僕は「天才」という言葉が嫌いだ
昨夜(というか今日未明と言うべきか)のスノーボードでは、皆さんも盛り上がったのではないかと思う。僕としては、ショーン・ホワイトがミスをしたことの方が意外だったのだが、このスノボ関連の報道でも「天才」「天才」という言葉が乱れ飛んでいる。
僕は本来、人から天才と称されるようなタレントは持ちあわせていない。少なくとも自分ではそう思っている。そんな僕でも、十人並を超えた領域で何かをしたい、と思うことがあって、ではそういうときにどうするか、というと、努力するわけだ。まあ、本当に努力できるときに限って、それは労苦というよりもむしろ(そりゃあ苦痛は伴うけれど)楽しみをもたらしてくれるものなのだけど、だから僕が努力しているところを他人が見ても、それはあまりそういう風には見えないのかもしれない。
で、ある程度のレベルで何事かができるようになって、ああよかったなあ、嬉しいなあ、と思っている、そんな僕の心をぶち壊してくれるのが、
「彼は天才だからさあ」
はぁ? 冗談じゃない。俺はアンタらにはそう見えなかったかもしれないけれど、アンタらが暇ぶっこいてのたくってる時間に色々やってたんだよ。今これができるのはその結果なんだ。天に与えられた才能だ、なんて、そんな簡単に片付けないでくれよ。そう言うと、ニヤニヤしながら、
「いやあ、天才にそんな風に言われるなんて、手厳しいねえ」
……そういうことを体験して、僕は遅れ馳せながら知ったのである。天才、という言葉が、その才能を賛美するためではなく、その才能や努力に後ろめたさを感じる人達が、自らを安心させるために、その存在を「天才」という社会的 segment に隔離してしまうために使われる単語である、ということを。それ以来、僕は才能を感じる人に向けて「天才」という言葉を使うのをやめた。
今回のスノボにしたって、あの二人の若者を、おそらくはその若さの故に心の底からリスペクトできないでいる薄汚れた連中が、この「天才」という言葉がメディアから供給されることによって安寧を得るというわけだ。しかし、彼等は、たとえ15歳と18歳であったって、幼い頃からスキー、スノボ(とおそらくスケートボード)に遮二無二打ち込んだ、その努力の成果としてメダルを手にしたのだ。そんな努力は2、3分のビデオではい、おしまい、へーそうなの大変だったんだねー、はい、ここから先は天才、天才……
それが大人だというのなら、僕は一生大人になるのなんて御免被る。もういい歳して何を書いているのか、と思われるかもしれないが、だから僕は「天才」という言葉が嫌いなのである。