残念な所作
まずは、皆さん、明けましておめでとうございます。僕が blog というものを書き始めて、もう20年近くにもなろうとしているわけだけど、おそらく今後も(更新のペースは落ちるかもしれないけれど)書き続けることになるでしょう。今後も何卒よろしくお願いいたします。
……さて。4日からまた忙しくなるので、せめて今日までは、と、のんびりテレビなど観ている。最近は年末年始には本当に面白い番組がないので、BS で『鬼平犯科帳』『仕掛人藤枝梅安』の再放送を観ている。池波正太郎は老後の楽しみにとっておこうと思っていたのに、もうあらかた読んでしまっているのだが、読み返しても面白いのが池波正太郎である。このドラマもそれなりに楽しんで観ているわけである。
しかし、時代劇というのを観ていると、いつも残念に思われてならない。僕は居合をやっていたので、刀を扱う所作に違和感があって、もうどうしようもないのである。
たとえば刀を抜くとき。時代劇では、まず間違いなく、刀を抜くときには柄をそのまま真っ直ぐ抜いているわけだが、実際にはあんな抜刀はあり得ない。まず柄頭は目前の敵に向け、威圧しておかなければならない。抜刀の瞬間は敵にとってこれ以上ない程の隙なのだから、そこに反応する敵の鳩尾に、いつでも柄頭を突き込めるようにしておかなければならないのだ。そして、刀はただ柄を鞘から抜くのではなく、左手の鯉口を包んだ手を帯に沿って引きながら抜く。時代劇で出てくるようなぞんざいな抜き方など、実際にはあり得ないのである。
しかし、困ったことに、最近テレビなどで見かけるような、試し斬りを人に披露するような手合いが、あの時代劇のような抜き方をするのである。連中があんな抜き方をする理由は簡単で、刀を自分の身体の一部にするような修練をしていないからである。本来の抜き方をするときには、刀の長さを身体に覚え込ませていないと、抜き切らぬうちに鞘をこじって鞘を割ってしまう。それが怖いから、あんな抜き方をしているのである。しかし、そんなレベルでは、抜刀時に斬られておしまい、なのである。
実家で暮らしていた頃、父と時代劇を観るといつも「ほれ、また『ささら剣術』だぞ」という話になったものである。横で母は、ほーらまた始まった、という顔をしているわけだけど、居合をやっている者としては、やはりあれはいただけないのである。それは今でも変わらない。