知らざる者の傲慢
なんか僕の mixi のアカウントにわざわざリンクを張ってまでさらされていた(一応魚拓も取っておいた)のに objection を。
まず、この手の輩は、人が何事かに対して答える上で、相応の責任を負い、労力や時間も(些少ではあるかもしれないけれど)消費させられるものだ、という視点が欠如している。これに関しては、Linux 業界で有名な生越氏の(これはもうかなり前に書いているはずだけど)『我々は十分か』:
http://www.nurs.or.jp/~ogochan/linux/5.html
でも読んでみればよろしい。生越氏の言葉を借りれば:
それは、ここでの対象となっている「タコども」が、あまりに「お客さん」であり「感謝を知らない」ために、文句を言っているので ある。……まあ、この手の質問に20年近くも答え続けていれば、誰でもこの心境に至るものだよ。僕もしばしばRTFMという言葉を使うけれど、本当に、今の「質問者」の多くに対して、僕はこの言葉を堪えながらコメントすることが多いのだ。情報交換のメディアにおける、流通する情報の「質」がいつまでたっても向上しないことに苛立ちと諦観を抱えつつ、ね。
次に、上リンク先の人物が言うところの「やさしさ」に関して。これももう言い古された話で、僕も何度か open な場所で指摘しているけれど、この人物のいう「やさしさ」というのは、明らかに従来の「優しさ」ではない。知らないことを他者に教示してもらうよう乞うときに、そこに hospitality を要求する、というのは、これは「やさしく教えろやゴルァ」と言っているに等しい。先にも書いた、教える側の事情を何も斟酌していない態度だとしか言えない。
じゃあ、彼らの求める「やさしさ」が何なのか、というと、これは精神科医の大平健氏が言うところの「やさしさ」(彼は記号的に、このやさしさを平仮名で表記する)だと言えるだろう。この「やさしさ」に関しては、大平氏の『やさしさの精神病理』に詳細に記述・考察されているので、興味のある方はそちらをご一読いただきたい。
いやはや、しかし、上リンク先の人物、こういう風に書いている:
で二つ目は、mixiのTeXのコミュニティ。TeXもマイナーなんで、同じ原理で(?)優しい人が多いんだけど、正直http://mixi.jp/show_friend.pl?id=546064の人はどうかと思った。荒れるってわけじゃないけど、傲慢さよく出てる・・・というか、自意識過剰な感じが良くない方によく出てる。なんか・・・全裸説教強盗って感じ?いや違うでしょう。むしろあなたみたいなのを居直り強盗というんだよ。
【追記】
またしつこく書いてるなこの人。一応リンク、そして証拠保全のために魚拓。
先方の引用部でなぜか以下の部分が消されている:
僕もしばしばRTFMという言葉を使うけれど、本当に、今の「質問者」の多くに対して、僕はこの言葉を堪えながらコメントすることが多いのだ。情報交換のメディアにおける、流通する情報の「質」がいつまでたっても向上しないことに苛立ちと諦観を抱えつつ、ね。一応ここは重要なところなんだけどなあ。僕の心の叫びみたいなものだからねえ。
しかも僕の書いているところの「優しさ」と「やさしさ」の違いをまるっきり理解しようとしていない。それに、ある人物のモラルを以て(社会的規範を損なわない限りは)他者を断罪すべきものではない、ということもどうやら理解していないようだ。僕は書き言葉ではカタい言葉を使うので、しばしばこのような「込めてもいない悪意」を感じて悪意を以てこのような書かれ方をする経験があるけれど、自分の書いたことをちゃんと読まずに、しかも恣意的引用(ととられて然るべき引用の仕方)をして、原文が net 上で open なのにリンクもしない……なんて輩は、本当にたちが悪い。
そしてこれがこの人のドグマなんだよな:
で、この人(筆者注:原文ママ)場合、この文章の「人に教えを乞う」という表現から傲慢さがよくわかる。僕は「人に教えを乞う」という定型句なんか書いていない。僕はこう書いたのだ:
次に、上リンク先の人物が言うところの「やさしさ」に関して。これももう言い古された話で、僕も何度か open な場所で指摘しているけれど、この人物のいう「やさしさ」というのは、明らかに従来の「優しさ」ではない。知らないことを他者に教示してもらうよう乞うときに、そこに hospitality を要求する、というのは、これは「やさしく教えろやゴルァ」と言っているに等しい。先にも書いた、教える側の事情を何も斟酌していない態度だとしか言えない。要するに、この人が言うところの「やさしさ」(平仮名表記であることに注意)を冒していると僕を非難する行為は、この人の「やさしさ」のドグマで僕を断罪しているだけの行為だ、と僕は言っているのである。そもそも、「教えを乞う」って、そんなに屈辱的な言葉なのだろうか?まあたしかに「乞」は「乞食」の「乞」だけど、そもそも「乞」という字は「神仏に対して願う」という意味を帯びているので、何ものかを貶めるものではなくて、求める側の謙譲の意が入っているだけなんだけどね。屈辱なんて意味は、そもそもこの字にはないんですよ。
一応自然科学者の端くれとして書いておくけれど、僕は何事か、より reasonable なものに近づけるのだったら、相手が三歳児だって教えを乞うだろう。そして僕のそういうスタンスは、僕が出会ってきた、僕の関わった研究領域での権威と呼ばれる人達に学んだものだ。彼らは、当時学生だったり、学位を授与されたばかりの新米研究者だったりした僕に対して、権威の威光を振り回すなんてことはなかった。実にフランクに、僕の意見を聞き、自らの見解を僕に示してくれた。けれどそれは、相手の見解に対して相手が負うのと同等の責任を負うことの必要性を暗に僕に感じさせて、僕はいつでも冷や汗をかきながらそういう人達とディスカッションをしたものだ。
だから、教えを乞う/乞われるときに、どちらが上でどちらが下だ、などということは、そこに何の関わりも持ち得ない。求められるのは、必要な情報を得る上で真摯に問うているか(自力で調べられることは調べて……勿論人間だから力及ばないこともあるだろうけれど、聞くことをちゃんと分からないなりに整理して、何がどう分からないのかを伝えるように努めているか)、そしてそれに対して必要な情報を十分な確かさで、そうでないならエラーバーも含めて真摯に提示できているかどうか。それが全てだ。目線の上下なんてのは、そういうやりとりには何も関わりがないし、何も影響しないし。勿論僕はそんなものをこういうやりとりに導入したことがない。
それにしても……この人、まるで「『上から目線』過敏症」みたいだよなあ……あるいは過去に何か「教えを乞う」という文脈において、何か大きな大きな負の記憶でも抱えているんじゃなかろうか。抱えていようがいまいが、それは個人の勝手だけど、それを振り回すなんて、これこそが傲慢なんだっての。