いい加減に教えるな

この歳になると、知人の家庭などでも小中学生に出喰わすことも多くなるし、時には勉強のことで質問されることも珍しくない。で、先日も、そういう質問を受けていたわけなのだけど、何でも中学校では今週辺りが中間試験のシーズンらしく、そういう関係の質問をされていたわけだ。

で、中2の某少年が僕のところに一枚の紙片を持ってきた。今度の英語の中間試験の「出題のポイント」なのだ、という。見てみると、1年の教科書のある単元が示してあり、そこに出てくる「付加疑問文」を出題する、と書かれている。早速、1年の教科書を持ってきてもらって一緒に見てみるが、どこにも付加疑問文は出てこない。先の紙に戻ると、「What 〜 や How 〜 の付加疑問文」と書いてあるのだが(後記: そもそもこの時点で意味不明なのは言うまでもない)……

そこに書かれている、what や how を使った文章を探すと、あるのは「感嘆文」だけである。まさか、この感嘆文のことを付加疑問文なんて書いているのか?

中3の某少女のときは、これにも増してひどい話を耳にしてしまった。比較級とか最大級とかの説明をしてほしい、というので説明していて、-er や -est ではなく、more や the most を使う場合があるんだよ、と、一例として moving を挙げて説明しようとしたら、

「あの、それは mover とか movest とかになるんじゃないんですか?」
「は?」
「あの、6文字までの単語では -er とか -est になる、って習ったんですけど」

僕は怒りで震えた。何処のどいつだ、こんないい加減なことを教えたのは。

どうせそういうことを書いているサイトでもあるんだろう、と思って検索してみると、比較級・最上級を文字数で判別させるような記述の多いことったら……先の子は、これに加えて「6文字以下」と「6文字以上」を勘違いしていたようだけど、いや、そんな問題じゃないんだ。文字数で分けられる? ……もう、呆れましたよ。じゃあ訊くけどさ、以下の単語の比較級・最上級はどうなるんだよ?

  • bored
  • like
  • quiet
  • pleasant
  • unhappy
bored は more / most しかとり得ない。like は一部の例外(詩とか)以外では more / most しかとり得ない。quiet は両方とり得る。pleasant も両方。そして unhappy は7文字、かつ3音節だけど -er / -est しかとり得ませんよ? 猿知恵で子供にいい加減なことを教えようなんて、実にひどい話だとしか思えない。

知人の塾関係者に聞いてみたところ、

「あー、それねえ。おそらくそこら中の中学校でそれ式で教えてますよ」

という恐るべき答が返ってきた。ひょっとすると、ここを読んで「数少ない例外をあげつらって私達を誹謗中傷するのか」と怒りに震えている教育関係者がいるのかもしれない。しかし僕は声を大にして言おう。そもそもここに「字数」などという概念を持ち込んで単純化をはかっている時点で、アンタラには人を教える資格なんてないんだよ。自分が受け持ってる間だけ正しい答を出せばそれでいいわけ? 高校に入って、あるいは社会に出て、今まで磐石だと教えられてきたルールが実は何も根拠がないものだった、となったときの教え子のことを、アンタラは何も考えていないわけ? それで教育関係者だなんて、恥を知れ、恥を。

今にしてつくづく思うのだけど、僕は師には恵まれていたのだった。そういういい加減なことを教わらずに今日まで来られたのは、実は幸運なことだったのだ、と、こういうことを目の当たりにする度に思い知らされるのだ。残念だけど、こんないい加減なことを教わって育つ子達がいる。こういう不幸な子達がいる限り、この国の教育なんて、知れたものだと言わざるを得まい。

the worst one

愛知県警察が web で公開している『交通事故発生状況』というページがある。これを見るまでもないのかもしれないが、愛知県の交通事故死者数は全国でも断トツである。お疑いの方のために、警察庁交通局が毎月公開している交通事故統計の4月末版をリンクしておくけれど、事故発生件数、死者数の双方において、愛知はワースト1になっている。

