20151101

2015年11月1日、名古屋市営地下鉄鶴舞線庄内通駅で、ひとりの少年がホームに入ってきた地下鉄に飛び込み、死亡した。メディアでは、この少年がどの中学校の出身なのかを明らかにしていない。その理由は、名古屋市教育委員会がその中学名を今に至るまで公開していないから、なのだけど、名古屋市西区界隈では、この少年の中学校が名古屋市立名塚中学校であることは公然の事実である。

少年が自ら命を絶った理由はいじめである。彼の自室の抽斗から「学校や部活でいじめが多かった。部活で弱いなと言われていた」「もう耐えられない。だから自殺しました」などと書かれた遺書が見つかったのだ。名塚中の校長は、メディアの取材に関して最初はかなりの強気で「いじめだとは考えていない」とコメントしていたのだが、この遺書が出てきて、急に主張を変えた。

この中学では、「名塚中学校 いじめ防止基本方針」なる文書で、全10ページにも渡って誇らしげにその取り組みとやらを公開しているのだが、その中にはこんな記述がある。

月に1回、記名式の「学校生活アンケート」の実施により、誰が被害者か加害者かとかは関係なく、いじめがどの程度起きているのかを定期的に把握し、未然防止の取組の評価・改善につなげる。
重大事態が生じたときなど、事実関係を把握する必要がある場合は、緊急的に記名式でアンケート調査を行う。

僕は複数の関係者に話を聞いたのだが、皆異口同音に「記名式で何か書いたら、自分が書いたことがばれるに決まっている」と言う。こういう問題は、ロールプレイングなどを併用したシミュレーションを行えば気付きそうなものなのだが、まあ枠組みを一方的に作って、それで対策していますと胡座をかいていたとしか思えない。

で、最初のうちは、この名塚中学校では、緊急父兄会とか何だとか騒いでいたのだけど、先日、こんな報道がひっそりと流れたのである。

早すぎる死を悼む 名古屋の中1自殺1カ月で全校集会

名古屋市西区の中学一年の男子生徒がいじめを受けたとする遺書を残して自殺してから一日で一カ月を迎えた。生徒が通った中学校では同日、全校集会があり、在校生らが男子生徒の早すぎる死を悼んだ。

集会は始業前の午前八時半から十五分間、体育館で実施。全校生徒と全教員合わせて五百七十人が参加した。

市教委によると、生徒らが約一分間の黙とうをささげた後、校長が両親から寄せられたメッセージを代読した。

メッセージの中で両親は、息子を失った悲しみや救えなかった後悔の念を語り、「もし学校でいじめられている子を見たら声を掛けてあげてほしい」と在校生にお願いした。

ほかにも、生徒会の代表者が「一日」を忘れず、二度と同じ悲しみを繰り返さないように月命日の呼称を募集すると提案した。また、シンガー・ソングライターを学校に招き、歌づくりなどを通じて命の大切さを考える計画を発表した。

(奥村圭吾)

(2015年12月2日 中日新聞より引用)

月命日の呼称を募集?シンガー・ソングライター?ハァ?何言ってるんだ?別のメディアの情報を探すと、

中1生徒自殺1か月いじめなくす取組を

12 / 01 ( 火 ) 12 : 12 更新

名古屋市で中学1年の男子生徒がいじめを苦に自殺した問題で、中学校では月命日をいじめをなくす取り組みにあてることなどを決めました。男子生徒が通っていた中学校では、けさ8時半から全校集会が開かれ、生徒らが1分間の黙とうを捧げました。中学1年の男子生徒は、先月1日、「いじめが多かった。もう耐えきれない」などと書いた遺書を残し、地下鉄の駅で電車に飛び込んで死亡しました。集会では、生徒会から、「月命日の『1日』を、いじめをなくすため何ができるかを考える特別な日としたい」として、名称が募集されました。また、生徒が考えた言葉をそえたカレンダーを校内に貼ることを決めたほか、「シンガーソングライターを招き命の大切さについて発信していきたい」などの提案がありました。

(東海テレビ web サイト記事より引用)

ハァ?何言ってるんだ?特別な日にしなきゃ忘れちまうのか?言葉を添えたカレンダー?そんなもの貼る前に胸にこの事実を刻め、って話だろうが。そして「シンガーソングライター」の話だ。まあ欺瞞と「これで片付けよう」っていう意識、そして、生徒の死すらも生徒を啓発する一イベントとしてしか認識できない連中だなあ、という感想……いずれにしても、反吐の出るような話だと思うわけだ。

さて、で、本題はここからである。皆さん、どうしてここで、取ってつけたように「シンガーソングライター」なんて話が出てくるんでしょうねえ。奇妙だと思いませんか?

