「教えてください」な人々とその周辺の人々

どうも最近、mixi などで不快なめにあうことが多い。

要するに、彼らを見捨てれば、それで僕には何も不利益はないのだ。しかし、あまりに目に余るので何かコメントすると、それはやがてほとんどの場合トラブルに発展する。知人との連絡・消息確認の目的さえなければ mixi なんてさっさと抜けてしまいたいのだけど、どうにもそういう訳にもいかずに困っている。

不快の原因は何か、というと、大概は音楽やコンピュータ関連のコミュニティにある。この手のコミュニティは、いわゆる Q&A の比率が非常に高いのだけど、そのQ&A の「質」があまりに低いことに、その原因はあると言っていいだろう。

コミュニティの中でまず頻繁に見受けられることは、「教えてください」というトピックが乱立することである。最初にこれを見たときは、

「『教えてください』じゃあ、何をどう教えてもらいたいのか分からないだろがヴォケ」

と思っていたのが、次第に、

「こいつらは『何をどう教えてもらうべきなのか』すら自己判断できないのか」

と思うようになってきて、今は、

「そうか、『教えてください』って書きゃあ、皆とりあえず目を通さずにいられないし、目を通した以上はコメントしなきゃいけないような気になる。それを知っての確信犯なんだな」

という風に思うに至った。この手のトピックのパターンは決まっていて、

  • 何をやりたいのか、何が分からないのか、何を教えてほしいのか、が曖昧
  • マニュアルを見れば簡単に分かるようなことを平気で聞いてくる→最初から自助努力を放棄している
  • 助言者の知識・経験・時間が消費(空費)されることに何の罪悪感も感じていない
  • 助言の内容を実践しないうちに、斜め読みして分かったような気になって自然消滅する
と、まあこんな案配である。

この手の輩は、他人の知識や経験を消費するだけで、継承する気もなければ、得たもので創作するものの質もたかがしれているので、僕はかなりきつい返答を返すことが多い。まぁ NetNews で void 氏とかさいとう氏(ご本人はそんな怖い人でもないのだけど)とか lala 氏とかが頻繁に出没していた頃からの人間なので、これでも相当優しく書いているつもりなのだけど、最近は「ネチケット」(この単語も死語になりつつあるが)と「やさしさ」(この単語に関しては『やさしさの精神病理』をご参照のこと)を勘違いしている馬鹿(ああ、あえて書かせてもらおう、彼らは馬鹿である)が、「教えてください」的質問をする奴を擁護して、

「上から目線」
「尊大な態度」
「頭が良すぎる」(これなんかは明らかに僕の経歴に歪んだルサンチマンを抱いている証拠であろう)

などと熱心、かつ執拗に書き込んでくる事態まで増えてきた。

正直、どうしてこんな風に腐ってきてしまったのか、と思う。『やさしさの……』は、もう14年も前に出版された本だが、著者の大平氏が指摘していた「やさしさ」が、こうも社会でうやむやのうちに受容されているのか、と思うと、反吐が出そうな思いがする。

これももう10年以上前に書かれたものだが、Linux の日本での普及に貢献したことで知られる生越昌己氏の『我々は十分か?』という document を読むと、今の僕に酷似した苛立ちと諦めに満ちた心境に触れることができる。程度や分野の別はあれ、もうこの手の現象は10年以上前からこのレベルで浸透していたことがよく分かる。

この問題に関して言及するときに僕がよく使う例えが「ドラえもんとのび太の関係」である。漫画の『ドラえもん』の場合は、のび太が一人にドラえもんが一体だから、ドラえもんはのび太の専属でいられるのだが、現実の社会において、のび太はたくさん存在している。ここで言う「のび太」は、

  • 問題意識がなく、自助努力をしない
  • 自分一人でできることでも平気でドラえもんに頼む
  • ドラえもんが四次元ポケットから出してくるものは無尽蔵、かつ無料であると信じて疑わない
  • ドラえもんに対する配慮がない
というところだろうか。こういうのが一人いるだけでも大変なのに、これが5人も6人もいるわけである。

で、これも何かの因果なのか、と、半ば諦めの境地で四次元ポケットをまさぐっているわけだけど、こちらはネコ型ロボットではなく人間なので、あまり同じようなことが続くと腹も立ってくる。きついコメントも書くわけだ。

そうすると、のび太をうらやむスネ夫やジャイアンが、あるいはドラえもんの存在にルサンチマンを抱くような連中が、ドラえもんの不実を徒党を組んで攻撃し出すわけだ。まあ、こういうことをする連中は所詮は「お里が知れる」と思うのだけれど、さすがに何度もこういう手合いに出くわすと嫌気も差してくる。

だから、最近知人連中と会うたびに話題に上ることが「ドラえもんにならないためには」という話なのだ。こう書くと、さも冷たいように思われるかもしれないが、とにかく相手は「消費することしか考えていない」連中で、ドラえもんから得た恩恵を分かち合ったり、継承したり、やがては自らドラえもんになろう、などということは、欠片ほども考えていないのだ。そういう連中を相手にしていたら、やはり「脱・ドラえもん」への道を模索せざるをえない。で、

「あっしには関わり合いのねぇことでござんす」

などと股旅めいたことを呟いて、一瞬の後に、しまった、と後悔するのである。「木枯らし紋次郎」じゃあ、結局助ける方に回らざるを得ないじゃないか。

「『教えてください』な人々とその周辺の人々」 = 「のび太と愉快な仲間たち」

に対して、僕達はどう行動すればいいのだろうか。知は継承されるべきものである、という哲学が身にしみている僕達にとっては、これは本当に難しい問題であると言わざるを得ない。本当に、のび太達がこれだけ増殖してしまうと……

2009/09/21(Mon) 14:51:51 | 日記
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Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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