聖書朗読が大切な理由
先週末は、3日連続で教会に行っていた。というのも、24日はクリスマス・イブのミサ、25日はクリスマスのミサ、そして26日が主日のミサ(いわゆる日曜礼拝というやつ)だったからだが、どうも最近、ミサに行く度にイラっとさせられることが多くて参る。
そのひとつが、ミサ中の聖書朗読がいい加減に行われていることである。どのように「いい加減」なのか、というのは、よくあるパターンそのままで、
- 読み間違いが多い
- 速過ぎる
- さも感情移入している風を装ったあざとい読み方
こういう人々は、おそらくミサ中になぜ聖書朗読が行われるのか、その理由が分かっていないのだろうと思う。それを知っていたら、とてもじゃないけれど、こんな読み方はできっこないのだ。聖書朗読がなぜ大切なのか、というのは、初期キリスト教の様相というものを思いやれば簡単に理解できる。
初期キリスト教というものの維持・伝播には、実は不思議な特徴がある。当時の社会において、かなりの割合の人が文盲であったにもかかわらず、キリスト教が聖書や書簡などの「文書」によって伝播し、維持された、という点である。キリスト教が「ことば」にいかに重きをおいていたのか、というのは、たとえば「ヨハネによる福音書」の冒頭部をみればよく分かる:
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。−−ヨハネ 1:1−5
この「言(ことば)」というのは、ギリシャ語では λόγος (ロゴス)、ラテン語では verbum (ウェルブム)と記されるが、このロゴスというのは、特に理知的・論理的な「言葉」を指す語である。つまり、神は理知的・論理的な言葉そのものである、と、上引用部は記しているわけで、これは神とその発した言葉の関係を神とキリストのそれになぞらえていて、しかも言葉と神が同一であると書いていることから、三位一体という概念に大きな影響を与えた記述とされている。やがてロゴスという言葉はキリストを指す語として使われるようになるのだが、これ程までに、キリスト教においては、言葉とその背景に湛えられた論理が重いものとして扱われているのである。
しかし、だ。我々は、キリスト教の成立当初において、それが社会的弱者のものであった事実を思いやらなければならない。彼らは充分な教育を受けることなど到底できなかったはずで、文字の読み書きなどできる者は極めて少数だったはずである。なにせ、聖書の中にも:
議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。−−使徒言行録 4:13と書かれている。この時代、無学という言葉は暗に文盲を指すものだったので、十二使徒の代表メンバーであったペトロとヨハネですら文盲であったことが、ここから推測されるのである。
しかし、この時期に、パウロは夥しい数の書簡を各教会に送っている。そしてその中に、その書簡を読み聞かせるように書いているのである。
この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。−−コロサイ 4:16
この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。−−1テサロニケ 5:27このような記述が何を意味しているのか。答は簡単で、各共同体にほんの一握りだけ存在した文字の読める人が、このような手紙を音読し、皆に聞かせる役目を負っていたのである。その人は、自分の言葉としてではなく、パウロの言葉としてそれを読み、文字の読めない信者達はその内容を自分のものにすることができたのである。
これは聖書においても同様である。
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。−−ローマ 10:14−15
ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。−−ガラテヤ 3:1−6福音伝道が「読み聞かせ」たものを会衆が「聞く」ことによってなされていたのは、これらからも明らかである。つまり、聖書の使徒書や書簡、あるいは聖書の他の箇所を「読み聞かせ」るという行為が、教会成立当初からの、福音を分かちあう上での最も基本的で、最も重要な行為だ、ということも、やはり明らかなことなのである。
どうも最近、こういうことを何も考えずに聖書をただ読んでいる……いや、聖書すらチェックせずに、典礼用のパンフレットの引用箇所を、音読練習もせずにぶっつけで読んで、つっかえつっかえ無様に読んだり、はなはだしきに至っては、書いてもいないことを頭の中で勝手に補填して読んでいるような人が多数派になりつつあるのは、このような事実に目をやったことのある者からすると、もう苦痛で苦痛でたまらないのである。