実はこの「シンガーソングライター」というのには、元ネタがあるのだ。

いじめ苦に生徒自殺、命の尊さを歌に 名古屋の市立中学

小若理恵 2015年12月4日19時39分

2年前、男子生徒がいじめを苦に自殺した名古屋市南区の市立中学で、命の尊さを訴えるオリジナル曲「地球のダイアモンド」ができた。生徒の言葉をもとに、全盲のシンガー・ソングライター大石亜矢子さん(40)=東京都=が作詞、作曲した。4日、お披露目のコンサートがあった。

♪君は誰かを笑顔にする みんな地球の宝物 光り輝くダイアモンド♪

生徒たちは時折涙をぬぐいながら聴き入った。生徒会長の女子生徒は「曲名のように私たちは輝いている。思いが詰まった歌を未来に残していきたい」とお礼を述べた。

同校では2013年、2年生の男子生徒が「いろんな人から『死ね』と言われた」と書き残してマンションから飛び降り自殺した。以来、毎年、命日の7月10日に「命の行事」を開いている。今年は市のハイパーレスキュー隊員から、眼前の命を救えなかった救助体験を聞いた後、「(生きるうえで)大事にしたいこと」を一人ずつ書いた。

「命は生きている限り輝くダイヤモンド」「一人ひとりが地球の宝物」。こうした生徒たちの言葉を読んだ校長が知人の大石さんに曲作りを依頼。大石さんが全生徒の言葉の中からフレーズを織り交ぜ、曲を完成させた。

コンサートの準備は54人の生徒有志が進めた。終了後、生徒会の担当教諭は「生徒たちは真剣に命の尊さと向き合ってきた。初めて曲を聴き、目の色が変わる生徒の姿を実感した」と話した。

(12月4日付朝日新聞より引用)

まず、二年前にこのいじめ・自殺があったのは、名古屋市立明豊中学校である。事の経緯に関しては yourpedia のエントリを御一読いただきたい。この事件では、クラスの10名以上の生徒が「死ね」とクラス会で自殺した生徒に声をあびせただけでなく、「自殺する」と言った生徒に対して、担任の女性教師が「そんなのやれる勇気ないのに、やってみろ」と言い、それがとどめとなって生徒が命を絶った。そういう事件である。

なるほど、おそらく学校と名古屋市教育委員会にとって、この「シンガーソングライター」ってのが貴重な成功体験なのだろう。だから、名塚中学校の生徒会に対しても、そういう「指導」を行い、生徒会がそれを提案した、と。おそらく真相はこういうことで間違いあるまい。そうでなければ、何もないところからこうも符合した「シンガーソングライター」なんて話が出てくるとは到底思えない。

いやー、何とまあ腐っているんでしょうね、名古屋ってのはさ。こんな土地で、子供育ててる人達は本当に大変だと思いますよ。僕だったらとてもじゃないけれど出来ないわ。こんな学校や、教育委員会を信用して、自分の子供を学校に通わすなんて。ああ恐ろしい。

To be, or not to be, that is the question.

パリで起こった連続テロに関して、まずは心より哀悼の意を表する。そして、これが連鎖に至らないことを心より祈る。

で、だ。facebook では早速、自分のプロフィールの写真をトリコロールにするオプション、というのが提供された。何人かの僕の知人も早速トリコロールにしている。僕は彼らを批判するつもりはない。しかし、自分のプロフィール写真をトリコロールにする気には、残念ながらなれそうもない。

それは何故か。哀悼の意というのが、そういうテンプレに対応するというアクションで「お手軽に」表明すべきものではない、ということがまずひとつある。何度も言うが、他人のそれを否定する気も、批判する気もない。僕自身の個人的な信条の問題に過ぎないし、それは一般人から見たら、きっと頭の固い考えかもしれない。

