ありふれた jargon
いわゆる業界用語……これを jargon と言うわけだけど……というのは、しばしばそれを知らない普通の人が聞いたら非常に奇妙なものだと思う。僕が初めて jargon の存在を意識したのは、子供の頃、耳鼻咽喉科に通院していたときのことで、鼻炎が悪化したときに鼻から口に強制的にぬるま湯を流して洗浄するのだが、そのときに医師が看護師に、
「ノーボン」
と指示するのだった。子供の癖に難しく考え過ぎてしまって、これは英語の nose と関係があるのかな、などと思っていたら、ある日、医療器具に「膿盆」というものがあることを知って、あーなるほど、しかしそうとは思わなかったなぁ、などと感心したのを、今でも鮮明に記憶している。
僕の関わっている分野でも、当然この jargon は存在する。しかし我々の仲間連中はイチビリだから、しばしば、それを知った上であえて誤解を招くような使い方をして、周囲の反応を見て面白がったりするから始末が悪い。
僕がかつて共同研究をしていた某大学の教授、という人がいる。この方、かつて僕が学部時代に使っていた教科書の共著者の一人だったりする、その業界のビッグネームなのだけど、この方は時々すました顔をしてこれで面白がっていたっけ。この某教授は、軽金属の phase transformation に関する研究を専門としていたのだが、人に、
「先生、御専門は?」
と聞かれると、決まってこう答えるのだった。
「おう、ワシ、ヘンタイや」
実はこれ、聞いた相手への試金石として機能しているから怖いのだ。ニヤリと笑う人はよし、「はぁ?」と素頓狂な顔で聞き返す人は、少なくとも思考の柔軟性がない……そんな感じだろうか。
タネを明かせば何のことはない。phase transformation は日本語では「相変態」と言うのだが、金属が熱処理などである状態から別の状態に遷移するような現象をこう称する。某教授はこの現象、特にある種の軽金属におけるこの現象を専門分野としていたので、簡潔に答えるとこうなる訳だ。しかし、京大出身で、助教授まで京大にいて某大学にやってきた某教授にいきなりこう言われると、さすがに僕でもどきっとする。一瞬後に、ああ、と腑に落ちて、若干のタイムラグをおいて口角が上がるわけで、某教授はこれを見て「ま、そこそこやな」……と思っていたかどうかは分からぬが、とりあえずほんの少しだけ笑みを返してくれるのだった。
そんなわけで、この業界ではこういうジョークを耳にすることが時々ある。例えば、他の研究室の学生と一緒に昼食を摂ろうとして誘いに行くと、
「すんません!もうすぐ時効終わるんですけどねえ……」
何か犯罪でも?とか言われそうだけど、これも、物質をある状態に保持しておくと、時間経過と共に何かが析出してくるような現象を「時効析出」と言うことに由来する。例えば、ジュラルミンを硬くするための処理はこれを利用しているのだけど(軽金属がこのような処理で硬くなることを「時効硬化」と称する)、その挙動を確かめるための研究などをしている学生は、設定した温度に試料を一定時間保持した後に試料を急冷して、この時効析出の挙動を確認するような実験をしていたりする。で、その急冷の時間が昼飯刻に重なると、こういうことになるわけだ。
また、こういう実験をしている学生の中間発表につきあっていると、熱処理に伴って表面が酸化することが影響を及ぼしているような結果を見るときがある。そういうときは、
「これ、雰囲気はどうなってるの?」
と質問することがある。我々が日常会話で使う「雰囲気」というのは英語で言うと atmosphere だけど、この単語はもともと「取り巻いているもの」という意味である。だから、そのままの原意でこの質問に答えればいいわけで、聞かれた学生は「水素雰囲気です」とか「大気から * 回窒素置換した後に、** ポンプで ** Pa まで脱気した状態です」とか答えるわけだ。
まぁこの辺までならいいんだけど、やはり僕等みたいなタチの悪い研究者だと、やはり jargon でもタチの悪い組合せを好むわけで、
「なぁ○○君、君ヘンタイやったなぁ?」
「え?……はいはい、そうです、僕、ヘンタイです」
「この間の××君の学会発表、聞いたか?」
「あーあれですか、なんか時効がうまくいかなかったみたいでしたけど、あれ何かヘンでしたよね」
「そうだろ。あれ、何だと思う?」
「うーん、やっぱり雰囲気ですかねえ……うん、雰囲気が悪いと、ああいう風になっちゃうこと、あるかもしれません」
「そうそう。やっぱり、雰囲気は大事だよなぁ」
「ええ、そうですねぇ」
……分野が違う人は、傍で聞いていても、何が何だか分からない、とかいうのを、面白がってみるわけだ。
この jargon、分野が違うとまた違ってくるもののようで、かつて通っていた大学の歯学部付属病院に通院していたときにも色々聞いた。例えば、歯の上下の噛み合わせを記録するのに、炎で軽く焙ったパラフィンの板を噛まされるのだが、この工程が近付いてくると、歯科医師は助手に、
「インショウお願いします」
と、こう指示する。インショウって何だろうと思いつつ、ある日自分のカルテ(この病院では患者が自分で事務までカルテを持ち帰るシステムだった)に目を落としたら、診療記録に、"take an impression" と書いてあるのに気付いた。impression って……ああ、「印象」か!漢字になると初めて、判を捺したその姿、というイメージから全てが繋がったのだった。
こんなこともあった。ある歯を差し歯にしなければならなかったときに、研修医にこう言われたのである。
「シンビテキにやっていいですか?」
ん?と考え込んだのだが、そう言えば院内に学会か何かのポスターが貼ってあって、そこに「審美歯科」という単語があったのを覚えていて、
「それは『審美歯科的に』という意味ですか?」
と聞き返したら、びっくりしたように、
「はい、そうです。でもよく分かりましたね」
と返され、いや分からんようなムンテラ(これも Mund Therapie の jargon である……今は Informed Consent を略して「アイシー」とか称することが多いらしいけど)するなよ、俺じゃなかったら理解不能だぞきっと、と憮然とさせられたのだった。
かくも jargon は面倒である。しかし、僕達の忘れかけていた言葉の一面をふっと提示されて、後で思い返すと面白いことも多いものだった……って、僕の語彙が貧弱だったら、きっと今でもぼーっとしているんだけれど……