ここで非常に興味深いのは、愛知から近いエリア、たとえばホンダの生産拠点のある三重とか、スズキ自動車の本拠地である静岡などとの比較である。三重の事故発生件数は愛知に遥か遠く及ばないし、静岡も全体の中では多い方だが、面積的により狭い愛知の 3/4 程の事故発生件数になっている。中部地区の他県と比較しても、愛知県「だけ」が抜きん出て交通事故の件数が多い。つまりは、愛知県というのはそういうところなのだ。

僕は普段自転車で移動することが多いのだけど、たとえば目前に左に曲がる角があるときに、背後から自動車が追い抜いたときには、細心の注意をはらわなければならない。愛知県では、こういうシチュエーションで、ウインカーも出さずに、ろくに減速もせずいきなり左折するクルマが後を絶たないのだ。こういうクルマを称して、この辺りでは「ナゴヤ乗り」と言うし、三河の方に行くと「三河乗り」と言う。しかし、僕に言わせれば尾張だろうが三河だろうが、こういうクルマが愛知県に少なからず存在することには何も変わりはないのだ。

では、自転車や歩行者が常に虐げられるだけの存在なのか、というと、そんなことはない。彼らも虐げる気マンマンなのである。自転車はケータイを耳に当てたり、スマホを覗き込みながらだったり……しかもこの手の輩は、必ずと言っていい程、耳をカナル型のイヤースピーカーで塞いでいる。こちらがベルを鳴らそうが怒号を発しようがお構いなし。まるで「世界は自分だけの為に存在している」と確信しているかのようである。

これは歩行者も同様である。目や耳を塞ぐだけでなく、複数連れになると平気で横に並ぶ。これはカップルだけの話ではない。男5人連れが横一列になって歩いている、なんてのは、そこらを歩いていたらそう珍しくもなく出喰わすものなのだ。お前ら G メンか? などと毒突きたくもなるというものだ。

しかし、今日、僕は自分のこのことへの認識がまだまだ甘かったことを思い知らされたのだ。教会から帰る道でのこと……横断歩道を渡るとき、僕は自転車に乗っていたので、自転車用のレーンを走っていたのだが、目前に、なんと、車椅子を押した女性がいるではないか。僕は自転車を停めて、その女性にこう言ったのだ。

「ここは自転車の通行帯だから、(歩行者の渡るエリアを指差して)そっちに行って」

すると、この女性、僕を睨んでこう言い放ったのだ。

「これは車だもんで」

は? 車輪が付いているから、ということか? 冗談じゃない。電動車椅子やシニアカーですら、道交法上は歩行者扱いなのだ。手押しの車椅子が軽車両だとでも言うのか? 僕は、

「頭の悪いオバハンやなあ」

とだけ呟いてそこを後にしたのだが、本当に厭な思いをさせられた。そもそも、この「ダモンデ」が厭ですよ。この辺の連中に何か注意すると、かなりの高確率で逆ギレした奴が「〜だもんで」と言葉を返してくるんだけど、これを聞くたびに思い出すんですよ。夏目漱石の『坊っちゃん』のこのくだりを。

 おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構うものか。寝巻のままうでまくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先まっさきの一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎あいにく掃き出してしまって一ぴきも居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜はきだめててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いでけ出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかりせて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿ばかだ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれをめた。「篦棒べらぼうめ、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生をつらまえてなもした何だ。菜飯なめし田楽でんがくの時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
つくづく厭になる。自分のためにだけ世界が存在しているかのような傲慢さを平気で振り回す、卑しい卑しい田舎者めが。

SSD or CF

僕が使っている iPod の HDD は、以前不良セクタが出て以来、だましだまし使っているのだが、いい加減対策を考えなくてはならない状況である。

ご存知の方がどれだけおられるか分からないのだが、iPod の HDD は 1.8 inch という小さな代物である。これが、以前は比較的大容量のものまで入手可能だったのが、現在は数が少なく、しかも価格が上がっている。原因はアベノミクスと SSD の普及であろう。まあ、何が理由であれ、現状として大容量化は難しい状況にある。本当は 128 G にしたいところなのだが、64 G で妥協する必要がありそうだ。

