何故僕はこのポスターに嫌悪感を持つのか
「私日本人でよかった」――ポスターめぐる議論沸騰
愛国心を訴えるポスターが、日本で議論になっている。
「私日本人でよかった」――。日の丸を背景に女性が微笑むポスターが京都の街中に貼られているのを見て、温かく歓迎した人たちもいる。その一方で、右翼的な国家主義の広がりをただでさえ懸念する人にとっては、気がかりな内容だった。しかし事態にはさらに、思わぬ限界が加わった。ポスターのモデルが実は中国人だったと判明したのだ。
京都の住民たちは、今月に入ってポスターが貼られているのに気づいたと話す。ポスターには「私日本人でよかった。誇りを胸に日の丸を掲げよう」と書かれている。
なぜ一部の人は気にするのか
ポスターは一見、他意のない愛国心を訴えているようだ。ツイッターで、「自分の国で自分の国に誇りを持つのが何がいけないんだ?」とコメントする人もいた。しかし、一部の人は危険な国家主義の表れだと受け止めた。近年の日本では、右寄りの保守派が主張を強め、戦後の平和主義から離れて、過去の戦争への修正主義的なアプローチを擁護するようになっている。
英語のニュースサイト「ソラニュース24」によると、日本のツイッターユーザーたちは京都のポスターに背後にあるメッセージについて「怖かった」「情けない」などとコメントしているという。
京都の歴史的な名所は多くの観光客をひきつける
多くの人は、このようなポスターが主要な観光地の京都に貼られていたことに注目している。
あるツイッターユーザーは、反人種差別と言いながらポスターをあざけり、「#お前の愛国は中国製」というハッシュタグ(検索語)を使うのは、外国にもルーツを持つ日本人がどう感じるか考えていないとコメントした。
別のユーザーは、京都を訪れる海外の観光客がポスターを見て歓迎されていないと感じるかもしれないと指摘。ポスターのメッセージはとても不穏だとコメントした。
ポスターを作ったのは誰か
ポスターには制作者の名前は全く書かれていないため、当初は分からなかった。しかし、ハフィントンポスト日本版が今週、神社本庁が制作したものだと報じた。日本の文化的アンデンティティーの本質的な部分を占める神道の近年の人気は、国家主義の隆盛とも強いつながりがあると指摘されている。
神社本庁の広報担当者はハフィントンポスト日本版に対し、「祝日の意義を啓発するために祝日に国旗を掲揚することを推進している」と、ポスター制作の意図を語った。
ポスターは2011年に制作され、6万枚が日本全国の神社に配られたという。
なぜ今になって話題に
ポスターのモデルの女性が日本人ではなく、実は中国人だったと分かったことがきっかけとなった。
大手写真画像代理店「ゲッティイメージズ」が提供する画像が元になっており、「中国民族」のタグ付がされている。
日本ではこれが問題になる。日本の国家主義や第2次世界大戦の歴史をめぐる修正主義の盛り上がりに対しては、日本の占領下で苦しんだ中国が激しく反発しているからだ。
ハッシュタグ「#お前の愛国は中国製」は、日本で多くの人にリツイートされている。
米大統領選でドナルド・トランプ氏の支持者がかぶっていた「アメリカを偉大にする」と書かれた帽子が中国製だったことに触れ、中国が世界の愛国者を支えているとコメントする人もいた。
あるユーザーは、日本人とはそもそも何なのか考えさせられる、とコメントした。
ポスターの素材となった中国人モデルの写真を制作した北京の会社ブルー・ジーン・イメージズはBBCの取材に対し、「この非常に繊細な問題についてコメントはしない」と述べた。
しかし、写真のモデルは中国人で、2009年に撮影されたものだと明らかにした。神社本庁の担当者はハフィントンポスト日本版に対し、「特定の人物を指して日本人とする内容ではないので、問題にするほどでもない」と語っている。
モデルが中国人だったことに非常に驚き、また面白がっているのは日本人だけでない。中国でもそうだ。
中国で人気の短文投稿サイト、「微博(ウェイボ)」では、あるユーザーが刺激的なコメントを載せた。「きっとこれで日本人は実は中国人だったと証明されたわけだよね?」。
テッサ・ワン、加藤祐子記者
BBC New Japan 2017年5月12日付
僕は理系の人間で、数学という学問の恩恵にはそれなりに与ってきたと思うわけだけど、何かある概念を理解しようと思ったら、まずその概念の定義を確認する。これは、理系の教育を受けた人だったら大概無意識のうちにやっていることだろうと思うのだけど、そこにまず、僕が今回感じた嫌悪感の一端があるのだろうと思う。
