水戸出身者が語る「あまり知られていない水戸黄門の話」
TBS の長寿番組『水戸黄門』。現在放映中のものは第40部で、由美かおる氏は今日放映の回でなんと出演700回になるのだそうな。いやはや、凄いことである。
水戸駅の出口には、助さん・格さんを伴った水戸黄門のブロンズ像が設置されている。しかし、水戸の人間が昔から愛してきた実際の徳川光圀は、この物語の主人公とはちょっと違っている。
そもそも水戸の気風を決定付けているのが、水戸徳川家にまつわる数々のエピソードである。それは、光圀の父であり、水戸徳川家初代藩主である徳川頼房の幼少時の話までさかのぼる。
駿府城の天守閣で、五郎太丸(後の初代尾張藩主 義直)、長福丸(後の初代紀州藩主 頼宣)と鶴千代丸(後の頼房)を伴った家康が、子達に戯れにこう言ったという:「ここから飛び降りることが出来たら何でも願いをかなえてやろう」と。五郎太丸と長福丸が家康の思い通りにたじろぐのを後目に、鶴千代丸は「私が飛び降りましょう」と言った。家康が「何が望みだ」と訊くと「天下を私に下さい」と言う。驚いた家康が「天下を取っても、飛び降りたら死んでしまうのだぞ」とたしなめると、鶴千代丸はきっと家康に目をやり、こう返したという:「ほんのひと時でも天下を取れるならば、それが私の本望です」。『論語』の「子曰 朝聞道 夕死可矣」(子曰く、朝……あした……に道を聞かば夕……ゆうべ……に死すとも可なり)を彷彿とさせるこのエピソードは、水戸徳川家の気風を実によく表している。
徳川光圀は、テレビの黄門様のように全国を行脚したわけではない。しなかった、というより、それは不可能だった、というのが正しい。御三家の一角を成し、江戸の上屋敷に常駐していた光圀は、実際には熱海の辺りまでしか行かなかった、と、記録に残っている。しかし、たとえ全国行脚せずとも、光圀が型破りな人物であったことはよく知られている。幼少の頃、頼房に度胸を示すように言われて、深夜の刑場にひとり赴いて生首を引きずって帰ってきた、とか、やはり頼房に度胸を示すように言われ、嵐で増水した隅田川を泳ぎ渡った、とか……光圀の豪胆さを伝える話は枚挙に暇がない。
しかもただの荒くれものではなく、学問を重んじ、藩の財政の 1/3 を投じて、歴史書『大日本史』の編纂に着手した(この事業は明治まで続いて、この日本で他に類を見ない紀伝体の歴史書は全397巻226冊の大部として完成した)。明朝の亡命者である朱舜水らから教えを受け、大陸伝来の文化……この中には、後に「ラーメン」や「チーズ」と呼ばれるものまで……に積極的に触れた。もちろんただの好事家ではない。民の糧食、戦の際の兵糧などの観点から、光圀は食物に多大なる関心を寄せていたのである(偕楽園などで有名な水戸の梅も、九代藩主斉昭が「他の花に先駆けて咲き、馥郁たる香りを放ち、実は戦の際に兵糧となる」と梅を好んだことによる)。
そして、徳川綱吉があの有名な「生類憐みの令」を出し、過剰な犬の庇護が行われた際、光圀は将軍に「上質の犬の毛皮五十枚」を献上した。御三家で一番石高が低く、城に石垣を造ることも許されなかった水戸家だったが、光圀は、誰も何も反論できない将軍に対してこのように物申すことができるほぼ唯一の存在だったのだ。このスピリットこそが、民衆に「黄門様」の名で愛された、阿ることなく決然として己の信ずるところを貫く存在としての光圀をよく表すものであり、その生き様は、水戸の人間にとって大きな精神的支柱になっている。だから……きっと僕は、どこで暮らしていても、一生「水戸っぽ」のままなんだろう。そう思うのである。