『TeX Live を使おう──主に Linux ユーザのために──』改訂

TeX Live のガイド『TeX Live を使おう──主に Linux ユーザのために──』を公開しているわけだけど、しばらくちゃんとした更新をサボっていて無惨なことになっていたので、今日の午前中の時間を使って各所を書き換え、あまりに古かったインストーラーのスクリーンショット等を更新した。

今の TeX Live は、フォントの選択などはラッパーがかなり充実していて、ラッパーで設定すればそれで用が足りるわけなのだけど、特に日本語フォントや luajitlatex の設定等に関しては情報を残しておきたい……ような気がするわけだ。まあ、どれだけの人に恩恵があるかどうかは分からないけど。

ちなみに私が何故ああいう情報、特に日本語フォントや縦書きについての情報を書き、掲載しているのかというと、教会で使うマニュアルを書くのに縦書きで書かなければならなかったり、青空文庫を PDF に変換していた頃に必要だったり(今は epub に変換するから関係ないんだが)していたから。まあでも最近は、文学系の同人誌を出版している人々とかの方が余程ノウハウ持っておられるだろうし、私が書く必要はないのかもしれないが、分からない人に分かるように情報を提示する技術、というのもあるかもしれないしね。

祝福はしていただきましたか?

facebook の非公開グループに「カトリック」なるものがある。知人が何人かこのグループに入っているので、試しに申請を出してみたら許可された。しかし、そこを流れている書き込みを見て、程なく僕は後悔したのだった。

「祈ります」とか書いてる輩がうじゃうじゃいるんだが、祈りって facebook に書くものなの? まず黙って自分で祈ることが重要だと思うんだが。ああそうか、「祈ります」のこころは「私はほら、祈っているんですよー!皆さん、認知してー!」なわけね。この露出狂が。

あと、毎日の聖人や聖句の類をだらだら書く奴。リタイアして暇なのかなあ。それともひきこもって他にやれることがないとか? いずれにしてもノイズばっかり。しかもその背後に「自分がカトリックだと認知せよ」という感情が見え見え。いやー、本当に厭になる。しかし、こうもアレな連中、監視していないと怖いような気もしてきて、抜けるに抜けられなくなっているわけなのだ。

そんな中、一人のユーザーが写真を公開した。見ると、華美な一連用のロザリオだ。要するにカトリックにおける数珠である。ロザリオの祈りというのは、カトリックの信徒が日常的に行う(行わない人もたくさんいるけどね……例のグループにも、きっと)ものなのだけど、詠唱や黙想と共に「アヴェ・マリアの祈り」を10回唱えるのを一連という。それを数え上げるために使うものだ。

しかし、イカツいヤンチャな面々が手首に数珠を嵌めるのと一緒で、この一連用ロザリオをアクセサリーとして持つ人も結構いるらしい。その写真を上げたユーザーも、持ち歩いて楽しんでいる、みたいなことを書いているわけだ。うーん、何か違和感を感じるんだよなあ。いや、持ち歩くのは勝手だし、アクセサリーとして使うのも勝手なんだが、カトリックのグループでそれを持ち出してきて、ただのアクセサリーでござい、というのも、何ともおかしな話ではないか。

そこで僕は、このユーザーが祈りのためにそれを持っているのか、ただのアクセサリーとして見せびらかしたいだけなのか、ひとつ本人に聞いてみようと思ったのだ。短く、ひとつだけそこに書き込んでみた。

祝福はしていただきましたか?
マトモなカトリックの信徒だったら、ロザリオを貰うなり買うなりして、それをロザリオとして使うのであれば、必ず司祭に祝福をしてもらう。祝福されたロザリオはそこで初めて「その人のためのもの」になり、日々の祈りに使われ、その恵みをその人にもたらすものになるのだ。

で、この質問に、このユーザー自身、もしくはその周囲の「綺麗ですねー」「素敵ですねー」とか美辞麗句を書き込んでいる連中が何を返してきたか。言葉はゼロで、「いいね」が2つ。はぁ? 何が大事なのか分かってるのかなあ。結局はゴシックなアクセサリーを見せびらかしているだけじゃん。何とまあ、下らない連中なんだろう。

「ハンムラビ法典の様な同様の刑罰がシンプルで分かりやすい」?

最近気がついたのだけど、麻原の娘さんが二人、Twitter をやっている(@asaharasanjo , @umi_matsumoto ‏)。さすがに親の罪、己の育ち方、自分に対する周囲の対応(二人とも某私立校から合格後に入学を拒否されている)などからも色々考えざるを得ない状況だったせいなのか、感心する程理知的な tweet を書いているのだけど、見ていて厭になるのが彼女らに絡んでくる連中の tweet。要するにこういうことなんでしょう。ああ、こいつらは印が付いている。だから何やってもいいんだ。そう思っているんだろう。

カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。 創世記 4:13-15
カインの印はカインを迫害する為に付けられたのではない。逆にカインを守る為、彼が罪を負うて生きる為に付けられたわけだ。しかし、どうも皆さん、「印」の意味をちっとも分かっておられないようだ。

で、麻原の娘さんに向けて噛みついている人の中に、

自分はそんなに学はないので詳しい事は言えませんが一番手っ取り早いのはハンムラビ法典の様な同様の刑罰がシンプルで分かりやすいと思います。それとハンムラビ法典自体も別に重罪を望んで作られ訳でもなく加害者保護の観点で作られたと聞きます。
こんな返信を送っている人がいたわけだ。これはちょっとなあ、と思って、
横から失礼しますが、ハンムラビ法典の意味は「目には目で、歯には歯でやめておけ」ということです。報復の無限拡大・連鎖を止めるためのものであって、それが良いというのは何千年にも渡る人類の法思想を無視したお言葉としか……
と返信を送ってみた。すると、
よろしくお願い致します。はい、その通りです。なので、自分もそれ以上は求めないですし、それが一番わかりやすいかと思います
と返ってきたわけだ。で、最初から気になっていたことを訊いてみた。
ひとつだけお伺いしたいのですが、では一人で二人殺した人がいたとして、その罪はどのように断罪されるべきなのでしょう。二人に一人では合わないということですよね。それとももう一人、被告の親族でも殺せば帳尻を合わせられるということでしょうか。
そしてやはり、と言うべきか、これには何も返事が返ってこないのであった。はいはい、あなたの仰るのは、つまりはそういうことなわけね。

お知らせ

突然ですがお知らせです。

実は11月11日に結婚することになりました。おそらくここを読まれている方で、実像としての僕を知っている人はもはや本当に少ないのだろうと思うけれど、彼らの目にこれが触れることを祈りつつ書いております。結婚しても僕は僕ですので、今後ともひとつ、よしなに。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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