「『日本人でよかった』はあ、じゃあその『日本人』の定義って何?」
ハァ?何そんなことも分からんのかこの三国人、とか言われるのだろう。だから最初に書いておく、というか、以前別のエントリに書いたのでリンクを張っておくけれど、僕の祖父はもともと青森の豪農の出で、その本家筋にいわゆる郷土史家の方がおられたため、有り難いことに僕の実家の家系図というのを作っていただいている。これによると、自分の血筋を5、6代程は遡ることができるので、おそらく世間で「日本人」「三国人」なんて言葉を乱発している人々の大多数よりは、血族的に「外国出身者の血が入っていない」ことは確認されているわけだ。だから、僕に「三国人」とか言うおつもりなら、まず御自分の血脈の証を立てて示してからにしていただきたい。
ただし、ここで勘違いしないでいただきたいのだけど、だから自分が純潔たる日本人なのだ、と言うつもりもないし、言うこともできない。家系図があって、数世代遡れてですら、そのようなことを主張することなどできはしないのだ。だって、精々確認できるのは父系の数代の話である。母系の家系図というのは存在しない。地域的に、大陸からの人間が入ってくることがあまり考えられないところであるにせよ、そこまでは確認されていないのである。僕の実母にしたって、母方の曾祖父位までは遡れるけれど、そこから先に関しては分からないわけだ。
そして、ここからが一番大事なのだけど、世間で「日本人」とか「三国人」とか言っている連中の言行を見ている限り、主張者がこのような血脈上の検証をしている例にお目にかかったことがないのだ。これは実に奇妙なことではないだろうか。
たとえば、韓国では、多くの人が自らの家系図を持っている。これは多くの場合改竄、捏造が行われているものらしい(まあこれは韓国だけの話ではなかろうが……王朝の血をひいている、とかさ)けれど、実利的な意味もないわけではない。たとえば恋愛対象が現れたら、互いの家系図を持ち寄って確認した上でなければ結婚はできない。韓国では李氏朝鮮以来の同姓同本の婚姻のタブーというものがあって、現在においてですら、あの国では8親等以内の結婚は許されないのである。
韓国においても、(たとえ我々からみて不毛な、もしくは形式主義的なものであったとしても)これ程までに血族というものが重視されている。その韓国の人々に向かって「三国人」とか言う連中が、自分の血脈のあかしすら立てようとしない。こんな奇妙な話ってあるだろうか?連中はきっと、問い詰めたらこう言うのだろう:
「自分はこの国で生まれて育ち、この国の人間の血をひいている。そしてこの国を愛している。だから自分は日本人なのだ」
はい、ダウト。いわゆる日系の人々なんて、下手すりゃ四世とか五世とかいってるんだよ?その中には既に帰化して、生まれたときから日本国籍の人だって山程いる。彼らは日本を我が国として愛していることだろう。そしてその多くは、おそらく自分が日本人だと信じて疑わず、何の疑問も持たずに暮らしているだろう。でも、たとえば父母、祖父母の代に韓国籍の人がいたら、
「あの人は日本人じゃないから」
とか、平気で言っちゃうんだよねえ、あなたたちは。そんなあなたたち自身が、ある日いきなり、自分の親や祖父母がその「第三国」とやらの血をひくということを知る可能性が、果たしてゼロだとでもいうのですかね?ゼロだというなら、まずその証を立ててみろ。そう言っているんだよ、僕は。
これらからも分かるように、日本における「自称日本人」の人々は、己の血脈を以てその民族性を主張しているのではないらしいのだ。これは右翼とよばれる人々の場合でもそうらしい。たとえば、いわゆる街宣右翼の人々の中に、在日の韓国籍・北朝鮮籍の人が少なからず存在していることが知られている。いや連中は実利的な目的から右翼を標榜しているに過ぎないのだ、と言うのは簡単なことだが、少なくともその形態を選択しているというだけでも、日本において殊更に右傾化したスタイルを誇示する人々が、その血脈を以て民族性を主張しているのでないと言って差し支えなかろう。
では彼らは何を以て民族性を主張しているのか、という話になりそうなわけだが、実はそれを考える上で、大事なことがすっかり抜けているのである。それは最初に書いた定義の問題である。
