柳澤桂子氏に、一言
今日、ひょんなことから見た『クロワッサン 7月10日号』の表紙の一文に、僕は心臓が止まりそうな心地がした。
「放射線によって傷ついた遺伝子は、子孫に伝えられていきます」と、柳澤桂子さん。これからの「いのちと暮らし」を考えます。いや、ちょっと待って下さいよ、柳澤さん。
http://red.ap.teacup.com/kysei4/627.html などを一読すれば分かるけれど、これは反原発に酔っている「だけ」の人々(誤解なきように書き添えておくけれど、僕自身は原発推進論者ではないので念のため)にしたらうってつけの文句である。そういう人々が、自らを「穢らわしい」放射線の源から遠ざけて「清い心身」を維持する(もちろんその内実は、現実から目を背け、苦しむ人々を差別的な視点から俯瞰しているだけのことである)上で、こんなに便利な引用句はない。しかも、柳澤桂子と言えば、闘病生活の中で生命科学者として数々の文章を発信し続けている人として、世間ではつとに有名である。まるで権威に依り縋らんその様は、都合の良いことを言う地震学者を厚遇してきた原発推進側と、実のところ何も変わらないロジックで動いている。
僕は、生命科学を専門分野としているわけではないけれど、あくまで一般常識の範疇で、この文句の危うさをここに主張しておかずにはいられない。放射線が簡単に DNA を「書き換え」それが親から子に「継承され得る」ものである、というこの言葉には、僕は自然科学に関わる者として断固「それは違う」と言わざるを得ないのだ。
柳澤氏がアメリカに行っていた頃というと、丁度アメリカでは「スペース・オペラ」と呼ばれる SF の小説や映画が流行っていた頃である。「オペラ」と言うと何か凄そうな印象を与えるかもしれないけれど、この言葉はおそらく soap opera という言葉と相似的に使われるようになったものだと思う。つまり、粗製濫造され、玉石混淆の態をなしていた SF の作品群を指して、このように称するわけだ(勿論、玉石混淆という言葉の示す通り、それらの中には素晴しい作品が数多く存在していることを書き添えておかねばならないが)。
この「スペース・オペラ」は、やはり時代をある程度反映していて、放射線や放射性物質によって突然変異を来した、いわゆるミュータントの類がよく登場する。勿論これは、当時の冷戦構造と、そこで行われていた核競争を反映したものであるわけだけど、実際に我々はそのようなミュータントにお目にかかれるものなのだろうか?
たとえば、独立行政法人農業生物資源研究所という研究所がある。もともと農水省傘下にあった研究所なのだけど、この研究所は茨城県内に「放射線育種場」という施設を持っている。ここは、その名の通り、放射線による突然変異を利用して新しい品種の植物を作ることを試みている。茨城県・常陸太田には、60Co を線源として、その周囲を囲むように畑がある、いわゆるガンマフィールドがあって、ここで有用品種の開発が行われている(ちなみにここも、東日本大震災以降、稼動中止している。)
突然変異というものが容易く継承・定着するならば、このガンマフィールドで活発に様々な新品種が開発されるはずだろう。しかし、実際には、このガンマフィールドで開発された新品種は数十品種程度なのだ、という。ここでは植物それ自身、もしくはその種子に対してガンマ線照射を行っているわけだけど、照射した植物は多くの場合何も影響を受けないか、枯死するかする。変異が継承されることは極めて少ないのである。
では、動物の場合はどうなのか。チェルノブイリでも、事故の後数年位の間、牛などに奇形が報告されているけれど、そのような奇形が継承される、という事例は、僕の知る限りは存在しない。その理由は簡単で、奇形で生まれてきた生命は極めて生存能力に乏しく、その多くが生まれて程なくして死んでしまうからだ。
そもそも、生殖細胞というものは、全ての細胞種の中でも最も放射線に対する感受性が強いもののひとつだが、変異が安定に継承されることはまずない。先にも書いたけれど、変異種は弱いから、自ずと死んでしまうのである。これは自然が遺伝子のコピーミスを継承させないための、ひとつの巧妙なメカニズムであるとも言える。
ネクローシスとかアポトーシスとかいう言葉を挙げるまでもなく、自死というのは、生命において重要な仕組みである。それがコピーミスを防ぐ、その強力な機構に関して、生命科学者である柳澤氏が知らない筈はない、と思うのだけど、どうしてこういう軽々な言葉を雑誌に掲載されてしまうのか。僕はただただ理解に苦しむ。氏のサイトのコンテンツを眺めると、エッセイにこんなことが書いてある:
前回の原稿で、「白血病で亡くなった子供」と書きましたら、
杉浦さんとおっしゃる主婦の方から、この中には大人も入っているのではないかとご指摘をいただきました。
確かにアリソンの原著には、大人も子供も区別していないので、
子供とはかぎりません。訂正させていただきます。
アリソンの論文には、これは広島、長崎のデータだと書いてあるのですが、
原爆が落ちたあの混乱のなか、どうやってこのようなデータをとれたのかと不思議に思っていました。
これは、広島、長崎の原爆投下後の生存者にアンケートを取ったり、
直接問診したりして集めたものです。
アメリカは、このようなデータを取ることに初めから積極的でした。
のちには日本と共同で膨大なデータを作りました。
それは人類の貴重な財産です。
けれども私は、何か引っかかるものがあって、
素直に喜べないのです。
あれだけひどい目に遭わされて、
その上データまで取られた!
そういう考え方は心が狭いと思うのですが、
やっぱり悲しいです。
皆さんはどう感じられますか?
広島や長崎でアメリカの ABCC(原爆傷害調査委員会)がどのようにデータを集めていたかは、被爆者の数々の証言、たとえば『はだしのゲン』などを読んでも書いてある、よく知られている話だ。それを知らない人が、人間の被曝に関して、あんなことを軽々に雑誌に書かせては、これはいけないんじゃないでしょうかね?
ちなみにこの件に関しては、『クロワッサン』サイトでお詫びが出ている。しかし、毎度毎度この手の話を見聞きする度に思うのだけど、「何」が「どのように」問題なのか、という検証なしに、真の謝罪などあり得ないと思う。「総括せよ、自己批判せよ」とまで言う気もないのだが、でも、こういうことはちゃんとしないとね。たしか、『クロワッサン』って、1999年10月10日号でも差別的表現を用いたことが問題になったんでしたよね?またか、と、皆思ってますよ。
Re:柳澤桂子氏に、一言
ほう。深意とは何なのかご教示願えませんかね。理解できない奴がいる、と書くことは、知ったかぶりの常套手段なのでね。