旨みが何かを考えないのか
以前ここに書いたけれど、僕はアセスルファムカリウムやスクラロースを使った食品を口にしないことにしている。これは、それらの甘味料の味が受け入れ難い、というのが第一の理由だけど、もうひとつの理由として、近年「カロリーオフ」の名のもとに、付帯価値を生むべく企業努力をしている結果のように思われているこれらの甘味料の使用が、実は食品のコストダウンの最終手段である「砂糖を使わないことによるコストダウン」のためのものであって、そこには実は付帯価値も、ユーザのための企業努力も、実は存在していない、という、あまり意識されていないであろう事実へのささやかな抵抗、ということもあるのだ。
これと同じように、僕はいわゆるノンアルコール飲料の類を一切口にしないことにしている。ノンアルコールビール、ノンアルコールカクテル(なぜ清涼飲料水と言わないのだろうか)、ノンアルコール梅酒(それは梅シロップなんじゃないのか?)……それらを口にしないのは、僕が酒を愛しているから、というのが第一の理由なわけだけど、酒造各社がそのようなノンアルコール飲料を売る理由が、酒への愛の背信行為だけに留まらないからでもある。
考えてみていただきたい。たとえばビールを見てみよう。ビールの税率は、1キロリットル当たり 222000 円、ロング缶1本あたりに換算すると111円である。この税率が、ノンアルコールにするとゼロになる(当然だ)。ゼロになるということは、多少ビールより安くしたとしても、ノンアルコールビールにはがっつりと儲けの幅が発生することになるわけだ。
あまりに単純な話で、僕はこういうことを口にする必要すらないことだと思っていたのだけど、ノンアルコールビールを飲む、という行為は、メートルを上げてささやかながら社会に貢献していた分を、バッカスに対する背信行為に精を出す酒造各社の懐に入れてやっているのだ……ということを言うと「え?」と聞き返されることがある。こういう意識をしていない人というのが、存外多いということに、今更ながら驚かされているのだ。なぜ、こういうちょっとしたことを自分の頭で考えない人がこう増殖しているのだろうか。本当に、厭になってくる。