ではどうするか。選択肢はふたつあって、ひとつは素直に SSD を買う。もうひとつは、ZIF コネクタで iPod に接続できる CF 用アダプタを買って、そこに 64 G のコンパクトフラッシュを挿すというもの。前者は 8000 円近くかかるが、後者なら半額以下で済ませられる可能性が高い。しかし、後者は当たり外れのある可能性があって、リスクを伴う。悩むところである。

しかし、なんかなあ。最近、こういうことばかりだものなあ。shannon-x61 の HDD 交換のときもそうだったし。もっとこう、何か、一気に世界が広がるような金の使い方はできないものなのかねえ。

櫛の歯が

システムの更新をすると、古いシステムで使っていた HDD などが余るわけだが、僕は今まで、そういう HDD を手軽な外部記憶領域として使ってきた。3.5 inch でも 2.5 inch でも、いわゆるケースを買ってくればいいわけだし、インターフェイスをうまく選ぶと非常に快適に使うことができる。

しかし、この何年かで、そうして使っていた HDD がひとつ、またひとつと壊れ出した。僕は喫煙しないので、やはりこれは機械的な限界というものなのだろうと思うけれど、まるで櫛の歯が欠けたように、外部記憶領域が消えていくのは、何やら厭な思いがしてならない。人というのも、こんな風に、少しづつ、少しづつ、僕の身辺から消えていくのだろうか、いや、僕自身が、そんな風に消えていってしまうのかもしれないのだ。HDD と人を比較するのは無意味な行為かもしれないけれど、この similarity は恐ろしい。

この数年で、まず最初に壊れたのは、Cubase VST を使っていた頃のタワーから抜き出した 3.5 inch の HDD だった。こいつは 7200 rpm のスピンドルだったので、有効な使用法を少し考えた。Cubase を動かすのに使うのは shannon (Dell Inspiron 1501) が多いのだけど、Inspiron 1501 には ExpressCard スロットがひとつ付いている。こいつを有効活用して、高速記憶領域として活用できないか……そう考えたのだ。

この手のニーズですぐ思い浮かぶのは FireWire で、僕も最初は FireWire カードの購入を考えた。しかし、カードの値段が結構なもので、おまけに業界標準の TI のチップの載ったカードがなかなか見当たらない。それに、そもそも Inspiron 1501 のカード周辺のインターフェイスはリコーのチップだし……と、ふと eSATA の存在を思い出したのだった。eSATA の転送速度はたしか 3 G bps とか 6 G bps だったはずだ。しかも、カードはたしか……おお、玄人志向にちゃんとある。ということで、ExpressCard バスに、eSATA 端子がふたつと USB 端子のひとつ付いたカードを挿して、そこから SATA で外部に HDD を接続したのだった。

カードの USB バスには Cubase のハードウェアキーを挿して、本体の USB バスにサウンドインターフェイスを挿して……という形態で、数年の間レコーディングを行っていたのだった。これは本当に快適だった。しかし、一昨年だったろうか、この HDD もお亡くなりになったのだった。

shannon はかなり早い段階で HDD を換装してあって、ちょっと前から使っている shannon-x61 (ThinkPad X61) も、購入後程なく HDD を換装した。どちらも、もともとの HDD は 120 GB 位しかない(換算すると実質 112 GB 位である)し、高回転のスピンドルというわけでもないのだが、小さな USB 端子付きのケースに入れれば、USB スティック感覚……とまではいかないが、簡単に持ち運べるメディアとして重宝する。どの道、内蔵メディアの更新時にケースは必要になるので、そのままそういう風に使い続けていた。