「日本人の定義は何か。」これらに関する、大多数の人が共有すべき定義というのを、少なくとも僕は知らないのだ。僕が知らないというだけではない。彼らが主張するところの、そして社会の大多数が了とすべき、「日本人」「日本民族」なるものが、実はちゃんと定義されていないのだ。
「日本民族の定義は何か。」
少なくとも法的には、「日本人」とは「日本国籍を有する者」である。これは疑問の余地のないところであろう。ところが、「自称日本人」たちは、たとえば在日の韓国籍・北朝鮮籍であった人々が帰化しても、彼らを日本人として扱わない。自分達と同一の存在として扱わないのである。先に書いたように、そもそも彼ら自身が、己の血脈としての証を立てていたためしがない、その上にこうなのだから、それは実に奇妙なことである。では何が、彼らの主張するところの「日本人」の定義なのか。
おそらくそれは、非常に単純なもので、かつ実際には至極曖昧、そして明文化するまでもなく分かった気になれるような、そんなものなのだろうと思う。そうなると、僕にはピンとくることがある。日本人なる存在が皆共有しているもの、つまり「自分達と同じもの」という概念である。
これはつまらないトートロジーである。「日本人」が、「日本人」かそうでないかを「自分達と同じかどうか」で判断する、というのは、一番最初の「日本人」、つまり比較の基準とされる集団を定義することなしに、その集団との同一性だけで判断する、ということである。集団のありようというのが最初に定義されていない以上、この「日本人」というもののありようは如何様にも変質し得る。そして「日本人」の定義はそれに連動してうつろう。つまり、こんな「日本人」なる代物は、定義の体を何ら為していないのである。
では何故彼らはそれをよしとしているのか。それは、何となく自分達の由来を「日本民族」であると考えているからだろう。じゃあ今度は「日本民族」の定義は何?という話になるんだが、これも非常に曖昧な代物なのである。
血液型因子やミトコンドリア DNA、そして Y 染色体の解析から、日本人の源流は、
- バイカル湖畔から華北を経由して、漢民族に追い出されるかたちで日本に流入した人々
- 長江流域から、やはり漢民族に追い出されるかたちで日本に流入した人々
- 日本地域の先住民
つまり、日本民族の血脈なるものは、結局は大陸の人々とは不可分な代物なのである。じゃあ、この「民族」なるものの依って立つものは何なのか?こうなると、それは二つ位しか残されてはいないわけだ。すなわち、日本語という言語と、王族の系統としてのヤマト王権である。
ところが、この日本語という言語は、日本民族を定義する上では都合の悪い代物である。まず琉球のことばを日本語に含められるのか、ということ。そして明らかに日本語に含められないアイヌ語・ウィルタ語・ニヴフ語の存在である。これらを考えれば、言語を以て日本を定義するということの難しさは想像に難くない。
では、ヤマト王権に関してはどうか。ヤマト王権の成立は3世紀中であるというのが現在の定説である。ただし、当初中国が日本の政権と認識していたであろう邪馬台国との関係がそもそも分かっていない。邪馬台国に関してほとんど何も分からないのだから、これは当然といえば当然なのだけど、これが「朝廷」としての実質を得たのは、ワカタケルの政権が形成された5世紀後半から6世紀のことである。東北地方のいわゆる蝦夷がヤマト王権の影響下に入ったのは、古墳の様式からみると4世紀中盤位ということになるのだろうが、実際には坂上田村麻呂の東方征伐のことを考えれば、8世紀位までは朝廷は東北・北海道を統制下におくことができていなかったわけだし、「日本」という国号が使われるようになったのだって、8世紀初頭の大宝律令以降だから、天皇家が日本の王族として君臨することになってから、そう時間が経っているとも言い難いのである。
そして、先の段落を書くにあたって僕がチェックした記述は、実は史部とよばれる渡来人の手によってなされた記録に依拠しているわけだ。4世紀から7世紀辺りにかけて、日本には渡来人が流入しているわけだけど、彼らは当時の日本において最先端の技術・文化・宗教を伝える知識階級であった。彼らの中には母系を経由して天皇家と姻戚を結んだ者もおそらくは複数あった筈で、大陸の血を持っていることはあの今上天皇だって認めているのだ。
