリックにそういう腐敗があったことは事実なのだから。ただ、このような反知性主義というものには「数の論理」が介入している、ということも指摘しておかねばなるまい。これも簡単に衆愚主義だと言い捨てる気にはなれないのだが、賛成者多数であるものが真理だ、というのは、これはただただ暴論だとしか言い様がない。

そして、この「数の論理」、実のところかなり怪しい代物である。大衆の扇動によってうつろうものに過ぎない、というのもあるけれど、実際のところ、数の論理が主張されるときに、それが「多数」かどうかという検証がちゃんとなされていないことがまあ多いのだ。それが多数である、という主張をよくよく聞いてみると、結局のところ「自分はそう思っている」→「自分は普通である」→「だからこれが多数の意見である」という、まあ稚拙な三段論法でそれがなされていることの何と多いことか。

いや、ネットでも皆そう言ってるよ、と主張する人が最近は多いのかもしれない。でも、そんな印象操作、実際のところはどうとでもなるのだ。Twitter におけるいくつかのアカウントの発言を考えてみれば一目瞭然だろう。人が客観的な検証作業だと思ってやっていることが、実際には、自分と同じことを権威然として言っている人、そして多くの他者から賛意を向けられている人を探していることに過ぎない……まあ、よくある話なわけで、そういう人達の欲求を満すアカウントを運用しておけば、そこに人は集まり、そして曖昧だった人達もそちらに靡いていく。それが社会的規模において可能であることが、この何年かの間だけでも既に証明されているわけなのだから。

まあそんなわけで、反知性主義というものは(ここで僕が言うまでもなく)危うい代物だと思うわけだが、伊東氏の言うような問題というのは、むしろ「反教養主義」とでも言うべき代物なのではないかと思う。

たとえば数学で、一次方程式の問題について解説することを考えよう。ある問題でミスがあって、見てみると移項する際に符号を間違えていたことが原因だった。そこで移項という概念に関して解説を行うとどうなるか。最近の中学生、特にこういうことで間違えるような理解程度の生徒に限って、かなりの高い確率でこういうことを言われる。
「で、これはどうすればいいんですか?」

こう言われて、たとえば僕ならどう言うか:

あのさ、ここでこれをどうすればいいのか、ということは、ここでしか使えない話だぞ。数学の問題を解くってのは、言ってみればジャングルの中を通ってゴールにまで到達するような行為だよ。今この小さなジャングルで、右行って左行って真っ直ぐ、って聞いて、ああそうか、これでジャングル抜けるのオッケーじゃん、って思って、もっとでかくて鬱蒼と茂ったジャングルに入ったらどうなる? 同じように歩いて、はい、抜けられない、でオシマイだぞ? 大事なのは、そこで自分は何をしなければならないのか、を「自分で」判断できるようにすることだろう。僕はそれを教えているんだから。
こう聞いて黙り込む彼等の顔の、まあ不満そうなことったら!いや、そもそも「鬱蒼」という言葉が理解できないか、この話の筋を追い掛けることもできないか、のどちらかかもしれない。まあ、お寒い現状なのである。今のこの国は。

一般論というものを考えるには、ある程度の広さ、深さのある理解が必要である。しかし今の日本で教育を受けている人達は、それを享受する余裕がない。アップアップなのだ。私が見る限り、その原因は、学問における効率主義とでもいうものが世に定着しているせいなのではないか、と思うわけだ。

この主義に染まった人達にとって、勉強の目的は与えられた課題なり試験なりをクリアすることだ。そしてそれは楽しみのある行為ではない。だから効率という項目が出てくることになる。学校で教わる内容を最大効率でこなせること。そのためには、目的達成に効果的でないことは無駄なのだ。そして、無知であればある程、一般的な知識の有用性ということを理解しないし、俯瞰して分野を眺めるということをしないので、目前の問題を最大効率で解く為の手段を求める。今、目の前にあることをクリアすればいい。他のことなんて知ったことではない。そうなるわけだ。

そしてこの「効率化」という思考は更に適用範囲を拡大していく。手間がかかるが滋味深いこと、ものの類には関わらない。その理由を問われれば、「効率的でないから価値がない」、その説明すら効率的でないと思うなら「面倒だから」……そう言って、そういう物事を可能な限り回避しようとするわけだ。

興味深いのが、そういう判断をする人々が、ゲームに関しては皆熱心だということ。私はゲームを否定する気は何もないのだけど、ゲームというものは「効率性」というものの彼岸にあるものだ、ということは声を大にして主張したい。人の楽しみというのは本来効率とは何も関係のないものだし、物質的、社会的に何も得られることのないゲームというものは、この「効率主義」からみれば、まさに効率的でないもののはずなのだ(それで一向に構わないのだけど……趣味とか娯楽とかいうものはそういうものだからね)。でも彼等の多くはがっつりゲームをやっている……私はこの現象は、彼等にとってゲームにおける操作という行為が「効率的作業」という行為のプロセスに類似していると感じられて、そのことが安心感をもたらすからなのではないか、と密かに疑っている。でなきゃ、ぐりぐりスワイプしてツムを消すゲームを、あれ程、少しの暇があればやっていることの説明がつかないからねえ。

