反・唯脳主義宣言
昨日、久しぶりに『メトロポリス』を観ていたのだけど、その冒頭にこんな格言が引用されている(ドイツ語は得意ではないので英語で書くが):
The intermediary between the hand and the brain is the heart.「手と頭脳を媒介するものは心である」もっとも、映画での引用にはこう続けられているのだが…… "That's a fairy tale ― definitely."(それはおとぎ話である……間違いなく)
映画では否定的に述べられるこの引用句だけど、これは最近流行りの脳科学などと無縁な話ではない。哲学や倫理学の世界では、この引用句に相当する問題は以前から論じられていたのである。
これはごくごくシンプルな話である。たとえば、今ここに剥き出しの脳があったとする。その脳は己の支配する身体を持たないけれど、その生命は維持されていて、活動もしているとする。スペース・オペラに登場するようなシチュエーションを考えると、脳漿に相当するような液体の中に脳が浮かんでいて、神経に相当するような電極やワイヤーが接続されていて、外部との情報のやりとりができるような状態、というところだろうか。
この脳に、普通の人間が感じるような情報を流し込めたとして、果たしてこの脳は、自分が身体を持って普通に生活していた状態と、今のこの状態とを同一のものとして認識し、身体を持っていたときのように活動し得るのだろうか、ということを考えてみる。ほとんどの人が、それは脳がちゃんと機能しているんだったら、脳は脳として活動し得るんじゃないの?と思われるだろう。
では、この脳の持ち主が、たとえばかつては算盤の名手だったとしよう。この脳に、何事か計算をするように働きかけたとき、この脳はどう活動するか。おそらく、この脳が本来の身体に収納されているならば、この脳は無意識のうちに手で算盤を弾こうとするに違いない。しかし、今この脳は己の身体を持たない……だから、計算をしようとした時点で、この脳は己が身体を失っていることに気付いてしまうのではないだろうか。
いやあ、算盤の名手ってのは見えない算盤を頭に持っていて……という話になるかもしれないが、ここで僕が指摘しているのはそういうことではない。脳の活動というものの中には、身体活動と深くリンクしたものが少なからずあって、そのような活動を行う際には、脳と身体は不可分なものとして協調動作するものなのではないか、ということが言いたいのである。
別にこれは算盤の名手に限定した話ではない。人は、おおむね二桁以上の四則演算、もしくは更に高度な数学的処理を行う際には、何らかの身体操作を(あたかもコンピュータが拡張メモリ領域を使用するが如く)行うものである。筆算しかり、方程式を解くのに式展開をするときしかり、である。
そんなものは神経経由にバーチャルに提供できて……なんて話になるのかもしれない。しかし、脳がそのような協調動作をする、その「原体験」というものが、バーチャルな場として与えられるのだろうか?与えられるのならば、それは肉体が脳に与えているインターフェースの模倣物、もしくは代替物であって、そのようなものを提供できることが、脳が脳だけでそれに相当する動作(つまり精神活動)を一から習得し得ると保証するものではない。
つまり、人は高度な思考活動を行う際には、自らの活動領域を半ば無意識のうちに拡張しているのである。人が高度な思考活動を行う領域を心とするならば、心ということばの意味する領域は脳の外にまで及んでいるのではないか、いや、そもそも脳という器官を以て、こころというものの存在を器質的に規定する行為自体が無意味なんじゃないのか……というのが、脳科学の哲学的理解の試みの中で言われていることである。
このような見方が単一的に正しいか正しくないか、ということを、僕はここで論ずる気はさらさらない。ただ、『唯脳論』という本を著しているあの養老氏ですら、実は先に示したような『唯脳的精神世界論』には否定的なのである。この後何日か、僕は前回の blog で言及した本の話を書き、アルコーに代表されるような脳の冷凍保存に関する話を書くかもしれないけれど、その最大前提として、僕自身もこのような思考を経て、いわゆる「唯脳主義」に対して否定的な立場にある、ということを明示しておきたいのである。