汗をかく政治とは何か
今日、野田内閣は総辞職し、自民党の安倍内閣は組閣の最終段階に入っている。僕は決して自民党を諸手を挙げて礼賛する気などないのだが、この3年何か月かの間の停滞には、もうほとほと嫌気がさしているわけで、今後、これよりひどくなることはないものと信じたいと思っている。
さて。この模様を報じている記事を引用する(本当は著作権法上好ましくないのだが、新聞社のサイトの記事は消えてしまうので、元記事をリンクで明示した上でこのように引用させていただく)。
この記事を読んで僕が思ったのは「ああ、結局彼らは何も分かっていないんだな」ということである。野田内閣は26日午前の臨時閣議で総辞職した。
2009年9月にスタートした民主党政権は、鳩山、菅、野田の3内閣にわたって続いたが、3年3か月(1198日)で幕を閉じた。
野田首相の在職日数は482日で、民主党政権下の首相では鳩山(266日)、菅(452日)両首相を上回った。
野田首相は臨時閣議の中で、「野田内閣として、汗を一緒にかいたことを非常にありがたく思う」などと約3分にわたり、閣僚たちをねぎらった。首相はこの後、「東日本大震災からの復旧・復興、原発事故との戦いや、日本経済の再生や社会保障・税一体改革の実現などの重要課題には、引き続き政府が全力で取り組んでいく必要がある」との首相談話を発表し、安倍政権での一体改革などの継続を求めた。
(2012年12月26日11時50分 読売新聞)(下線は Thomas)
「汗をかく」という term を民主党議員は多用する。しかし、少し冷静に考えてもらいたい。「汗をかく」というのは「(その主体が)労を尽す」ということである。政治家は労を尽すことがミッションなのだろうか?
「何を当たり前のことを言っているんだ、そうに決まっているじゃないか」
と思われるかもしれない。しかし、これは断じて「否」である。政治家は、その結果のみでその業績が評価される職なのである。どれだけ汗をかいても、民草の票に報いる結果を出せなければ、それはただの無能な多汗症の政治屋であるに過ぎない。
もっとはっきり書こうか。汗など一滴もかかなくてかまわないのである。鼻クソほじりながら鼻歌交じりで、汚いケツをボリボリ掻きながら、であっても一向に構わないのだ。民草のために何を為すべきか、を理解していて、そのための仕事をし、しかるべき結果を出して、民草の票に報いれば、それで構わない。「汗をかく」という言葉は、無能な政治家の精神的マスターベーションに過ぎないのだ。
閣僚のうち8人が議席を失い、現役総理にして比例代表名簿に名前を載せるという前代未聞の恥ずべき所業を為して、それでも尚、彼らは何も分かっていない。それが、この「汗をかく」という言葉を考えもせすに吐き、ねぎらいという名の自己・相互憐憫に閣議という国政のための時間を空費して恥じもしないということに、実によく現われているではないか。いやはや、本当に、彼らは未だに、何も分かっていないのだ。