computer literacy
先の「出歯亀」で書いていた TeX/LaTeX の話だけど、図が貼り込めない、という話で、結局その原因は TeX document と図の画像ファイルを同じ場所に置いていなかったことが原因だったらしい。いや、同じ場所に置いていなくてもちゃんと path を明示的に書けばいいだけの話なのだ……ただ graphicx とかで図を貼るときの画像ファイルの path は、Windows 上で動作する TeX でも \ でなく / を使わなければならないので、そこでちょっとまごつくかもしれないけれど。
まあ、何にしても、最近この手の愚にもつかない話が多すぎる。どうしてこうも多すぎるのか、と考えてしまう。中学・高校の教育でコンピュータを教え始めた――いわゆる科目としての「情報」――のが2003年のことだそうで、いい加減 path の概念位コモンセンスになってほしいものだけど、どうしてそうならないのか。
大体、僕だってそんなものを学校で教わった記憶がない。コンピュータは10歳から触っていたけれど、現在の OS みたいなものを触るようになったのは、高校に入ったばかりの頃に CP/M なんかに触ったのが最初だろう。その後 PC-9801 なんかを経て……ああそうか、僕は UNIX に触りだしたのが 1990年代初頭だから、それが他の人よりは少し早いのかもしれない。自分で DOS/V 機でどうのこうの、なんてする前に UNIX に触ってるからなあ。でも、僕は情報科学/情報工学を専攻していたわけではないからね。今でも「高級言語で一番慣れ親しんでいるのは?」って聞かれたら Fortran と答えるだろうし。
まあ、TeX でも DAW でもプログラミングでも、あるいは web でも何でもいいんだけど、何か道具としてコンピュータを使う上での共通知識みたいなもの……集合論と記号論理学、正規表現、階層型ファイル構造、アルゴリズム、英語、等々……があって、それを知っているか知らないかで、道具を道具として使えるかどうかが決まってしまう。google で検索をするときに和集合とか差集合とか考えられるかどうかで、求めるソースに辿りつけるか、あるいは複数のソースを多面的に比較検討して情報の価値の高いものを入手できるかどうかが決まってしまうのは、その一例である。
何度も強調するけれど、僕はそういうものを人に教えてもらったわけではない。必要に応じて自分で習得したのだ。だから、必要に迫られているのに、人が教えてくれないから、と平気で口にできる人々を目にすると、どうにも複雑な気分に襲われてしまう。
最近メディアで評判をとっている中部大の武田邦彦教授が公開している随想に『暴力としての知』というのがある。まあここで武田氏が書いていることは、何度も書いているけれど、もう二千年の昔に孔子によって実にシンプルに言い下されている:「学而不思則罔、思而不学則殆」だからどうでもいいのだけれど、現在はむしろ「暴力としての無知」の方が余程深刻なのだ。その増殖は、知の滞留を生み、そして知の滞留は文明の滞留へと至る。いや、実際、そうなっているではないか。Google を効率的に使っていると「検索の達人」などと褒めちぎって、結局は自分はいつまでたっても「検索の素人」のままだったり、やや検索に慣れてくると、今度は検索で得た tip の裏も取らずに羅列してみたり。こういう風な世情に至らないために computer literacy なんてものが提唱されたんじゃなかったのか?
今や世間は馬鹿のオンパレードである。そしてこの馬鹿の正体は、もう百年近くも前の夏目漱石の小説の一節で端的に表現できる:「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」そしてこの言葉を向けられても、彼らはKのように「僕は馬鹿だ」などとは決して思ってもくれないのである。