そして、shannon から抜き出した HDD が、今日、とうとう御臨終と相成った。さっき Windows 上で CHKDSK をかけていたのだが、もう尋常でない音がし出したので、さっき中断し、外してから Linux でリブートしたところである。しかしなあ……こんな風に、徐々に手元の HDD が死んでいくのは、本当に何か、こう、不安な心持ちにさせられるのであった。

何故僕が Twitter や facebook, LINE にハマらないのか

まず最初に断っておかねばならないのだが、僕は Twitter と facebook は自分のアカウントもあるし、使ってもいる。LINE はアカウントを持っていないし、今後持つつもりも一切ない。

そもそも話は今から20年程前にまで遡る。当時、僕は大阪大学の学生だったわけだけど、大阪大学というところは情報関連の研究の盛んな大学で、僕が学部の3年のときに、数百台の NeXT 社製ワークステーションで構成された情報処理教育システムが導入された。今の OS X にほぼ匹敵するシステム、しかもネットワークと 400 DPI のポストスクリプトプリンタに接続され、モリサワフォントが使えるシステムが、24時間使い放題、という状況になったわけだ。当時の僕はモリサワフォントの有難味が分からず、何だこの中ゴシック BBB って、とか言っていたわけだが、今考えるに、恐ろしく贅沢な環境である。

さて、このシステムの端末である NeXTcubeNeXTstation は、外部との流通は電子メールのみが可能だった(後に WWW と電子ニュースも使えるようになった)のだけど、阪大の豊中キャンパスと吹田キャンパスの間は回線で結ばれていたので、学内のどこかに居れば、学内の他の誰かとはネットワーク経由でやりとりをすることができた。まあ学生の考えることは昔も今もあまり変わらないのかもしれないが、nohup でプロセスを無理矢理常駐させることでサーバを動かして、いわゆるタイムライン型のチャットが行われるようになった。

僕は、寮暮らしなのをいいことに、このシステムの端末室に入り浸っていたのだが、このとき知り合った何人かの人々のことを今思い返してみるに、あの留年率の高さはちょっと異常なものだった。あそこに出入りしていても、自分の専門を大事にしている人達は、そのような踏み外しをすることはなかったわけだけど、早い話、あそこでのチャットに逃げ込んだいた人もいたわけで、そういう人達は当然の如く留年した。その中には、情報関連に新たな活路を見出していく人もいたわけだけど、そうでない人達は今頃どうしているのだろうか、と、ふと思い返すこともある。

僕の場合は、やはり自分の専門の方に行きたくて、その後キャリアを重ねたわけだけど、今にしてみると、あの頃チャットに費していた時間は、正直言って人生の無駄遣いだったと思っている。あの、日付が変わるまでチャットしている時間は、確実に他のこと……たとえば統計力学を極めるとか、金属相手に量子力学を適用するための勉強(これは磁性も絡むし、重い元素を扱うときには相対論的効果も絡んでくるから、ちゃんとやろうと思ったら大変な話である)をするとか、そういうことに使うべきだったのだ。

あの時期にコンピュータに習熟したんでしょう、と言われることもあるけれど、実際には、あのシステムを使い始めて1年後、大型計算機センターのアカウントを取得して、自分の研究室に Linux サーバを置いて、家や出張先からアクセスポイントを経由してリモートログインしてはごそごそやっていた頃の方が、得たものの質も量も高かったと思う。そして、チャットしていた時間と、今書いたような時間との決定的な違いは、自分の人生の糧をそこに積めたかどうか、ということである。

チャットというのは、そのときそのときのリアルタイムな自分の存在を、他者とのやりとりによって実感することができる。これは一見すると、他者とのつながりの拡大、というオープンなものであるかのような印象を受けるかもしれない。しかしそれは、結局はそこに目が向いている人がゆるやかなコミューンを形成していて、その中でのやりとりがタイムラインを構成しているだけのことである。たとえドアやついたてのない場所で人が集まって話をしていても、それは結局はそこに顔を合わせた面々によるクローズドなコミュニケーションに過ぎない。そこに人がいつでも入ってこられるとしても、何の前触れもなくそこに有益な人物が現われることはまずないのだから。

