知らない人は哀しさすら解らない
ニコニコ動画を覗いていると、現在の音楽というものに関して、つくづく考えさせられることがある。ほんの少し、新しさの希望を感じることがあるかもしれないけれど、多くの場合、感じることといえば絶望の方が圧倒的に多い。
たとえば、この間の『俺の妹が……』のときのこと。他の人々がどんなデモを出しているのか、試しにいくつか聴いてみて、結局ほんの3、4本でやめてしまった。かなりの割合で、vocaloid(いわゆる『初音ミク』のような人工発声ソフト)を使っているし、歌を入れている場合でもほとんどが autotune で補正をかけていたからだ。
autotune というのは、いわゆるピッチチェンジャーの登場と共に概念的にはあったようで、ブラックミュージックなどで密かに使われていて、「あれこれヴォコーダーじゃないよね?」などと思ったことがちょこちょこあったのを記憶している。で、そんな風に、もともとはあまりポピュラーなものでなかった autotune が世間で広く認知されるようになったのは、おそらく Cher の "Believe" が最初だろうと思う。
Cher という人は大変にキャリアの長い人である。元旦那の Sonny Bono とのデュオ "Sonny & Cher" でデビューしたのが1964年、しかもそれ以前は Sonny Bono がかの Phil Spector の Gold Star Studios で働いていたのが縁で、あの "Be My Baby" をはじめとする数多くの Phil Spector のプロデュース曲でコーラスをやっていたのだという。歌唱力に関しては何も問題はない。いや、実際うまいんですよ、この人は。本当に。
そんな彼女がシンガーとしてやや低迷していた90年代の終わりに出たこの曲は、実はアメリカに先行してヨーロッパで発売されている。欧州各国でトップチャートを記録してから、アメリカで堂々のトップを獲得しているわけだ。これはこの "Believe" を今聴くと実に真っ当なやり方であることがよく分かる。要するに、ヨーロッパのクラブ寄りの人々を起爆剤と位置づけて、実際見事に火をつけることに成功したのだ。
Cher が autotune を使ったのは、勿論稚拙なヴォーカルを補正するためなどではなく、autotune による「不自然さ」をアクセントにするためだ。日本でも、当初は実際そういう使われ方をしていた、はずだった。それがどうもおかしくなりだしたのは、おそらく中田ヤスタカがプロデュースする Perfume が売れ始めてからだ、と思う。
Perfume における中田ヤスタカの方法論は実は明快で「Perfume の3人のヴォーカルラインをエレクトロニカ的視点で楽器とシームレスに扱うこと」である。要するに、autotune をがっつりかけたあの3人のヴォーカルは、オケの上に乗る歌ではなくて、エレクトロニカ的論法(音楽の構成要素をマテリアル化するような処理を施し、配置する)に則って配置された、オケを構成する音ともはや区別されない要素として扱われているのである。
トータルとしての音楽制作においては、これはまあ一手法としてオッケーなんだろうと思う。しかし、もし Perfume を世間の多くの人々が思っているようなポップアイドルとして捉えようとすると、この方法論は実に大きなパラドクスを生んでしまう:あの3人の女の子は「アイデンティティを主張する」のではなく、「アイデンティティの喪失によるポップなキャラクター化」を以て差別化されているのである。じゃあ、あれがあの3人の女の子である必然性は何処にあるのだろうか?こんなことを書くと Perfume のファンの人達には申し訳ない気がするんだけど、Perfume があの子達である必然性すら、実はとっくの昔に喪失しているのである。
僕も、決して上手い方ではないけれど、一応は自分の曲は自分で歌う。歌う以上は自分が歌うんだから、そこにアイデンティティを主張することすらあれ、それを消すようなことをするわけがない。だから僕は、autotune を使うくらいなら、喉から血が出てでもリテイクを重ねて自分の歌を録音するのである。しかし、どういうわけか、世間ではいまや僕のようなのは少数派である。
個性をコントロールできないなら抑制した方がいい、という、世間の方法論の行く先は、ちょっと考えれば想像がつく。もはや人が歌う必要すらないのである。だから「初音ミク」がこれほどまでに普及したに違いない。mixi などで音楽関連のコミュニティに入っていると、初心者を自称する人のどうしようもない程愚かな質問に嫌気がさすものだけど、実際、彼らのほとんどは「初音ミク」を使っている(使えているかどうかは怪しいところだけれど、少なくとも「持っている」「使おうとしている」のは間違いない)。まあ、世間の現状は、こんな感じなのである。
時々、僕もそういうものを使うことがあるのだろうか?と考えることがある。しかし、どう考えてもそういう気にはなれそうもない。僕が「歌」という言葉で思い浮かべるのは……古いところだったら藤山一郎とか、少年時代から死ぬ程聞いている山下達郎とか、吉田美奈子とか、大滝詠一とか、あまり知らない人が多いかもしれないけれど小坂忠とか、西岡恭蔵とか、いや永ちゃんでもクールスでもシャネルズでも、何でもいい。歌ってそういうものなんじゃないの?僕にとって「歌」ってのは、機械なんかなくったって、風邪ひいてガラガラの声でも絞り出すことがあって、それが自分の何かを表出するのに重い重い意味を持つものなのだ。そうじゃない「歌」なんて、僕には到底考えられない。
ふとこんな言葉を思い出した:「仏作って魂入れず」いや、Perfume の曲に魂がこもってない、とまでは言いませんよ。でも、もしこもっているならば、それはあの3人の女の子の魂じゃないと思うんだよな。だって、あんなフィルタリングされた声にこもる魂がもしあるならば、手法としてのフィルタリングを駆使「している」人のものであって、素材に成り下がった声の主のものじゃないと思うもの。僕のこういう考えって、何かおかしいんでしょうかね?