この手合い、そして彼等の物の考え方を見ていて僕が思うのは、うわー何てパッサパッサなんだろう、潤いがないんだろう、ということ。でもそこにあるのは哀れみばかりではない。こういう手合いが徒党を組んで、近視眼的効率性を唱えたり、その価値基準で物事を主張し、動かしていくようになることへの恐怖を感じるわけだ。そしてその恐怖は、残念ながら現実になりつつある。伊東氏の指摘されていることは、表層的な所見でなく、もはやこの社会やその構成メンバーにおいては、深く深く染み込んでしまっているのかもしれない。そう思うのだ。

かつて住んでいた土地の名を聞くとき

大学に入ってからの学部時代の4年間は、豊中キャンパスの外れにある寮に住んでいた。そして修士課程に進んでからは、箕面市の農家の納屋の二階に住んでいた。そこを出なければならないことになって、私は不動産情報を探し始めた。とにかく金がなかったので、とにかくどんなところでも良いから……と探した挙句、四畳、風呂なしトイレ共同、コインシャワーとコインランドリー付きで家賃14000円という物件を見つけた。

緑地公園駅の傍にあった不動産屋だったと思うけれど、そこが管理する物件ということで直接そこに行ったのだった。すると、同業の別の不動産屋のオッチャンがそこに来ていて、横で話を聞いていたのだが、

「兄ちゃん、それはあかんよ。そんな風呂トイレなし4畳なんて、今時の若い子が住めるとこちゃうわ。ちょっとワシも一緒に探したるわ」

と、そこの不動産屋の人と一緒になって、二時間近くもあちこちに電話をかけて探してくれた。しかし、なにせ先立つものがないのが現実で、結局その14000円の物件に入居することになった。

その物件は今も残っている。阪急千里線の千里山駅で下車し、千里線の北向きの線路に沿って数分歩いたところにある、薄っぺらい7階建のアパート。名前だけはメゾン千里山という豪奢な名前だが、まあ内実は上に書いた通りだ。千里山駅からひとつ南の関大前駅までの間は、その名の通り関西大学のキャンパスがあるし、千里線の終点の北千里駅まで行けば私の母校である阪大もある。だから、住んでいるのは大学生が多かったのだろうと思う。と思う、というのは、カタギな時間にこの建物にいることがまずなかったから。いつだったか、珍しく早い時間に帰ったら、青年が一人入口に座り、同じ位の年齢の女の子に髪を切ってもらっているのに出喰わしたのを、今でもよく覚えている。ひょっとしたら、関大生と美容専門学校の生徒のカップル、とか、そんな感じだったのかもしれないが。

千里山駅から出たところには踏切があって、その近くの角にはたこ焼の屋台がよく出ていた。甘辛く煮付けた蒟蒻を細かく切ったものが入っていて美味かったので、よく帰りに買って家で食べた。時々関大前の方に歩いていって、関大生向けの丼物の店で安い鶏丼などを食べるのが贅沢だった。関大生達のように青春を謳歌するみたいな立場ではなかったわけだけど、あれが私の青春の1ページなのかもしれない。

その千里山の名を、まさかこんな風に聞くことになるとは思いもしなかった:

交番襲撃、拳銃奪われる=都内30代男の逮捕状請求へ−26歳巡査重体・大阪
2019年06月17日00時51分

16日午前5時40分ごろ、大阪府吹田市千里山霧が丘の府警吹田署千里山交番前の路上で「警官が血を流して倒れている」と、近くの駅員から110番があった。同交番勤務の古瀬鈴之佑巡査(26)が包丁で胸などを刺され意識不明の重体となり、刺した男は拳銃1丁を奪って逃走した。府警は吹田署に捜査本部を設置。東京都内在住の30代の男が関与したとみて、強盗殺人未遂容疑で逮捕状を請求する方針を固めた。

捜査本部によると、事件前に空き巣被害を訴える虚偽の110番があり、交番の警察官2人が急行。古瀬巡査は1人残った際に襲われたとみられ、計画的な犯行の可能性がある。交番の防犯カメラに不審な男が映っており、土地勘がある30代の男とみて行方を追っている。

