込もらない重さ、受け止められない重さ
言葉というものは、それを発する側と受ける側の双方で決まるものだ。双方がその内実に踏み込んで、そこに何かを込め、そして受け止めることで、初めてその言葉は意味を持つ。逆に言うと、その言葉が意味を持つものであるためには、双方にそれ相応の覚悟が必要なのだと思う。
ところが、最近の世間はどうなのか。実際の言葉の使われ方が、まるでその覚悟の彼岸にあるもののように見えて、興醒めすることが多くなったと、つくづく思うのだ。
まず、日毎にそれを感じるのは、メディアから流れる政治家の言葉だ。何が厭かって、まず「しっかりと」という言葉。国の税金使って
同様の理由で「頑張って」「努力して」もダメダメだ。もっと下らないのは「汗をかいて」という言葉。汗なんかかこうがかくまいが、そんなこたぁ何も関係ないんだ。涼しい顔でちゃんとやってくれよ。汗かいてるから満足する、なんて、俺達ぁ大衆であって体臭フェチじゃねぇんだよ。
だから最近の民主党の政治家なんて、何か口を開くだけでもう失格なのだ。政治家は結果だけでその業績が評価される職種である、ということがてんでわかっていない。連中は「しっかりと」「頑張って」「努力して」「汗をかいて」やっているんだ、と、折々にエクスキューズする。しかし、その言葉には何ら重さは込もっていない、エクスキューズの意味すらない代物だと言わざるを得ない。「いい加減に」「頑張らず」「努力せず」「汗をかくことを避けて」
丁度今、横のテレビでは立川談志の追悼番組をやっているのだが、ここで再放送されているドキュメンタリーで、非常に興味深い場面が出てくる。談志が『富久』を演じている場面が映されたのだが、長屋の火事で千両の当たり籤が燃えてしまったと思い込んだ久蔵が途方に暮れる場面で、 目前の客がだらだら笑っているのに対して、ふと「ここ、そんなに面白いところですかねえ」と談志がはっきり言っているのだ。しかし、笑っている客はそれにすら気付かない。
談志は、変容する社会の中で大衆の噺というものへの共感が失われていく結果、落語家がただの「笑わせ屋」になってしまう、という危機感を持っていたらしい。『富久』を演じた後の談志は「厭だ」「厭だ」と何度も口にしていた。「千両当てて貰い損ねる、そんな人生なんてあぁ厭だ。俺ぁ死ぬ、もう死ぬ!」と苦悶して、手首の動脈を食い破ろうとする様まで演じていて、それをヘラヘラ笑われる談志にしてみりゃあ、これはたまったものではない。これ程までに込めたその重みが、どうして受け止めてもらえないのか。このように、受け手次第では、血を吐くような言葉ですら、鼻紙みたいに軽く扱われてしまうのだ。
こんな世情である。そりゃあ、ブログの更新だって滞りがちにもなろうというものではないか。