ウヨウヨ
僕は、世間の人達にどういう風に思われているのだろうか。ああ、いや、人間性とか資質とかいう話ではなくて、政治的スタンスの話である。
クリフォード・ストールという天文学者がいる。彼は一時期カリフォルニアのローレンス・バークレー研究所で admin(コンピュータシステムの管理者)として職を得ていて、そのとき偶然侵入者を発見、ヨーロッパまでネットワークを追跡して捕まえさせた(この顛末は彼の著書『カッコウはコンピュータに卵を産む』で読むことができる……もはや古典と言うべきなのだろうけれど)。この本の中で、彼がこんなことを書いていた記憶がある:「自分は、天文学者にはコンピュータの専門家だと思われていて、コンピュータの専門家には天文学者だと思われている」と。
これは僕にも似たような経験がある。僕はもともとバリバリの実験屋だと思っているのだが、自分の仕事の関係で、分子動力学計算や熱力学計算、あるいは複雑な金属間化合物結晶の Rietveld 解析、あるいは FDTD 法による電磁界計算、といった、計算機を使う仕事もやっていた。これらは皆、その計算だけを専門に行っている人々が各々存在しているのだけど、僕の場合は本当に必要に迫られてやっていたわけだ。
ソフトだけではない。修士時代は、研究室の隅に転がしてあったデジタイザを使って、金属単結晶の背面反射 Laue 写真を解析するシステムを組んだし、最初の職場では電子天秤とパソコンで熱天秤の自動計測システムを組んだりしていた。まあでも、それらは本当に必要に迫られてやったことで、僕は実験装置のスペシャリストというわけではない。
要するに、
- 電子工作が好きだった
- コンピュータに慣れていた
- 機械工作が好きだった
- アマチュア無線をやっていた
この件で僕が学習したのは、人は、ある局面での印象を以て誰かのことを規定してしまいがちなものだ、ということである。たまたま誰かの目前で、僕がコンピュータを走らせていたり、旋盤を回していたり、半田付けをしていたりすると、それが強調されたかたちで僕という人間が規定されてしまう……そういうことを知ったわけだ。いやまあ、自分の書いたり作ったりしたものはそれなりに価値はあると思うけれど、それを以てその道の……と言われるのは、これは正直言って申し訳ないような気持ちになる、ということである。
さて、「人は、ある局面での印象を以て誰かのことを規定してしまいがちなものだ」という経験則を、最初の僕の問いに適用するとどうなるか。僕は不安になるのである。僕は政治的にどういうスタンスだと思われているのだろうか、と。
たとえば僕は、民主党政権成立以来、一貫して否定的なことを書いているわけだ。こういう論調を以て、僕はネトウヨだと思われているのかもしれない。しかし、僕はミンスとかチョンとかいう言葉を使うことは(今回のように、その言葉それ自体に言及する必要のある場合を除いて)まずないし、Twitter のアイコンに日の丸を入れている輩をこきおろして、多数のコメントをいただいたりもしている(僕は別に日の丸入れるのを否定しているんじゃなくて、入れるならどうして堂々と、でっかく、オースティン・パワーズのクルマのユニオンジャックみたいに入れないのか、と言っているのだが)。
僕の blog で文句なしに一番アクセスが多いエントリは、『レイテ島からのハガキ』である。これを読むと、僕が太平洋戦争を礼賛しているかのように思う人がいるかもしれない。しかし僕はこの中で、
こんな手紙を書き、こんな歌を詠み、こんな思いを持つ人が、一兵卒として勝ち目のない戦場に投入され、妻やまだ見ぬ我が子を思いながら死んでいったのか、と思うと、ただただ胸が痛む。戦争というものは、人のこういう機微をいともたやすく蹂躙し、破壊してしまうのだ。と書いているわけだ。そもそも、僕は靖国神社に関してもあまり良い感情を抱いていない(カトリックの信者としては、問答無用であそこにカトリック信者の戦死者が合祀されていることには理不尽さを感じずにはおれないのだ)し、「英霊」なんて言葉を軽々に使う輩を見ると反吐の出る思いがする。あの時代の中で、あの苦しみを自ら負ったわけでもない我々が、軽々にそんな言葉で戦死者を賛美することは、あの愚かな戦争の中で理不尽に死んだ人の存在や、その思いを、上辺だけの安っぽいヒロイズムに問答無用で置換しているだけの行為だと思うから、僕は「英霊」なんて言葉をとてもじゃないが自分の口から吐くことはできないのだ。
では僕はサヨクなのだろうか。そういうわけでもないような気がする。竹島や尖閣諸島の問題に関しては、政治的な妥当性は日本の方にあると考えているし、日本がその領有権を主張することは、国土というものが国のアイデンティティとして極めて重要なものである、という意味からも、妥当な行為だと考えている……と、ここまで書くと、ネトウヨな人々が「うん、うん」と首肯する姿が連想されるけれど、竹島に関しては、いわゆる金鍾泌による独島爆破提案について、現在これ程までに揉めるなら、いっそ本当にやってしまっていればよかったかもしれない、と思うこともあるわけだ。
つまり、僕の政治的な立場は「左」か「右」か、という二元論では規定し切れない微妙なものだ、ということになる。そしてそんな二元論で自分を規定されたくはないのである。
しかし、世間ではどうしてネトウヨと呼ばれる人々がこれ程増え、そういう人々は容易く自分達をステレオタイプな行動で簡単に規定し、「自認」してしまえるのだろうか。ミンスとかチョンとか書き殴っている人々や、子供がロッテのアイスに手を伸ばしたら怒鳴りつける主婦に出会ったりすると、どうしてこの人達には、自分が抱えるような「二元論では片付けられない」微妙な思想がないのだろうか、と不思議に思えてならないのだ。いや、こういう感想も、あるいは僕が先に書いた「ある局面での印象を以て誰かを規定する」行為に過ぎないのかもしれない。しかし、どうして彼等は、ネトウヨならネトウヨ同士で、お互いの微妙な立場の違いを論じ、その認識を深める、という方向には行かずに、声を合わせて罵詈雑言を並べる方に行ってしまうのだろうか。
昔の右翼は、「一人一殺」[一殺多生」に代表されるような過激な思想の下、暴力闘争を展開する人々もいたけれど、もう少し議論というものをちゃんとしていたような印象がある。たとえば「一水会」の最高顧問の鈴木邦男という人がいるが、この鈴木氏の論調などはまさに「論ずる右翼」の好例であろう。この鈴木氏自身も認めているけれど、たとえば新右翼と新左翼の接近などというのも、お互いの微妙な立場の違いを論じ、その認識を深めた結果であると言えないこともない。
しかし、ネトウヨと呼ばれる人々の中で、こういう微妙な議論が醸されない、という辺りに、僕はその存在やその必然性に強い疑義を感じずにはおれないのである。この blog にも、あるいは何か罵詈雑言めいた書き込みがされるのかもしれないけれど、その元気があるのなら、思想的に僕が納得する程に成熟した論を、どうか聞かせていただけないものだろうか。