石田高久府警本部長は同署で取材に応じ、「拳銃を奪取されたことは極めて残念。不審人物を見掛けたら通報をお願いしたい」と話した。

交番は阪急千里線千里山駅前のロータリーに面し、当時3人が勤務。古瀬巡査は左胸など7カ所を刺されて交番前の駐輪スペースで倒れていた。包丁は刃渡り約15センチで、防刃チョッキの脇から刺された傷は肺を貫通して心臓に達していた。拳銃は回転式で実弾5発が入っており、つりひもの留め金具が外されていた。

交番の防犯カメラには午前4時15分〜同5時ごろ、不審な男が行き来する様子が映っていた。

事件前の同5時半ごろには、公衆電話から男の声で「家に帰ると室内が荒らされていた」と110番があり、交番の男性巡査部長(44)と男性巡査長(33)が、バイクで近くのアパートに急行。古瀬巡査も遅れて向かおうとしたところ、交番前で襲われたとみられる。

電話は隣の関大前駅構内からかけられていたが、実際に被害はなく、アパートの住人は事件と無関係だった。捜査本部は駅の防犯カメラなどを詳しく調べている。

その後、箕面の山中にいる容疑者が逮捕され、5発中4発の弾丸の残った拳銃も回収された。しかし……この事件、どうも根の深そうな事件だと思われる。

容疑者は精神障害者保健福祉手帳を持っていた、と報道されている。精神障害者保健福祉手帳というのは、身体障害者手帳のメンタル版とでも言うべきものだが、一級から三級までの障害等級が定められている。この中で三級に関しては、身体障害者手帳の場合よりも広い範囲への適用が行われる傾向がある。だから、たとえばうつや適応障害でどうにも暮していけないという人が取得する例も結構あるわけだ。しかし、今回の容疑者は二級の認定だったらしい。

二級ということは、先の三級とは大分事情が違ってくる。アルバイト先の責任者の会見におけるコメントから、容疑者は統合失調症である可能性が高いと思われるわけだが、二級の手帳を持っているということからは、決して軽い状況ではなかったことが推測されるわけだ。それに加え、バイトを休んでいた理由などからすると、最近の状況が悪化していた(それが病状としてのものなのか、病識が希薄であったために治療を中断していたせいなのかは判然としないが)様子もうかがえる。

私が特に強くひっかかるのは、容疑者が箕面の山に入り込んだ後も、登ったり下りたりを尋常でない回数繰り返していたという話、あとは逮捕後の彼の、

私のやったことではない。私の思うことは、病気がひどくなったせい、周りの人がひどくなったせい、ということ
という供述だ。まるで他人事のようなことを供述しやがって、と感じる方もおられるかもしれないが、私にはこの容疑者の語った言葉は、彼の中で意思や行動論理の統合が行えていない結果のものであるように思える。拙速に断じてはいけない事案だと思うのだ。

お好み焼きの作り方

我が家では、お好み焼きを食べることが結構多い。お好み焼きというと「粉モン」と呼ばれ、炭水化物がっつり……みたいなイメージがある食べ物なのだろうと思うのだけど、私自身はそういうイメージがあまりない。勿論炭水化物が少ない、とは言わないが、キャベツをがっつり食べられるもの、という印象の方が強いのだ。それは私の作り方にも関係しているのかもしれないので、せっかくだからここに記録しておくことにしようと思う。

まず生地だが、基本になる量は、

  • 全卵 2個
  • だし 100 cc
  • 小麦粉(量は後述)
  • ベーキングパウダー(量は後述)
というところか。ボウルに全卵とだし(かつおベースで濃い目にとったものを冷まして使用)を入れてホイッパーでよく溶いたところに、小麦粉を振り込みながらホイッパーで合わせていく。ややもったりと、ホットケーキの生地よりこころもち柔らかいかどうか……位になったところで粉の投入を止める。目安としては、上の全卵とだしの量に対して 60〜70 g 程度ではないかと思う。小麦粉の袋をキッチン秤で秤量しながら行うと、投入した小麦粉の量をおさえやすい。小麦粉の量が決まったら、投入した小麦粉の質量の 3 % 程度のベーキングパウダーを投入する。「膨らし粉なんて邪道や、ふっくらさせるなら山芋やろ」……ええ分かります。その場合はだしを半量位に減らして、すりおろした山芋を入れて、最後に残りのだしでかたさを調節して下さい。だしの代わりにかつお粉 + 水を使用しても良い。山芋を使う際はこちらの方が水分調整がし易い。

野菜はキャベツ。春キャベツだと完全に溶けてしまうので、できれば「寒玉系キャベツ」と呼ばれる、巻きの密なものを使うと良いかと思う。買う際は、巻きがしっかりしていて、持ってずっしり重いものを選んでいただきたい。これを千切りにして使用する。細かさは概ねトンカツの付け合わせ程度で良いのだが、長さが長過ぎると絡みやまとまりの上で扱いにくくなるので、刻んだ後で長手方向に包丁で半分に切るようにすると丁度良いかと思う。

