藤子不二雄と吸血鬼
あの松本光司の『彼岸島』が映画化された。家族や恋人、あるいは友人という、僕達に社会的安寧を保証するものとしての人間関係が、快楽を伴う異形のものへの変容、というかたちで蹂躙されるその世界像は、深い戦慄を以て僕たちに衝撃を与えるもので、この10年の間に書かれた漫画の中でもベスト10に入る秀作だと思う。
しかし、この『彼岸島』を知る人のうち、あの藤子不二雄がこれに極めて類似した漫画を書いている、ということを知っている人がどれ程いることだろう。そして、その漫画の基になっていると思われる SF 小説があることを知る人が、どれ位いることだろう。
アメリカの小説家でリチャード・マシスンという人がいる。1950年代から60年代にかけて活躍した SF 作家で、彼の作品はいわゆるスペース・オペラ全盛期に数多く映画化されている。その中のひとつに、1969年に公開された『地球最後の男』というのがあるのだが、これは原題を "I am Legend" と言う。映画としては2007年にウィル・スミス主演でリメイクされたので、ご存知の方もおられるかもしれない。ウイルスで感染する吸血鬼に席巻される地球と、孤独に生き残っている主人公、という構図は、おそらくはこの小説が初出だと思われる。
そして、この『地球最後の男』へのオマージュとして書かれたのが、藤子不二雄(当時、後の藤子・F・不二雄)の作品で、1978年(昭和53年)「週刊少年サンデー」に掲載された『流血鬼』(りゅうけつき)である。なぜこの作品が『地球……』へのオマージュだと断言できるかというと、作品中に登場する吸血鬼ウイルスの名が「マシスン・ウイルス」という設定になっているからなのだけど、この作品では、主人公の少年がガールフレンド(既に吸血鬼になってしまっている)から、この吸血鬼が新しい環境への適応形態であり、もはや旧来の人間のままでいる主人公こそがマイノリティであり、変革を受容せずにただ変革者をいたずらに殺戮する「流血鬼」である、と指摘され、苦悩の後に吸血鬼への変容を受容する……というストーリーになっている。
僕はへそまがりなので、未だにこのストーリーを受け入れ難く感じてしまう。藤子・F・不二雄こと、故・藤本弘氏は創価学会員だったという噂があって、この『流血鬼』は実は折伏のメタファーなのではないか、という説もあるというのだが、これはなかなかに説得力のある話である(念の為強調しておくが、僕はこの話の真偽の程に関しては未だ調査中なので、これが事実だとは名言できない)。それらもこのストーリーを受け入れ難い一因なのかもしれぬ。
しかし、僕が半ば本能的に、このようなストーリーを受容し難いと思う理由は、やはりそれが人の人としてのありようを根本から揺らがせるものだからだろう。そして、そのような嫌悪感を感じるからこそ、このようなストーリーは深く僕の記憶に残り、ストーリーとしての秀逸さを感じさせるのだろう。『彼岸島』を読まれた方には、ぜひこの『流血鬼』(中央公論社の「愛蔵版「SF 全短篇」」や、小学館の「SF 短編 PERFECT 版」に収録されている)、あるいは『地球最後の男』(ハヤカワ文庫 NV 151 モダンホラー・セレクション に収録)を是非読んでいただきたい、と思う。やはりオリジナルを知ってもらいたいから。