十年、一昔になれず
2000年9月の僕の日記に、google からアクセスしている記録を見つけた。で、ふとこの日記を読み返してみたのだけど……正確には9年前のこの日記で僕が語っていることは、今の僕のそれとほぼ何も変わっていない。一瞬、自分が成長していないのか、という恐怖を感じたが、よくよく考えてみると、実は世間が進歩していない、というだけのことのような気がする。
例えば、この当時と比較すると、CPU、メモリやディスクに関しては数十倍の規模のコンピュータを、ごくごく普通の人達が使っている状態である。しかし、この当時と比べて、例えば human interface がどの程度進歩したというのだろうか?キーボードのスイッチはコストダウンによって無残なタッチになってしまったし、ディスプレイも液晶化という一大進展はあったものの、その「在りよう」までは変わっていない。ソフトウェアにしたってそうだ。不要な機能がてんこ盛りになって、実際の事務処理ではいまだに「あ、書類は Word 2000 のフォーマットでお願いします」などと言われる。その名の通り、この年に出たソフトのフォーマットが未だに業界の de facto standard であって、XML 化された新しい Word のフォーマットは忌み嫌われる始末ではないか。
これが、実験系研究者としての黄金時期と言われる30代の実態だったのか、と思うと、恐ろしくなる。しかし、その時代の中で「時代性を纏わない」生き方、研究テーマ、音楽、そういったものに触れ、自らも生産できたことには、「少しは突っ張っただけのことがあるじゃないか」と誰かに言われてもいいような気がする。たとえばこの10年で化け物のように肥大化したコンピュータのハードウェアの上で、基本的には何も変わらない SKK が動く。それは、人の普遍性というものに少しでも近くあろうとした結果なのだと思うし、自分の人生を時代の流れの泡沫と化すことを恐れる僕は、自分の残していくものがそこに少しでも近くあってほしい、そして時代の中で注目されるものからの距離で評価され得ないものであって欲しいと強く願っている。このこと、それ自身も、やはりこの10年で変わらない僕の信念なのだ、と、少々高邁かもしれないが、そんな自己評価をしているのだ。