姑息と言えば……
まあこの言葉に限らないのだけど、僕が日常会話で使う term には、どうも世間一般であまり通りがよろしくないものが混じっているらしい。僕は書き言葉にかなり近い言葉で話すのが日常習慣であって、要するに僕の書き言葉が「カタい」から、らしいのだが。まあ、僕にとってはカタかろうが柔らかかろうがどうでもいいのだけど、通じないとなるとこれは問題である。
そう言えば、2ちゃんねる用語で「ふいんき」という term がある。正確には、
「ふいんき(←なぜか変換できない)」と書いた輩がいるらしい……もちろんこれが「雰囲気(ふんいき)」の誤用であることは言うまでもないのだが、まあこれは都市伝説のようなものだ、と僕は思っていた。
しかし、先日、ある人物のブログに目をやったところが「いちよう」と書かれているので「???」となったのだった。これだけだと分かりにくいかもしれないので、最小部分を引用すると、
いちよう考えてはありますが…これを見て、最初の1、2分考えた。もちろん「一様」の意味ではなさそうだ。しかし……いやしかし……考えた末、これはどう見ても「一応(いちおう)」の誤用である、と結論付けざるを得なかった。「一応」を「いちよう」と読む輩が実在する(しかも僕の知り合いの中に!信じ難いけど!)ということは、「雰囲気」を「ふいんき」と読み書きする輩がいたって、おかしくはないのかもしれない。いやはや。日本の教育水準ってこんなものなのか?
さて。僕の話に戻ろう。前回の僕の書いた文章の中に「姑息的」という term が出てきたのにお気付きの方もおられるかと思う。僕はしばしばこの言葉を使うのだけど、どうも世間ではこの言葉は「一般的ではない」らしいのだ。
僕としての言い分はこうだ。「姑息」の意味なんて、小学生……は知らないかもしれないけれど、大人で日本人だったら知っていたってよさそうなものだ。「姑息」が「その場しのぎ」の意味だ、というのは、これはコモンセンスなんじゃないの?……ところが、これを言うと、おそらく100人のうち97、8人は「いや違う」と言う。「『姑息』って悪い言葉じゃないか!」と糾弾されるのだ。
まあ、悪い意味がないわけではない。goo 辞書における「姑息」の意味解説にリンクしておくけれど、「姑息」というのは、僕が上に書いた通りの意味なのだ。「姑息的」というのは、よく医者が使う表現で「姑息的治療」という言い方をすることが多い。これはまさに「その場をしのぐための治療」という意味で、たとえば、末期の食道がん患者に食べ物が通るような手術をする、なんてのが一例に挙げられるだろう。
しかし(医者はこの言葉が誤解されやすいことをよく知っていて同業者以外にこの言葉を使わないことが多いのだけど)、医者が「姑息的治療」というときには、必ずしも悪い意味で使っているとは限らない。医者はいわゆる「対症療法」の意味でこの言葉を使うことがしばしばあるのだ。それはWikipedia 日本語版における「姑息的治療」のエントリを見ても明らかであろう。
僕としては、「『ふいんき』とか『いちよう』とかしれーっと使ってるような奴らに俺の日本語をどうのこうの言われたかぁねぇや」というのが本音なのだけど、まあものを知らん奴に限って、世界は自分の見える部分だけに存在していると信じて疑わないから始末が悪い。ああ、ここ読んで「始末が悪い」の意味が分からない、とか言われそうで、なんだか厭になってきたな。「始末が悪い」というのはね、「扱いに困る」という意味ですよ。ええ。いや、本当、始末が悪いのである。
Re:姑息と言えば……
> 「的を射る」を「的を得る」と使っている人はかなり多いですねえ。確かに。これもそうなんですけど、実は最近の日本語変換エンジンにも原因があるのかもしれません。たとえば ATOK も Google 日本語変換も「ふいんき」を「雰囲気」と変換しますし、「まとをいる」は google 日本語変換の場合は「まとを」まで入力したところで「的を射る」が出てくるので、ユーザが「いる」か「える」か意識しない、ということがあるようで。