そして、日本においては、ヤマト王権から至る天皇家は神道をその拠り所にしている(ことになっている)わけだけど、この神道というのも極めて厄介な代物である。まず統一的な教祖が存在しない。そして統一的な正典(≠聖典)が存在しない。信者とされる人々にも、実のところ帰属意識というものが存在しない。たとえば文化庁の『宗教年鑑』には、神道は日本国内で八万数千の神社を有し、支持者数は一億人を超えるとされているのだが、支持者は神社側の自己申告に基づいていて、神社周辺の地域住民や初詣の参拝者、甚しきは御守りや御札等の呪具の売上数や頒布数を以て信者数をカウントしている。カトリックの僕からすると、こんないい加減な話が通るというのが不思議で不思議で仕方ないのだ。
こういういい加減なことをよしとしているから、たとえば太平洋戦争に参加した神道以外を信奉する人々まで十把一絡げに靖国神社に合祀でござい、などという、理不尽を越えて暴力的とさえ言えるようなことを平気で口にするわけだ。カトリックの戦死者の魂をどうか我々カトリックに返していただきたい、いや返せ、と、僕は日頃から口にしているわけなのだけど、連中にしてみたら、この国で生まれ育ったなら自動的に神道でござい、後からカブれた耶蘇信仰なんて知ったものか、というわけだろう。
いや、僕は別に、この一点を以て連中を糾弾しているわけではない。まず「日本人」「日本民族」なる語の表すものが、これまで書いてきたように、実のところ極めて曖昧模糊とした代物であることを、まずは言いたいわけである。ただし、それは僕がここで主張したいことそのものではない。
僕が一番憤ろしいと思っている、そして「自称日本人」の人々にとって一番耳に障るであろうことを言うけれど、要するに、「自称日本人」とその周辺の人々は、ここまで挙げてきたような曖昧さ、いい加減さに関しては、実は全て承知しているのだ。その上で、それが存在しないかのようにふるまっている。それは何故か、というと、これ程都合の良いものがないからだ。
要するに、こういうことなのだ。何が「日本人」なのか、「日本民族」なのか、ということは、実はどうでもいい。精緻な検証などする必要も、その試みを知る必要もない。自分は、自分が「日本人」だと思っているから「日本人」なのであり、自分が「日本民族」だと思っているから「日本民族」なのだ、ということなのだろう。なるほど、「我思う、故に我在り」だってか。デカルトが聞いたら怒りそうだけどね。
そう思うのは、その人の勝手なのかもしれない。しかし、だ。彼らが次にやることはいつも決まっている。自分と違うものを、自分と同じでないことを以て「非日本人」「非日本民族」と規定するのである。これに関しては証左をここに提示する必要もないだろう。ネット上のいわゆるネトウヨな連中の言動をちょっと探してもらうだけでいい。彼らが糾弾する相手を規定するとき、まず間違いなくこうやっているから。
連中は、そういう自分の脆弱性を知っているから、曖昧な「日本人」「日本民族」を何とかして規定しようとした過去の試みを己の拠り所とする。しかし、彼らには曖昧であることが己の居心地を良く保つ上で、そして同じく脆弱な己の正当性を維持する上で重要であることをよく知っている。だから、厳密に歴史的文脈、あるいは民俗学的文脈から異分子を断ずるのではない。まず、自分達が真正であるということを前提として、自分達と異なる存在を「自分達と異なる」ことを以て糾弾するのである。
でもね、それって太平洋戦争中に便利に使われた、あの言葉を忘れているってことですよ。あの「非国民」って言葉ね。この言葉は輪をかけて悪質で、もともと現体制に従属していることを以て「国民」を規定し、従属していないことを糾弾する(既にこの時点で「日本」的手法の産物なわけだけど)ための言葉だったのが、やがて更に変質して、自分達と違ったことをする輩を手っ取り早く押さえ込む為に振り回されたんですよ。「この非国民が」という言葉はね。今横行しているネトウヨや似非日本人(ああ、やっと鉤括弧付きで書いてきた「日本人」や「日本民族」をこう書くことができる)が言うところの「日本人」「日本民族」そして「そうでない人々」は、こうやって規定されている……いや、規定したかのように見せつつ濫用されているわけです。
こういう風に便利に使われる「日本人」なる概念を定着させるために、あのポスターは作られ、貼られているわけですよ。それを了としているのは、それは操り人形にされているのと同じですよ?日本人でよかった、という前に、皆さん、考えてみませんか?日本人って何のこと?その定義は何なの?ってさ。