残酷さを隠すことは優しいことなのか
知人の某氏がお子さんの音楽発表会に行かれたところ、ある児童合唱団が『チコタン―ぼくのおよめさん』:
を歌っているのを聴かれて「今でも歌われているのか」と驚かれた、という話を聞いた。
この歌は児童合唱のために書かれた組曲で、僕はたまたま何度か(かなり前のことだが)聴く機会があって知っていた。後で知人何人かに聞いてみると、関東では僕の世代ではあまり知っている人がいないようである。この歌は全編大阪弁で歌詞が書かれているから、なのかもしれない。
この歌の詞を書かれた蓬莱泰三氏は、『中学生日記』のシナリオなども書かれている方だが、理不尽さが人の幸福を呆気なく奪ってしまう、という、大人にとってもシリアスなテーマを、こんなに子供の視点から率直に描いた歌を、僕は他に知らない。男性だったら、この『チコタン』の前半部、主人公の男の子に好きな子ができて、「どうしてこんなに好きになっちゃったんだろう」とか「(チコタンの嫌いな魚を商う)家業の魚屋を継がなければならない身だからぼくは失恋したんだ」などと思い悩むくだりは、幼少期の淡い恋の思いの琴線に触れるところがきっとあると思う。それが、実にあっけなく、(大人の……この曲の書かれた当時の成長期の日本の)社会によってその想い人が失われ、やり場のない悲嘆と怒りに暮れる……世間ではこの歌は「トラウマソング」などと呼ばれているそうだが、とんでもない話で、多感な子供だからこそ、こういうものに触れて、そして親や兄弟と対話する必要があるのだと思う。
しかし、最近の社会は、こういうものを「優しさ」(精神科医の大平健氏が言うところの「やさしさ」)の名の下に隠蔽し、排除しようとする。まずキワモノ扱いし、「トラウマソング」の名の下にカテゴライズする。合唱曲としてはよく知られた曲だから、部やサークルでは取り上げやすい曲なのだろうけれど、例えば校内合唱コンクールなどで一般クラスの生徒に歌わせようとしたら、何かしら横槍でも入ってきそうな気配がする。結局それは、「やさしさ」溢れる行為であるように見せかけて、自分自身も精神的に少なからぬ重みを感ずる子供との「対話」を避けている(正確には「対話」で生ずる責任を負うことを忌避する)、というだけのことなのに。
『チコタン』は昭和44年(1969年)度文化庁芸術祭において優秀賞を受けている。そういう評価と、児童合唱の現場にいる人々の良心のおかげで、未だにこの局は歌い継がれている(最近も新版の譜面が出版されたりしている)。こういうものがなくなったら、きっとこの国は未来も含めてもうおしまいなのかもしれない。
ちなみに、上に引用した YouTube の動画(ちょっと前に、とある本で見かけるまで存在を知らなかった)であるが、これは学研映画が交通教育用に作成した16 mm フィルムの短編映画である。アニメを担当された故岡本忠成氏は、阪大の法学部から会社員を経て日芸に編入、卒業後は『日本昔ばなし』などの短編アニメを多数制作された方である。まさか自分の大学の先輩だとは思いもしなかったが……
そして、僕が不明にして知らなかったことがもうひとつあった。この曲には answer song とも言うべきものがあったのだ。
『日曜日〜ひとりぼっちの祈り〜』:
というのがある。これは……正直、重い。ぜひ御一聴いただきたい。