某コメントのおかげで、SKK のソース取得を全面的に git ベースに切り替えた。辞書に関しては、Open Lab の FTP サーバから wget で落とすようにしてあるのだけど、まあこれもサーバの様子をみて、変えられる状況になったら変えるつもりでいる。
それはそうと、先週末からどうも風邪をひいたようだ。年に1、2度、鼻の調子がおかしくなって、その炎症が鼻から喉へと降りてくるようにして風邪になることがあるのだけど、今回もそういう感じである。いやあ、参った。とりあえず総合感冒薬を対症療法に、トローチで喉や口腔内の殺菌、という感じで対処する。他に手がないものねえ。
この blog に、SKK 絡みの話を書こうとして、ふと:
http://openlab.ring.gr.jp/skk/
に接続しようとしたら、接続できません……うーむ、これはどういうことかしらん。
第一に、僕は最近の Ring Server Project の状況がどうなっているのか、あまりちゃんとチェックしていないわけだ。そしてそれ以前の話として、SKK を作られた佐藤氏は、もう16年も前に SKK の開発を終了しているわけだ。だから、いつ何時 SKK が顧みられない状況になったとしてもおかしくない、とも思えるわけで。
うーむ。今更 Google 日本語入力とか使えませんよワタクシ。これが単なるサーバメンテナンスとかであってほしいんですが……
スタバを使うようになったのは、当然大阪に住んでいる頃だった。当時は出張で空港を通ることがとにかく多くて、その度に伊丹や関空のスタバには世話になったものである。当時はまだ、メニューにエスプレッソ・コンパナも掲載されていて、朝の出発で眠たいときには重宝していたものだ。
しかし時代は、そして社会は変容するものである。当時はちょっと「イケてる感」があった(僕がそれを希求していたわけではないんだが)スタバが、いつの間にか若者の為の場所、みたいな扱いになって、気付いてみたら、高校生や大学生の勉強スペース、ということになっているらしい。
そういう状況に違和感を感じまくっている Thomas が、どんな風にスタバを利用しているか、というとだ……
- 入店。大概メニューを持った店員が「メニューをどうぞ」と来るのだが「いらん」と突っ返す。キャリアの長そうな店員だと「ああ、この人はそういう人なのね」と放っといてくれるんだが、そうでないと「ひぃ」と声でも上げんばかりの怯えた目を向けられることになる。
- 「ご、ご注文は……」まあいつも大体決まっている。面倒なので「ダブルトールカプチーノ」と言う。キャリアの長そうな店員だと「ああ、この人はそういう人なのね」と放っといてくれるんだが、そうでないと「何この人、店員でもないのに符丁を使うんだ」と言わんばかりの当惑した目を向けられることになる。阿呆。「エスプレッソのショットをひとつ追加した、トールサイズのカプチーノを下さい」なんて長ぇんだよ。
- もっと面倒なのは「エスプレッソ・コンパナ」と言ったときだ。新人相手だと通じないことがある。まあ、目端の利くベテラン店員がすっと来て引き継いでくれることが多いんだが、そうでないと面倒この上ない。
- で、この一連のやりとりをしているとき、何が一番うざったいって周囲の連中だ。えースタバで甘くないもの頼む人なんかいるんだー、みたいな顔をしやがる奴。もう面倒で面倒で。
- さあ、それで、ようやく品を持って席を探しに入ると……阿呆面した奴が勉強のポーズを決めてやがる。気合入れてレポート書くのに、友達と談笑しながらとか、ヘッドフォンで何か聴きながら出来る、なんて、僕にはとてもじゃないが信じられない。ポーズだったらもういいじゃん。出てくれよ。席空けてくれ。ああ。邪魔邪魔。
……と、こんな調子なのである。カプチーノじゃなくて良いんだったら、もうスタバなんか来たくない、と思うわけなんだけど、生憎とこの辺りには喫茶店文化なるものがあって、静かにカプチーノやエスプレッソ・コンパナなんか飲める店を探してもありゃしない。本当に、カプチーノじゃなければねえ。コンビニでコーヒー買って、教会のテーブルで飲んだ方がまだましなんだが。