しかも、そこでのやりとりに費される時間は、結局はあるコミューンにおける他者とのつながりに縛られた時間であって、そのつながりが、たとえば顔をつき合わせてのディスカッションなどのような知的な広がりを持つことは、まず 100 % ないといっていいと思う。そんなことはない! とか言われそうだけど、だったら、両者における情報の交換量(≠流通量)を算定してみたらいい。ネットでリアルタイムで文字を用いてやりとりできる情報なんて、顔と目をつき合わせて、黒板やホワイトボードや紙を前にして唾を飛ばしながらディスカッションするのと比較したら、ハナクソみたいなものである。

いや、Twitter だったら world wide に広がって……とか言う人がいるけれど、じゃあそれを言う人のどれ程が、日本語以外の言語でやりとりをしているというのか。しょせん日本の Twitter のユーザなんて、9割以上がドメスティックなつながりを謳歌しているに過ぎないんじゃないの? とりあえずフォローして、それでおしまい、それが「つながり」だ、って、それは「つながっていること」で安心感を得ているだけでしょ?

時間、情報量、そしてその質も含めて、今のネットでのコミュニケーションメディアには、所詮は限界がある。本当にそれらを活用しているならば、その限界を熟知していなければならないと思うのだけど、Twitter や facebook, あるいは LINE を使っている人々から、そのような話を聞くことは、不思議な程に全くない。これは一体どういうことなのだろうか。

そして、これらのメディアに関して僕が前から何度も何度も指摘しているのが、発言者の一意性というのが磐石でない、ということだ、これに関しては、最近も橋本大阪市長の件とか吉野家公式アカウントの件とかが報道されたばかりだ。たかが乗っ取りにおいてでさえ、このように Twitter は脆弱なのである。

あまりナショナリスティックなことは言いたくないけれど、Twitter も facebook も、そして LINE も、外国の一私企業(LINE の場合はもう少し複雑なのだが)が提供しているサービスである。たとえば日本の政治家が、そういうメディアを発言の重要な場として位置付けるということが、僕にはどうにも理解できない。たとえば、自分で確実に管理しているサーバ上で公開しているタイムラインを Twitter にも流す、とかいうことならまだ分かるのだけど、日本の政治家で Twitter を使っている連中の中で、そうやって自分が掌握しているサーバで発言のオリジナリティというか、uniqueness というか……を確保している人がいるのだろうか? おそらく一人もいないんじゃないかと思うのだけど。

まあ、そういうお寒い状況を見るにつけ、僕は何か白けてしまうのだ。そして、それに使う時間をもっと、自分の人生において形を残す、「濃い」ものとして使いたいのだ。だから僕は、Twitter や facebook, LINE にはハマらない。そんな無駄遣いをしていられる程、僕の人生には余剰はないので。

糊付け

某所で、何日間か白衣を借りたことがあって、それを返す前に洗濯しておこう、と家に持ち帰った。たまたま週末で、洗濯する前に買い物に行ったとき、そう言えば白衣っていえば糊だよなあ、と、普段は滅多に買わない洗濯糊を買う気になったのである。

大概の方がそうだと思うのだが、僕はワイシャツをアイロンがけするときに、襟や袖口にスプレー式の糊をかけることが多い。しかし、全体に糊をかける、ということは今まで経験がなかった。洗濯糊と聞いて僕がすぐに思い浮かべるのは『花王 キーピング』なのだけど、僕が買い物に行った店には、これの詰め替え用のものしか売っていなかった。他って何があるかなあ……と探すと、『カネヨノール』と、あとは古式ゆかしき澱粉糊……さあ、どちらを買おうか、と少し悩んだのだが、無人のロッカールームの中でカビの生えた白衣の姿が脳裏に浮かんだので、澱粉糊はやめて、カネヨノールを買って帰ってきた。

