資質
鉢呂経産大臣が、「死の街」発言に続いて「ほら、放射能」と言いながら防護服の表面を記者に擦り付けようとした問題で、今夜辞意を表明した。まあ、厚労大臣のタバコ増税発言と言い、閣僚としてあまりに程度が低過ぎて、ただただ脱力、という感じである。
しかし、どういう訳か、世間では「ここで辞める方が無責任だ」とか、はなはだしきに至っては「マスゴミの誘導で辞めさせられるとは許し難い」などという発言まで目につく。これに関しては、断固ここで objection を表明しておかねばなるまい。
まず、政治家という仕事は非常に過酷な仕事である。何が過酷なのか、というと、未知のファクターの集成である未来に対して一定の結果を出さねばならない、そしてその業績が結果のみで評価されるところこそが過酷なのである。いかに頑張ろうが、汗をかこうが、そんなものは何の役にも立たない。軽口をたたき、鼻をほじりながらでも、するべき仕事をして結果を残す方が、政治家としての評価は高いのである。
そして、そういう未来への仕事を託される政治家に要求されるのは、「どういう姿勢で」「どういう理念で」「どういう方策で」未来への課題に立ち向かっていくのか、ということである。これは、つまりはその人の政治家としての哲学が問われているのである。
その人の発言は、その人の哲学を反映したものとしてとられるのが当然である。だからこそ、シビリアンコントロールにおける文民と素人の区別もつかないようなことを言ってみたり、葉タバコ農家の存在を一顧だにせずに、職務権限もなしにタバコの増税に関して発言して、後で私見でござい、とヘラヘラしていたり、これから自らが救済しなければならない対象を軽々に「死」という言葉で形容したり、そこにある放射性物質の存在をネタにしたり……そういう政治家は、そういう哲学を持っているとみなされて当然だし、そういう政治家の資質というものには期待を持ち得ないのである。
そして、僕等は民草として、市民として、そういうことにはきっちりと「それはおかしい」と声を上げるべきなのだ。反原発と言っていたから、ああいう放言・問題行動をしていても経産大臣として期待していた?はぁ?てんでお話にもならない。それは共同幻想を大事にするあまり「毒食らわば皿まで」と言っているようなものだし、そういうことに世間の他の人達を巻き込んでいただきたくはないのだ。迷惑千万ではないか。