国語力を考える

実は、知人からお子さんに関して相談を受けている。知人は、そのお子さんがもう少し読解や論述の力をつけるべきだと感じているそうで、国語力を鍛えたいのだけどどうしたらよいか、ということで、僕のところに話を持ってこられた。僕は、これはいい話だな、と思って、相談に乗ることにした。国語力というのは、国語を含めた全ての教科において求められる能力だからだ。

fugenji.org のオーナーである友人Oは、何度か書いているけれど僧侶で、僧籍を得る前、檀家さんの関係で複数の子供の家庭教師をしていたことがある。これはOがそういう家だから声がかかった、というのではなく、Oに家庭教師をしてもらうと「成績が上がる」という評価があったからだった。その頃、僕はOに、その理由を尋ねたことがあるのだが、

「そんなん簡単な話や。国語を教えればええのよ」

事実、彼が国語、特に現代文を教えることで、それまで学校の授業についていけない状態であったような子の成績が、目に見えて向上していたらしい。僕は国語力というものの重要さを改めて思い知らされたのであった。

じゃあ、自分が子供だった頃はどうだったのか……と思い返してみると、とにかく僕は本が好きだった。僕の実家はそれ程裕福な家ではなかったのだけど、本に関しては、欲しいものは制限されることなく、何でも買ってもらえた。漫画は買ってくれなかったけれど、行きつけの床屋と耳鼻咽喉科の医院に山のようにあったから何の不満もなかった(この時期、僕は少年漫画界で不死鳥の如く復活していた手塚治虫にはまり、『ブラック・ジャック』や『三つ目がとおる』を暗記せんばかりの勢いで読んでいた)。親父も本を多く読むので、週末になると、さほど仲が良かったわけでもない父子は黙って二人で本屋に行って、何時間かを立ち読みで過ごした後に、何冊かの本を抱えて帰宅するのであった。

ああ、そうそう。唯一漫画でも買ってもらえる本があった。『学研まんがひみつシリーズ』だけは買ってもらえて、僕は小学生当時、当時発刊されていたほぼ全てを持っていた。あまりに読み込んだので本が分解しかかっていたのだが、僕が中学に入ってから、地元の学校か幼稚園かに寄付したらしい(当時、僕はそれらの記述のほぼ全てを暗記してしまっていて、もはやそれらを所持する必要がなかった)。親父は僕を滅多に褒めてはくれなかったが、本に関してだけは、

「これだけ読んだら本も成仏するだろうな」

と(カトリック信徒の癖に!)よく言っていた。

小学校の頃は、自分以上に本を読んでいるという子供に会うことがなかった。中学に入ったそのときに、たまたま話しかけた同級生が創元やハヤカワの推理小説をコンプリートせんばかりの読書量を持つ男で、これが後にハンブルク大学に留学した友人Yであった。まあそんな調子だったから、本と友人には、僕は恵まれていたのだろう。これは今でも、つくづくそう思う。

後になって知ったのだが、茨城、特に水戸という土地は、本を買うのに金を惜しまない土地柄らしい。調べてみたところ、2008年の雑誌・書籍購入費県別ランキング(全国平均が15,785円)で、第1位が埼玉(21,929円)、第2位が福島(21,545円)、そして茨城県は第3位(21,221円)である(ちなみに愛知県は15,743円で第36位)。まあ、水戸藩は藩の財政の 1/3 を『大日本史』の編纂に費していたそうだから、これはきっと伝統的なものに違いあるまい。

……というわけで、いささか話が逸れたけれど、僕は自分の国語力がどうか、などということを考える必要がなかったのだ。しかし……この現代社会で、名文に触れる機会というのは、たしかに減っているかもしれないし、そういう中で暮していたら、ボキャブラリーだってなかなか多くなり難いかもしれない。

先に書いた、相談を受けた知人のお子さんに、この間会ったのだけど、冬休みの宿題の「ことわざ」が今一つ分からない、ということで、臨時の家庭教師をすることになった。で、そのときに「三つ子の魂百まで」というのが出てきて、あーそうか、これは分からないかもしれないな、と思った。今の「大人」で、この諺の「三つ子」というのが「三歳児」を意味することを知っている人が、果たして何割程いるのだろうか(さすがに僕は知っていた)。そういうことを大人がちゃんと知らず、そういう言葉を日常の語彙として見聞きするチャンスがなければ、何もせずに子供がそんなものを覚える筈がないのである。

誤解なきように願いたいのだが、僕は自分の国語力を誇るつもりなどない。たとえば漱石・鴎外・芥川の時代のように、漢籍の教養があることが当然とされた時代の人々と比較すると、僕なぞとてもじゃないが「教養がある」などと言えるはずがない。中学時代にYの薦めで中島敦に親しむようになって『李陵』などを読んだときに、それを痛感したものである。

ただ、僕はそこそこの量の古今東西の文章を読んできたし、そして今のこの文章のような文体で、自分の思うところ、感ずるところを書くことができる。少なくとも、読み書きに構えてしまうことはない。この文章だって、別にそう面倒な推敲などすることなく、頭っからつらつらーっと書いているわけで、それはやはり、論理展開と表現というものを学んだ結果なのだろう。まあ僕の場合は、理系の文献を日本語と英語で読み書きする関係上、そういうものに関して専門的教育を受けている、と言えないこともないのだが、でもシステマティックに論文購読とか文章作成術とかを習ったこと、なんてのはない。基本的に、僕の読み書きの能力というのは、僕にとってはあくまでも「一般教養」の範疇のものなのである。

しかし、僕の考える「一般教養」というのが、どうも最近は一般的ではなくなっているような気がしているのだ。僕が使う語彙が通じなくなっているのは日々感じている(まあ官房長官が「柳腰」と「粘り腰」「二枚腰」の違いも分からないんだからな……「柳腰の芸者」なんて表現にお目にかかったことがないんだとしたら、政治家として以前に大人として、なんて乏しい教養なんだろう)し、blog のコメントを見ていても、あーこいつぁロジカルな思考ができないんだなー、という輩を散見する。これが世間の実情だというのなら、僕の考えるところの「一般教養」は、おそらくもはや一般的なものではないのだろう。

本来、国語教育というものは、論理的に物事を把握し、思考し、主張する、つまり人が社会生活を営むための必須教育である。教育学の立場の人はどう考えているのだろう、と思って、齋藤孝氏の『理想の国語教科書』を査収したところが、あとがきに、

私は日本再生の鍵は、日本語力と身体の教育にあると考えています。(中略)……日本の近代化の成功は江戸時代に遡る識字率の高さ、寺子屋の充実、明治期の初等教育の質的な高さ、高い読書力などに支えられていました。こうしたストックは、この二十年の間に使い果たしてしまった観があります。ここでもう一度基本に立ち返り、本格的な読書力を鍛錬する教育に方向転換をすべきだと私は考えています。
とちゃんと書いてある。僕もそう思うのだが、正直言って、今の日本はもう間に合わないところに来てしまっているのではなかろうか、という気が最近はするのだ。団塊ジュニアとか「ゆとり」世代において、国語力の低さというものはもう話にならない位の度合いまで進んでいて、しかもその世代が今は親になっているのだから。教育によってそれを立て直そうというのならば、余程施政者と教育者が尽力しなければ能わぬだろうと思うのだが、施政者があれだものなあ……

2011/01/13(Thu) 18:19:57 | 日記
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Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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