カネヨノールなどの洗濯糊は PVA(ポリビニルアルコール)が主成分……と言うより、PVA だ、と言っていい位の代物である。ちなみにキーピングの方は、PVA ではなく「酢酸ビニール系ポリマー」だと関係文書に書かれている。要するにポリ酢酸ビニルとかだと思うのだが、これも PVA と縁遠いものではない(PVA 合成の中間体だったはずだ)。ちなみにこれを書く為に色々読んでいて初めて知ったのだが、世界全体での PVA の約 25 % は日本のクラレが生産しているのだそうな。

カネヨノールを規定量……水かぬるま湯 600 ml に対して 80 ml ……希釈した液に、洗濯した白衣を浸し、洗濯機で軽く脱水をかけてから干す。しばらくすると、白衣はゴワゴワになっていたのだが、これに霧吹きで水分を与えながらアイロンをかけると……おお、買ってきたばかりのようなピンピンの白衣になったのだった。へー、これはいいじゃないですか。

洗濯糊の効能というのは見た目だけではない。軽い汚れは糊と一緒に落ち易いので、常に糊をかけておくと生地に汚れが定着しにくいのだ。天然糊の場合はアイロンをかけると糊が変色することがあるけれど、PVA の場合はそれもない。最初のうちは白衣にだけ使うつもりで買ったカネヨノールだったが、他のワイシャツ等にもかけてみようか、という気になってきた。

で、シャツをまとめて洗ったときに、ちょっとカジュアルなものも含めて、そのとき洗った襟付きシャツ全てを糊付けしてみた。生乾きで回収しようと思ったのだが、たまたま風が強くて、気付いたときには皆ゴワゴワになってしまっていたのだが、霧を吹きながらアイロンをかけると……おー、ピンピンじゃん。いい感じである。

ただし、糊付けしたシャツの扱いにはひとつだけ問題があって、このアイロンがけに、思いの外に時間を食うのである。うっかりして変な折り目をつけてしまうとリカバーが面倒だし……ということで、アイロンがけに時間をかけられるときだけ、このカネヨノールを使うようになった。実は、今家に置いてあるカネヨノールはもう2本目だったりする。少々面倒だし、これから汗をかく季節になって、カブれたりしやしないかと思ったりもするのだが、もう少し使い続けてみようかと思っているのだった。

あまりやりたくないんだが

iPod の HDD がとんだ上に、環境移行時のバックアップ用 HDD までとんでしまい、僕の音楽鑑賞のための環境は無茶苦茶になってしまっている。これを、心身の余裕のあるときに少しづつ修復している……という話をすると、修復って何なんですか? CD 突っ込んだら終いじゃないすか、とか聞かれることがある。

本来、僕は巷で言うところのデジタルリマスタリングを行うのは好きではない。しかし、時々だけどやらなければならないことがないわけでもないのだ。その辺りのことは以前に書いた通りなのだけど、今回はまた、この面倒な作業をしなければならないことになった。

今回の音源は『ルパン三世 愛のテーマ』である。この曲、何をどう聞いても、明らかにエレキギターが松木恒秀氏である。水木一郎の歌入りの方も松木氏(氏のギターを知っている人ならご存知のフレーズが満載である)なのだけど、インストゥルメンタルの方が、良い意味で抑制が利いているし、アンサンブルも明らかにこちらの方が優れている。

そんな訳で、僕としてはこの曲は是非とも手元で聞けるようにしておきたいわけなのだが、残念なことに、僕の手持ちの音源はテレビ用にミックスダウンされているもの(それ以外の音源を御存じの方がおられたら是非御一報下さい)で、おそらく 1/4 inch・19 cm/s のメディアから起こしたものらしい。しかも、当時のテレビで再生されることを考慮してのものだと思うけれど、ほぼリバーブなしでミックスダウンされている。これは毎回聞くのが少々辛い。

