銅谷さんの思い出
以前にも何度か書いているかもしれないのだが、僕は水戸という、焼夷弾爆撃で一面の焼け野原になった市で生まれ育ったこともあり、幼い頃から、戦争を体験した人達の話をあれこれ聞いて育った。その人達には、特に偏向した厭戦のイデオロギーがあったわけでもないし、逆に戦争を礼賛するようなこともなかった。戦争を体験した人として、極めて冷静に、自分がどういうことに遭遇したのかを話してもらった。それを聞いて育ったおかげで、今になっても変なブレ方をすることなしに生きていられるのだと思う。
この愛知県というところに来て、僕は一時期、この地の人々には何も危機意識なんかありゃしないんだ、と嫌気がさしていた。東海地震が来る、と言われてはや何十年。しかし、研究所の親会社の危機管理の講習会なんかに行かされると、会社の危機管理担当の奴が、平気な顔で、
「まあ、どうせ、地震なんて来やしませんから」
と言って笑い、聞き手もまたヘラヘラと笑う。そんなことに出喰わして、ほとほと嫌気がさしていたのだった。
あれは確か、今日と同じ、聖母の被昇天の日のことだった。教会でミサにあずかって、その後、恒例の「素麺サービス」で素麺を啜っていたときに、僕は初めて銅谷さんとちゃんと話をしたのだった。銅谷さんは当時、教区ニュースの編集を担当していて、その関係で U と一緒に仕事をしていた。U と一緒にいた僕とも、どちらからともなく話になって、そして、あの戦争のときの話になったのだった。
銅谷さんは当時学生で、名古屋市内に居たのだという。名古屋の空襲も体験していた。その銅谷さん……まだ学生だったそうだから、銅谷少年とでも言うべきなのか……が友人と一緒に居たときに、空襲警報が発令されて、共に近くの防空壕に避難したとき、
「そのとき、僕はね、どうしてかは分からないんだが、『ここに居ちゃいけない』と思ったんだ」
「ここに居ちゃいけない?」
「そう。どうしてかは分からない。でもそう思ったんだ」
「で、どうされたんですか」
「友達に、俺はここを出る、って言ったんだよ。そうしたら、友達は『何言ってるんだ。ここから出たら死んでしまうぞ。俺は厭だ。ここに残る』と言うんだ」
「……それで?」
「でも、僕はどうしても、ここに居ちゃいけない、そういう気がしたんだ。だから友達に『分かった。じゃあ俺は一人でここを出る』と言って、その壕を飛び出したんだ」
「……それで?」
「出てすぐに、後ろでドカーン、と爆発音がして、振り返ったら、さっきまで僕がいた壕が直撃弾を喰らって吹っ飛んでいた」
そして友人は亡くなり、銅谷さんは生き残った。しかし、銅谷さんと友人の間に、何がどうという違いがあった訳ではない。本当に、たまたま、銅谷さんは助かったのであって、事と次第によっては、全く逆のことになっていたかもしれない。そういう、何者にも分け難い境界の彼方と此方の差で、人が死に、生き残る。生き残った人だって、明日同様の目に遭うかもしれない。それが戦争なのだろう。人の命は、実に呆気なく、理不尽に奪われていく。銅谷さんはたまたま生き残った。その身体を擦るように行き過ぎた死の匂いを、僕に教えてくれたのだろうと思う。
銅谷さんとは無沙汰をしてしまい、その間に彼はがんを患い、聖隷病院のホスピスで亡くなった。もう3年程も経つのだろうか。でも僕は、この話を聞いたとき、「人は運命の前には無力ですねえ」なんて、愚にもつかない軽々な相槌を打った直後の、銅谷さんの言葉を忘れることができない。
「いや Thomas 君、それは違うぞ。人は微力かもしれないが、決して無力じゃない。無力なんかじゃないんだ」
無力という言葉で、己の弱さを誤魔化すな、正当化するな……そう、鋭く心を抉るようなその言葉は、未だに僕を叱咤しているような気がする。しかし、そういう言葉を貰えて、僕は本当に有り難いと思う。