Fahrenheit 451
"Fahrenheit 451"『華氏451度』というのがレイ・ブラッドベリの小説の題名だというのはよく知られていると思うけれど、この題名の意味するところは皆さんご存知だろうか。読んだことのある方はご存知のことと思うけれど、「華氏451度」は大気中で紙が発火する温度で、その温度を題名に冠したこの小説は、反芻できるメディアである「本」の所持が禁じられ、発見し次第焼却されてしまう、人々が省みることを失った管理社会を舞台にした作品である。
僕達日本人は、義務教育において、焚書の歴史には必ずふれているはずだ……秦の始皇帝が紀元前213年に行った焚書のことを、歴史の授業で教わっているはずなのだ。近代においては、ナチスドイツが1933年に「非ドイツ的」(共産主義的であるとか、あるいはユダヤ人の書いたものであるとか)とみなした書物に対して焚書を行っている。ハイネやケストナー(『エーミールと探偵たち』などで知られるユダヤ系ドイツ人の作家・詩人)の作品までその対象になった、というけれど、社会の批判をかわすためか、ケストナーの児童書(おそらく『エーミールと……』も含まれていたのだろう)は対象外とされたのだという。まあ、何を対象から除外しようが、焚書というのは、時の流れに抗って人が残してきた(そしてそれが「歴史」を形成する)本というものを問答無用に消し去ろうという行為で、これ以上ない蛮行であることは言うまでもない。
その焚書が、この21世紀に行われるという、にわかには信じがたいニュースが入ってきた。それも場所はアメリカ、そしてその対象はクルアーン(世間では「コーラン」と記することが多いようだけど、欧米でもアラブ系言語での発音に倣って Qur'an と記するので、ここでも「クルアーン」と記する)だというのだ。これは聞き捨てならない話である。
クルアーンの受難は今回が初めてではない。9.11 の後、キューバの米軍施設において、テロ容疑で収監されている人々を苦しめるために、彼らの目前でクルアーンを破り捨ててトイレに流した……という話がメディアを賑わわせたことがあったのを、ご記憶の方もおられるかもしれない。これはその後の調査で誤報であることが判明したのだが、実際にクルアーンが蹂躙されたことはちゃんとあって、それはこの日本でも例外ではない。数年前のことだが、富山県の中古車販売店で、戸外に破られたクルアーンが散乱しているのが発見されたのだ。この中古車販売店の近所にはムスリムが礼拝に使用していた小屋があり、そこから盗み出されたクルアーンが破られたらしいのだが、このときは東京でムスリムがデモを行い、代表者たちが外務省を訪れて事件の再発防止と捜査の徹底を申し入れる、という騒ぎになった。
この事件に関して net で検索をかけてみると、「たかが本を破られた位で」というような論調が多数散見された。しかしこれは、ムスリムに対してあまりにも無知に過ぎる発言としか言いようがない。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三者に共通しているのは何か。まあこれは複数あるのだけど、そのひとつに「偶像崇拝を禁じている」というのがある。キリスト教なんかだと、十字架や「御絵」(イコン)と呼ばれる聖人の絵、あるいは像などが飾られる(プロテスタントは十字架以外のものを嫌うけれど、それでも十字架や聖書のある場面を絵にしたものは用いられる)わけだけれど、イスラム教においてはこの「偶像を禁ずる」ということは、キリスト教の場合とは比較にならない程に徹底されている。
だから、信仰や崇敬というものの向かう先は、教典であるクルアーンに、ひたむきに向いているわけである。ムスリムにとって、クルアーンというものは、ムハンマドが神から与えられた啓示であって、それを記した書籍としてのクルアーンも、神からの啓示が記されている以上、単なるモノではなくて、神の一部とでも言うべき存在なのである。僕達から見て、書籍としてのクルアーンが本にしか見えないとしても、それはそれで何の問題でもない。しかし、ムスリムにとってのクルアーンというものがそれ程に大事なものであるということは、少なくとも尊重しなければならない。彼らにとって、クルアーンを破られることが我が身を裂かれるのに勝る苦痛を与えられることならば、僕達は徒らにそのような蛮行を為してはならないのである。
しかし、そんなクルアーンへの侮辱という蛮行を、よりにもよってキリスト教の牧師が行なおうとしている、というニュースが、この何日か世間を賑わわせている。このことについて、僕は blog でふれようかどうか正直迷っていた。しかし、一時見合わせると発言していたこの牧師が、やはり決行するなどと発言しているらしいので、さすがに書かずにはいられなくなった。