ということで、まず WAV 形式でセーブしておいてから Cubase に取り込む。Nomad Factory BBE Sound Sonic Sweet に収録されている D82 Sonic Maximizer を立ち上げると……ふむ。やはりこの手のアナログ音源には劇的に効果がありますな。かかってるかどうか分からない位にかけるのがコツなのだが、操作パネルの ON/OFF で比較すると、効果は一目(一聴)瞭然である。低音も少し足してやって、そこに軽くコンプをかけると、埋もれていた楽器のひとつひとつが浮き出してくる。右のアコギと左のエレキ、そして左のパーカッションが不自然でない程度に明瞭になるようにコンプで調整する。

FX チャンネルに SIR2 を立ち上げて、EMT-140 のインパルス応答ファイルを読み込む。本物のプレートエコーと違って、いじることのできるパラメータはプリディレイ位しかないのだけど、前後に色々細工をして、プレートっぽい音(パーカッシブな音の直後に、リリースの遅いコンプみたいに立ち上がっていく感じ)の残響音を作る。このチャンネルへのセンドを調節して、エコーの量を決めていく。トータルエコーの後付けというのはかなり乱暴な業なのだけど、テレビ用でとにかくエコーがかかっていないので、残響音を吟味さえすればちゃんと乗ってくれる。

残響を乗せたところで、最後にコンプ、リミッター、そして EQ で調節する。この音源は、事前に FFT で解析した結果、11 kHz 辺りを不自然に持ち上げているのが分かっていたので、それを除去するように補正して、トータルのダイナミックレンジを揃えてやれば、音源の完成である。どんな風になるか、比較してみていただこう:

ちなみに、オリジナルの方の音源は録音レベルが低いので、いわゆる正規化をして聴感レベルをリマスタリング後に合わせてあるのだが、まあ、こんな感じである。本当はこんなこと、しないで済むに越したことはないのだけど。

sudo, which, そしてバッククォート

ある web ページで、僕の書いたものを引用されていたのだが、

$ sudo `which <command>`
と僕が書いていたのを、
$ sudo `which <command> <引数>`
と誤解されているようだったので、コメントを入れておいたのだった。

そもそも、何故、

$ sudo `which <command>`
などということをしなければならないのか、というと、これはちょっと前に sudo の仕様が変更されたことに起因している。以前は、sudo を使って管理者権限でコマンドを使うとき、そのコマンドの実行において、sudo を実行したユーザの環境変数が反映されるようになっていた。だから、root に妙な PATH を指定することなしに管理者権限のコマンドを使うのに、sudo は結構重宝な道具だったのである。

しかし、これはセキュリティ的にはよろしくない状況である。しかも、何か操作ミスがあったときのリスクも大きくなる。だから、ちょっと前から sudo は仕様を変更して、sudo 専用の環境変数のセットが用意され、sudo でコマンドを実行するときにはその環境変数が反映されるようになっている。

このような状況になると、あまりメジャーでないディレクトリにあるバイナリを起動しようとするときに、そこに PATH が通っていないことが問題になる。当然フルパスを書けばいいのだが、それは面倒極まりない。こういう場合、UNIX の流儀では、小さなコマンドを組み合わせて解決することになるわけだが、そこで先の、

$ sudo `which <command>`
が登場するわけである。

(b)sh 系のシェルでは、バッククォートで囲まれた中身はコマンドとして展開される。つまり "which <command>" の実行結果が文字列としてここに嵌め込まれるわけだ。ここで重要なのは、"which <command>" は、sudo を実行するユーザの権限で実行されることである。つまり、このユーザの環境変数で PATH が通っていれば、このような書き方をすることで、フルパスを sudo に渡すことができるのである。

ここまで分かれば、何故引数をバッククォートの中に入れてはいけないのか、が分かろうというものだろう。うーん……しかしなあ。僕は何も文献など読まずに、この記法を見ただけでそのココロが分かったのだが、そんなに難しいものなのだろうか? 説明が足らなかったのかなあ。

丁度去年の今頃は……

こんなことをやっていたのか。しかしなあ。これで知能がどうの、天才がどうの、なんて、下らん話だったよ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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