生地とキャベツを合わせる際に注意すべきなのは、生地を入れ過ぎないこと。これは私の考えなのだが、お好み焼きはキャベツを食べる料理であって、生地はキャベツをつなぐことができればそれで良い。だから生地は1枚あたり大さじ3〜4程度で十分である。まず最初に,小さめのボウルに全量の半分以下の量のキャベツと生地を取り、大きめのスプーンで合わせてから、残りのキャベツを投入して合わせていくと、キャベツの表面が生地で濡れた程度のミックスができあがる。え、こんな少なくていいの? 位が実は丁度よろしい。昔、これと全く同じことを島田紳助氏が言っていたなあ。揚げ玉とか紅生姜とかはお好みで、このタイミングで入れて下さい。

焼き方だが、私は樹脂加工したフライパンを使う。火加減は中火(炎の先端がパンの底に丁度当たる位)で固定。少なめに油をひき、生地を残さずフライパンに広げる。やや厚めの円盤状、厚みを揃える(焼いているとやや膨らんでくるが)のがコツだろうか。縁をスプーンの腹でくるりと整えてから、上面に豚肉(定番のバラスライスでも良いが、豚小間でも肩ロース、ロースのスライスでも良いと思う……やや固くはなりますが)をひいて、蓋を隙間なくする。タイマーをセットして、ここから5分(大きい場合は6分位でも良いが)焼いていく。5分経過したら蓋を開けて引っくり返し(かなり柔らかいので、フライ返しだけで返すのではなくパンを振って返す方が安全)、再び蓋をして5分焼き、もう一度返したら焼き上がりである。皿に盛り、ソース等のトッピングをお好みで。私はまずソース、その上に辛子マヨネーズを少々、かつお粉と青海苔……という感じだろうか。

ポイントは、

  • 生地をゆるくし過ぎない
  • 生地は極力少なめでキャベツたっぷり
  • 火加減は中火
  • 蓋を使い、時間を守ること
であろうか。粉の生地がボソボソのところに、キャベツに十分に火が通っていないボソボソバリバリのお好み焼きが私は好きじゃないので、こういう作り方に落ち着いたというわけ。一度お試しあれ。

マニュアル、マニュアル

所属教会の土曜の夕ミサ(教会の扱いとしては主日のミサ……日曜朝のミサ……と同じ扱いなのだが)の先唱者をこの何年かずっとやっている。既にこの奉仕をやっていた老齢の男性二人に声をかけられ、3人いれば交代でできるし、互いの都合に合わせて融通できるだろう……ということで引き受けていたわけだが、程なく一人が重度の難聴で行うことが無理になり(いや、これは不可抗力だからいいんだが)、もう一人は経営している海外のコテージに行ったきり帰ってこず(こちらは確信犯っぽい)……ということで、ほぼ独りでずっとこれを行っている。私は個人的にはこういう状況が非常に苦痛なのだ……いや、土曜に好き勝手できないから、ということではない。

そもそも、私の所属教会というのが、この手のことにおいて非常にいい加減なのだ。もっと正確に書くならば、所属教会の典礼委員会なる組織が、である。本来ならば、そういう組織が各典礼奉仕の人材を確保し、指導をし、必要に応じてマニュアル等を作成するのが当然の筈だ(実際他の教会……たとえば八事の南山教会とかね……はそうしている)。ところが、所属教会の典礼委員会はこういうことをまぁやっちゃいねぇ。私が先唱を引き受けたときにも、マニュアルも何もない状態だったから、まず自分用にマニュアルを作るところから始めたのだった。ミサというものにはもう数十年も慣れ親しんでいるわけだけど、いつでも何処でも何もかも一緒というわけではない。だから、やはりマニュアルはあった方が良い。

他にも、たとえば典礼奉仕としての聖書朗読などにおいても、未だにマニュアルも何も作成されていない。で、来た信徒のうち朗読ができそうな人をつかまえて読ませる。まあ酷いったらないわけだ。なので、そのマニュアルも作成した。先唱者をやっているうちに分かってきたのだが、ミサで何故聖書朗読が行われるのか、という一番根本の話に関して理解していない人が、実はかなり多いのだということが分かってきたからだ。

で、このマニュアルを共有できるように、先週辺りから何人かの関係者に渡したり、CD-R に焼いたものを置いたりしているのだけど、こういうものを作ると、漁夫の利とばかりに自分のものにしそうな手合いがゴロゴロいる教会だし、書いた方としての責任もあるので、ここで公開しておくことにしようと思う。こんなものすら、誰も作ろうとしない。酷い教会……いや、酷い共同体ではないか。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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