鳴かぬなら
コンピュータに関わることで質問をされることがある。まあ、質問するからにはそれなりに困ったことがあって、それで聞いてきているのだろう、と仏心(カトリックで仏心というのも妙な話だが)で答えたりするのだけれど、どういう訳か、逆ギレとしか言いようのないことを言われたり、返されたりして、嫌な気分にさせられることが少なからずある。いっそ、そういう質問に答えるのも、質問が集まってくる場所を見ることも、やめてしまった方がいいかもしれない、と思うのだけど、中には本当に困っている人もいたりするので、完全に回答を放棄するわけにもいかない。
嫌な気分にさせられるのは、ほとんどの場合パターンが決まっている。僕はそういう質問者を「傲慢な質問者」と呼ぶことにしているのだけど、まず、そういう質問者は、何でどう困っているのかを最初に明示しない。たとえば、こんなことがしたいのですが、これこれこんなファイルをこういう OS 上のこのソフトで処理しようとしたら、意図と異なるこんな結果になりました、当初の目的を達するためにはどうしたら良いでしょうか……というようには、まず絶対に書いてこない。こうしようとしたらこうなった、どうしよう……それしか書かないのである。5W1H とか、最近は小学校でも教えるんだろうに、そういう教育を受けていても、もうそれは遠く忘却の彼方らしい。
そういう書き込みを見て、周囲の人々は、その人がどのように困っているのかを想像するしか術がない。せめて、そのトラブルが再現されるファイルなり、トラブルの結果として出力されるファイルなり、そのトラブルの模様を記録したログファイルなりを示してくれれば、そんなことで生じる無駄な手間も、無駄な時間も発生しないのである。しかし、傲慢な質問者は、自分がしたいことができない、それだけが全てなのである。
そして、隔靴掻痒の態で話が進まず、なかなか solution に到達できない、となると、傲慢な質問者は予想し難い反応を示す。「私の欲しい答をアンタラは提示できないのか」と逆ギレしてみたり、「ご意見を頂き、有り難うございました。****** はアンインストールし、使わないことに致します。」と逆ギレしてみたりするのである。「鳴かぬなら殺してしまへホトトギス」……いや、ちょっと違うな。信長はそんな馬鹿じゃなかったはずだ。
自分の欲しい答を得るために、いささかも自分の時間、手間、あるいは金をも費さず、挙句の果てにはそれを他人やソフトウェアのせいにする。いやはや、こんな傲慢さは、一体どうしたら持つことができるのだろう。僕もそういう傲慢さがあれば、気鬱に溜息をつくことなどなく、もっと楽に生きていけるのかもしれないけれど、もちろん僕はそんな傲慢さなど欲しくはない。そんな手合いは唾棄すべき輩としか言いようがないし、そんな輩になるなんて御免被る。
しかし、残念なことに、この10年程を考えてみても、この手の傲慢な質問者は増加する一方である。20年程昔の Linux 関連のコミュニティみたいに「タコは重要な存在だ」なんて牧歌的なことを言っていられた時代があったなんて、信じ難い状況である。あの頃、「タコはタコでなくなろうとしている」ということが暗黙の前提だったわけだけど、今のタコは、自分がタコであることを確信犯的に利用し、それで自らの権益を護っているとしか言い様がない。この「傲慢な馬鹿」の強みを利用する、ということが定着してしまった今、従来の voluntary な共同体で当たり前のように成立していた相互扶助は、もう成立し得ないのかもしれない。ああなるほど、だから iPhone も android も、バナーの出ないアプリが欲しかったら金を払うしかないような状況になって、しかも皆それが当たり前だと思っているわけか。
しかし、人がより良き存在になろうとする、ということこそが、共同体全体が緩慢であってもより良き方向に転がっていく上での driving force だったはずなのだ。それが忘れ去られてしまうのだとしたら、これから先の世の中は、どれ程住みにくく、生きにくくなるのだろうか。