まああと、スタバには無料の(けれど unsecured だってことは皆意識しないものらしい)Wi-Fi があるので、これを使うために来る、というのもあるわけだ。でも、僕が普段使っているのは Debian GNU/Linux に XFce4 だから、得体の知れないデスクトップを開いて、bash にガシガシ何か打ち込んでいると、これまた気味悪がられてしまうわけだ。
嗚呼、どうしてこの国は、いや、この地はこうも横並びを求めるんだろう。他人が自分と同じだと安心する、なら分かるけれど、他人が自分と違うと、どうしてそうも異邦人扱いするんだろう。意識していないのかな。いいじゃん、僕があなたと違っていたって。興味があるなら、へーそれ何使ってるんですか、とか訊けばいいじゃん。訊きもせず、放置もせずに、異物扱いするのだけは、どうかやめてもらいたいんだけどなあ。ほら、この辺りには、異物扱いされない異物がそこら中に転がっているじゃない。勉強するフリしてる学生とか、スタバに来たら甘いもの頼まなきゃならない、って強迫観念に酔ってる奴とかさ。
知っている人は皆知っているけれど、僕の名前は「完」という。いわゆるキラキラネームではないけれど、まあ珍しい名前なのは確かだろう。
思えば、小学校の頃から、何かで賞状を貰う度、卒業証書を貰う度、名前の横には鉛筆でルビがふられていたものだ。貰うとまずそれを消しゴムで消すわけだ。生まれて初めて、何もなしで僕の名前を読んでくれたのは、何と阪大の総長だった。学位授与式でのことだったけれど、このときばかりは本当に嬉しかった。よりによって、この手の証書を貰うおそらく最後の機会に、ようやくちゃんと読んでもらえたのだから。
まあ、その話はどうでもいいんだけど、今回の話は、朝霞市で二年前に行方不明となり、つい先日中野区で保護された15歳の少女を連れ去り、監禁していたとされる寺内樺風容疑者に関して、ネット上で見かけたこんなコメントについてである。
「「かぶ」って読むんか…そりゃどこかねじれるわ。カブが車庫にたくさんある職場とは関係ないと思いたい」
もしこれが当たっているならば、おそらく僕の方が余程反社会的な生活をしていなければならないのだけど、一応これでも社会の中でちゃんと生きている、つもりである。それどころか、僕がこうやって生きていけるのは、おそらくは自分の名前のおかけだ、と思っているのである。
どういうことか。僕の名前を聞いた人は、皆それぞれにそれぞれの反応を示すわけだけど、それを見ていると、その人がどういう人かが実によく分かるのだ。特に、人としての浅さ、薄さとでもいうべきものは、実によく見てとれる。だから、僕は生まれながらに、人を見分ける試金石を持たされているようなものだ、と思っているのだ。
小学校の頃だったけど、読書感想文か何かで賞状を貰うことになって、学年集会で学年主任が僕に手渡すことになった。その学年主任は、壇上に上った僕の目前で、名前を読みながら、
「えーと、かんって読むのかな?」
と聞いた。たまたまその日の賞状にはルビがふられていなかったのだ。同級生達は、僕の名前のことを皆よく知っているわけで、この教師が読み間違えたのを見て皆で笑った。すると……この教師は烈火の如く怒り、こう言ったのだ。
「何だ君達!失礼じゃないか!」
はい、ダーウト。失礼なのは読み間違えたアンタの方だろうが。何逆ギレしてるんだよ。同級生に怒鳴る前に、俺に何故謝らない。結局は俺のことなんか何も考えていない。笑われたのが自分だということをよく分かっていて、いたたまれなくなっただけだろうが。なるほどねえ、この人はこういう風にするんだね……
ということで、難読名を持つと、むしろねじれないものだと思うんだよな。もしねじれるとすれば、名前をあげつらう連中の心ない言葉のせいだと思うし、上に引用したコメントをした奴も、確実にそれに加担しているのだ。アンタの言う通りだとするならば、そういうモンスターを生み出すことにアンタ自身が加担しているんだよ。