かまびすしい
時々、何の気なしに使った言葉で混乱を招くことがある。どうも僕の日本語は古臭い代物らしく、21世紀を生きる人々には通じないことがしばしばあるのだ。
たとえば「しどけない」という言葉がある。「乙な年増のしどけない寝姿」なんて言い方をしたら、おそらくニュアンスが分かっていただきやすいと思うのだけど、要するに「だらしない、乱れている」という位の意味の言葉である。これを使うと、おそらくかなり高い確率で「?」という反応が返ってくるのだが、やはり、こういうときは「だらしない」じゃなくて「しどけない」がぴったりくるんだ、というときに、その言葉を使わない、というのは、僕としては口を塞いでいるような心地がするのだ。
「喧(かまびす)しい」、あるいは「囂(かまびす)しい」というのもそうだ。まあ分かりやすく言えば「やかましい」ということになるんだろうけれど、でもやはり「囂しい」と言いたいシチュエーションというものがあって、僕の言語感覚では、それを「やかましい」と表現するのは、薄っぺらいというか、貧しいというか、そんな気がするのだ。
そう言えば「姦(かしま)しい」というのも最近はあまり使わないのだろうか。昔、この言葉を初めて目にしたときに、父に意味を聞いたら「お前、よく演芸番組観てるのに『かしまし娘』とか知らないか?」と言われて「あーなるほど」と納得した記憶があるけれど、最近の人はそもそも「かしまし娘」を知らない可能性が高い。辛うじて「女三人寄れば姦しい」というのが諺をまとめた本などに載っている位しか、もうこの言葉との接点はないのかもしれない。
漢語で言うと、「唯唯諾諾」なんてのが典型だ。たしかにメディア等でこの言葉を聞くことは少ないかもしれないけれど、でもこれってそんなに分かりにくい言葉なのだろうか?使うとほぼ全ての人に「?」と返されるのだけど。
よく、人から「Thomas さんはなんでそんな古い言葉を使うのか」と聞かれることがあるのだけど、僕は豊かな日本語表現を享受してきたので、自らの日本語表現にそれが反映されているだけのことである。別に僕にとってそれらの言葉は古くも何ともない。暴言との謗りを覚悟してあえて言うなら、世間の日本語が薄っぺらく、貧しくなってきているだけのことである。
先日、NHK の報道番組を観ていたのだけど、福島県在住の男性が、自分達の被曝状況を記録するために手帳を作り、たまたま講演に訪れた広島原爆の被爆者にその手帳についての意見を求めているところが映っていた。その画面の隅に「被ばく者の対話」というようなタイトルがついていたのだけど、僕はこれを一目みて、
「これはずるいなあ」
と呟いた。要するに「被ばく」と書けば、「被曝」と「被爆」の区別をしなくてもいい、という理屈なんだろうけれど、天下の NHK がそんなことをしていたら、ますます世間の人々の間で「被曝」と「被爆」の区別がされなくなってしまう。要するに、面倒事を避けるための措置なのに「どんな人が観ても分かってもらえるように」なんて妙な建前を主張する結果、余計そういう面倒事が増えてしまうわけだ。
「障碍者」と「障害者」の場合もちょっと似ている。これは、実は終戦後、国語審議会が旧字を排除するまでは「障碍者」(もしくは「障礙者」)と書かれていたのが、戦後に「害」の字をあてるようになってしまった結果である。で、最近、障碍者が害を為しているわけではないんだから、旧来の表記に改めよ、という。うーん……じゃあ、「疎通」「疏通」はどうなのよ?そもそも「疎」って「疎外」の「疎」でしょ?「疎通」の意味を辞書でひくと……
とあるんだけど、これに「疎外」の「疎」を持ってくるって、一体どういう神経なんだろう。こちらの方が「障害」か「障碍」かという問題よりも、言葉としては深刻な問題だと思うんだけどなあ。[名](スル)ふさがっているものがとどこおりなく通じること。また、筋道がよく通ること。「意思の―を欠く」「意思が―する」
(『デジタル大辞泉』より引用……goo辞書のエントリへのリンク)
そう言えば、いつだったか、政治評論家の三宅久之氏が怒りを込めて言っていたけれど、「独壇場(どくだんじょう)」というのもこの手合いである。そもそも「独壇場」などという言葉は存在しない。これを言うなら「独擅場(どくぜんじょう)」なのだけど、どういう訳か「独壇場」という言葉は世間でひろく使われてしまっている。
まあそんなわけで、どうにも薄っぺらい日本語に辟易(これも誰だったか「ヘキヘキ」とか書いている人がいたなあそう言えば)することが多いわけだ。どうもなあ。
Re:かまびすしい
今はさしずめこんな感じでしょうか。「捕獲された草食系男子」みたいな。http://twitpic.com/61s3ar