続・転移・逆転移
前回の blog で書いた話の補足を少々。
僕は大学院生時代に、食うために非常勤講師をしていたことがある。情報処理関連の演習を担当することが多かったけれど、これもいわゆるコンピュータリテラシと呼ばれるものからプログラミングまで、幅広く教えていたし、他にも物理学実験とか、あとは自分の所属学科のリサーチアシスタントということでやはり情報処理演習の講師をしたりもしていた。だから、二十代の中盤〜後半は、週に何日かはスーツを着て「センセイ」「センセイ」と呼ばれる生活をしていたわけだ。
僕は自分がそういう演習を受講していた頃には、いかにして講師に一泡吹かせるか、ということに終始していたから、出された課題はさくっとクリアして、応用問題みたいなものを勝手に設定して、それをレポートにまとめては「今回の演習の程度の低さには見識を疑う」などと書き添える……ひどい学生だった。大分後になってから、その頃に演習を担当していた教官が、そういう僕のレポートを出してきて「いやあまりに面白いんでとっといたんだよ」などと笑うのに、だくだくと冷や汗をかかされたりしたのだけど……まあ、だから、平均的な学生の演習や講義に臨む態度とか、してくる質問とか、そういうものを聞き、また答えることは、なかなかに新鮮な体験であった。
で、慣れてくると、ある種の学生の存在を意識するようになった。その学生は女性だったのだけど、僕が巡回してくると、
「先生ぃ〜、これ、分かれへん〜」
と、しなだれかからんばかりの勢いで質問してくるのだ。最初は本当に分からないのかと思い、丁寧な対応を心がけていたのだけど、どうも他の学生の反応が冷たい。そこで、クラスの中でも1、2を争う程出来のいい女子学生にそうっと訊いてみると、
「あの子は、そういう感じやから」
「そういう感じって?」
「質問とかするのに、どんな先生にでも、あんな感じで、ベターって」
「ベターって……というと、媚びているというか、そういう感じなのかね?」
「……」
言わぬが華だ、と言わんばかりの溜息をついてみせるのだった。なるほど。まあ、本当に分からなくって質問してくるのでなければ、他の学生を優先すればいいだけの話である。そう決めて、次回の講義からは、他の子の質問を優先して対応していると、問題の子は、自分の席を離れて僕にまとわりついてくるのである。
異性の年下の子にこんな風になつかれると、鼻の下を伸ばすような人もいるのかもしれないが、僕は残念ながら、こういうことにはとことん懐疑的なのであった。これは何か変だぞ。どうしてこうもまとわりついてくるのだろうか?その子は講義中だけではなく、僕の休み時間にも、質問にやってくるのであった。ますます変な話だぞ?僕の中では警戒信号が鳴り響いていた。
いくつかの演習を経験するうちに、僕はそれが、どの演習においても観察される現象であることに気付いた。ほとんどの場合、その学生は女性であった……僕は夜間部の講義も受け持っていたから、自分より年上の社会人学生だったりすることもあったけれど……そして、同じように、しなだれかからんばかりの勢いで、僕に質問を繰り返すのであった。
非常勤暮しの先輩であった某氏に、この件に関して質問してみると、
「へぇ、Thomas クン、モテモテやないか」
「いやあ、そいつぁ違うでしょう。ああいうの、どうしたらいいんでしょうかね」
「まあ、食ってみるのも経験なんじゃないの?」
そう言って某氏はニヤニヤしていたが、これは明らかに「食わん方がいい」の意味だろう……まあよく分からないけれど、コマセの中には針が入っていて、パクっといったら「フィーッシュ!」とばかりに抜き上げられてしまうんだろうか。とりあえず、君子危うきに近寄らず、の原則に従って、
- 演習中の質問に対しては、一定頻度、もしくは一定所要時間を超える対応を避ける
- 演習以外での質問は、第三者が介在しない場での接触・対応を避ける
- 昼休み等の機会でも、一緒に食事するなどの接触を避ける
当時は、ネット関係で、いわゆるパーソナリティ障害とでも言うような感じの人の引き起こす問題に触れることが何度かあったのだけど、こういう場でも、僕にしなだれかかんばかりの勢いでアプローチをしてくる人に出喰わすことがあった。まあ、おそらくは僕の経歴とか、ネット上での発言内容とか、そういうものに惹かれてそういうアクションを起こすんだろう、と思っていたのだけど、あるときに、演習で出喰わす女の子と、このネット上でアプローチしてくる人とが重なったのだった。
あー、なるほど。解釈できてしまえば何のことはない話で、彼ら(彼女ら、と書くべきかもしれないが)は要するに、知的権威に従属したいんだ。もちろん僕は権威然としてふるまっているわけでもないし、隠然として権力を行使したりしているわけでもないのだけど、学生にとっての講師、まだ現在程「普通の」存在ではなかったネットで堂々と発言している大学院生、といった存在に、寄りかかる対象として接近しようとするアクションが、ああいった「媚びた」アプローチとしてなされるんだ、と考えれば、全ての行動がはっきりと見えてくる。当然だけど、そこには愛などありはしない。もちろんこちらから寄せるべき愛も、僕はそこに見出すことなどできなかった。
他にも、カトリック的な倫理観みたいなものも機能していたのかもしれないけれど、そんなわけで、僕がそこで affair に精を出す(なんか生生しいなあ)ことはなかったわけだ。しかし、もし僕に教育に従事する者としての意識が希薄で、そういう場で自分の思い通りになる異性を獲得しよう、という気があったならば、おそらくは、その目的を達成することは、そう難しくなかったのではないか。そんな気がしてならないのだ。だって、相手の望むものははっきりしている。こちらはそれを供給してやればいい。利害が一致したところで、相手に権威としての圧力を程良く作用させてやれば、自分の都合のいいように相手を操作することは、相手がその事実に気付いていた場合ですら、きっと容易いことだったと思う。
ただ、もしそうなっていたとして、それが「自分の主体的な意志による」対象の操作であったかどうか、ということに関しては、いささか怪しいと言わざるを得ない。だって、それが相手の操作の結果であって、まるで仏様の掌の上の孫悟空のように翻弄され、しかし自分では暴れ回っているように思い込んでいるだけなのかもしれないのだから。まあ、僕はそうやって誰かを操作することにも、逆に操作されることにも、正直、喜びを見出せるとは思えない。人生での人との出会いが想定範囲内に終始するなんて、そんな人生、何が楽しいのやら。
こういう体験をした時期が、この国で丁度パーソナリティ障害というものが注目されるようになった時期とかぶっていたことが、現在に至るまでの僕の日々の中で、極めて大きな意味を持っている。こういう、確信犯的に他者との関係性を操作することによる、一見充実しているように見えて、その実空虚な人間関係というもの……それが発生し、そして壊れるのを、その後何度となく傍観することになったからだ。
しばしば僕は、こういうシチュエーションを説明するのに、大平健氏の『やさしさの精神病理』に言及するわけだけど、僕との会話でこの本に興味を持ったらしき U が、『やさしさの……』を amazon で入手して、今丁度読んでいるところである。僕もちょろっと拝借してざーっと見返したりしていたのだが、20年経っても、人というものは実に進歩していないものなのだ、ということを思い知らされる思いがする。関係性を制御しようとすることは、結局はそこに変革も、予想外の出会いもない世界に、自らを押し込めているだけのことである。まあ……たとえばイプセンの『人形の家』における家庭と愛のかたち、とか、昔からそういうものは、その存在も問題性も認識されていたのだろうけれど。