この焚書騒動が起きているのは、アメリカはフロリダのゲインズビルというところにある、Dove World Outreach Center という教会である。この Dove World Outreach Center(以下 DWOC と記す) は、所属信者が50人程の小さな教会で、特に宗派を限定してはいないらしいのだが、カリスマ運動を支持する立場をとっているという。そして今回、クルアーンを燃やすと発言して物議を醸しているのが、この教会のテリー・ジョーンズ牧師である。
もともと DWOC は Donald O. Northrup 牧師と その助祭 Richard H. Wright 氏によって、1985年に創設された。Northrup 牧師は Maranatha Campus Ministries(MCM、カリスマ運動とペンテコステ派の影響を受けた組織で、大学のキャンパスで運動を展開していたが、強引な勧誘と権威主義的構造からカルトとして問題視され、1990年に解散している)の資金援助を得て DWOC を設立、運営していた。そしてこの MCM のドイツにおける拠点であったChristliche Gemeinde Köln (GCK) を1981年に創立、2008年まで運営していたのがジョーンズ牧師である。ドイツでの報道などを読むと、ジョーンズ牧師はこの GCK の運営においても、MCM で問題視されたカルト的なやり口(教会の所属信者に心理的プレッシャーをかけて従属させるような)を用いていたと伝えられている。また、California Graduate School of Theology(認可を得ていない大学で、実質的にはいわゆるディプロマ・ミルだと思われる)から学位を得ており、2002年にはケルンの裁判所から経歴詐称(Doctor の肩書を不当に用いたかど)で3800ドルの罰金刑を言い渡されている。どうにも後ろ暗い経歴の持ち主のようであるが、ジョーンズ牧師は2008年にアメリカに戻ってからは、夫人と共に DWOC の運営に従事している。
また、ジョーンズ牧師は、キリスト教以外の全ての宗教……イスラム教、ヒンズー教、仏教等……が悪魔の産物である、という信念を持ち、そのように発言しているらしい。先月には "Islam Is of the Devil" という本を出版している。なんでもジョーンズ牧師は自ら一度もクルアーンを読んだことがないのにも関わらず、クルアーンに書かれていることは嘘っぱちだ、と発言しているのだという。
そんなジョーンズ牧師が、今年7月に DWOC 名義で "International Burn a Koran Day" なるものを提唱した。これは簡単に言うと、9.11 の犠牲者を追悼し、イスラムの悪に対抗するために、9月11日の午後6時から午後9時に、皆でクルアーンを燃やそう、というのである。全く以て、ムスリムに対してこんな理不尽な話もないと思うのだけど、当然、あらゆる方面からこの発言を非難されている。ジョーンズ牧師側はそれらに屈しない態度を固めていたのが、教会のあるゲインズビルの消防当局から「火災の危険があるので焚書は認められない」と勧告されたために、教会で焚書のイベントを行うつもりだったのを中止した、というのだ。もはや笑う気にもなれない。
しかし、この "International Burn a Koran Day" は、残念なことに、アメリカ国内のある程度の人々(おそらくは保守的キリスト教徒だと思われるけれど)の支持を得ている。ここにはfacebook の "International Burn a Koran Day" のアカウントにリンクしておいたのだが、このアカウントは消去された。その後、同調者が実際にクルアーンを焼いている映像を発見したので、それにリンクしておく:
残念ながらその気になっている連中が存在しているのは事実らしい。
この焚書騒動は、WTC 跡地にモスクを建てることへの反対だ、と言われているけれど、そもそもジョーンズ牧師の今回の騒動は、そんな次元ですらないもののようだ。ただし、クルアーンを燃やすということは、あまりに理不尽な行為であって、ましてや聖職者がそんなことをするのは断じて許されるべきことではない。イスラム教とキリスト教は、旧約・新約双方の聖書を共有しているのだ。だから、キリスト者がこのような蛮行を為すということは、何が何でも回避されなければならない。
ジョーンズ牧師が予告している9月11日の午後6時は、日本では明日日曜日の朝である。目覚めのニュースで焚書決行などという見出しを観ずに済むよう、まずは神に祈るしか術はない。本当に、どうしてこんな輩が出てくるのか。本当に、勘弁してほしいものなのだが。