そしてもうひとつ。何かにあるアクションを暗に求める、という、この全体主義的な風潮が嫌なのだ。そういう風潮は、反テロよりもむしろテロ側の思想に近いように、僕には思われてならぬ。集団の信条が個の信条に勝って求められる。そしてそれが自己保存の本能を超えて発揮されることが美徳とされる。そういう思想には、僕は断固として反対の立場をとりたいのだ。

再び、哀しい聖体拝領

前から書いているように、僕は日曜の朝のミサに行っていない。それは、僕の所属教会が司教座教会であるために、周辺のあちらこちらから人が集まってくるためなのか、嫌な思いをさせられることが多いからなのだけど、一応主日のミサというのは土曜の夜から始まるものなので、土曜の夜のミサに代わりに行っているわけだ。

で、昨日のミサ、聖体拝領のときのこと。僕は大抵前の方に居るので早めにいただくことになるわけだが、自分の席に戻って、短い祈りをした後に、拝領する信者の列に目をやっていた。前にも書いた通り、洗礼を受けていないのに聖体拝領に与ろうという不心得者がいるからである。

この手の話を書くと、こういうことを言われることがある:

どうせ洗礼を受けていない人にとってはただのウェハースなんでしょう?食べるにまかせておけばいいんじゃないんですか?
それは傲慢というものである。洗礼を受けていない人にとってそうであっても、信徒にとっては、聖化されたホスチアはキリストのからだなのだ。それをないがしろにするのは、たとえば仏教だったら、寺の仏舎利塔をあばいて、「どうせただの灰なんでしょう?」と中身をないがしろにする、とか、神道だったら、神社の神体を取り出してきて「たかが磨いた金属板でしょ?」とないがしろにするのと同じことなのだ。これは断じて許し難い蛮行なのだ。

さて、その聖体拝領の列を見ていると、大学生位と思しき女性が、司祭の前できょときょとしている。ん……と見ていると、横に居た年配の女性信者が確認を取り、その女性は司祭に祝福を受けていた。ほっとしたところに、その後ろにいた家族連れらしい4人連れが司祭の前にやってきた。父親、母親、息子が二人。息子はいずれも小学校低学年位だろうか。見ていると、先頭にいた少年が、司祭からホスチアを貰ったのである。

これは明らかにおかしなことである。カトリックでは、幼児洗礼を受けた信者の場合、だいたい10歳位になると、要理教育を受けてから初聖体を受ける。つまり、この少年の歳の頃では、まだ初聖体前である可能性が高いのだ。おかしいなあ……と思って見ていると、もう一人の少年の番になった。この少年は、明らかにどうして良いか分からない風だ。何となく、司祭の方に両手を伸ばしてはいるのだが、聖体拝領の所作を明らかに知らないようである。

そこで、驚くべきことが起きたのだった。後ろにいた少年の父親が、後ろから手を伸ばして、少年の手を広げさせたのである。司祭は親に確認しているようだったが、親が受洗していると答えたのだろう、その少年にも聖体を渡した。その後に母親、最後に父親が聖体を受け取ったのだが、父親は両手に聖体を包んだまま、それを持ち帰ろうとした。これは聖体拝領の本質を理解している者が決して行わないことだ。僕は眩暈のするような思いだった。こいつら、一家揃ってやらかしたのか!

僕が立ち上がり、その父親のところに歩み寄ろうとすると、この父親は雰囲気に気付いたのだろう、掌の間に包んだホスチアを口に放り込んだ。この場での確証が消えてしまったので、仕方なく僕は再び席に座ったのだが、僕は未だ自分の目前で起こったことが信じられなかった。親が渋る子供に聖体拝領させていた、ということか?信じ難い話だが……

その後、閉祭の歌の最中に、一人の年配の信者がすっくと立ち上がり、前に歩いていった。一枚のホスチアが落ちているのを見つけたのだ。彼はもう引っ込んでしまった司祭のところに、それを渡しに行った。あーこれは酷い、酷過ぎだ。僕は後ろの方に目をやった。先の一家はまだ後ろに揃っている。僕は閉祭の歌が終わったところで、聖堂の後ろに歩いていった。

一家は揃って、自分達のやったことなど忘れてしまったかのように、祭壇の正面まで歩み寄り、その左右の石像などを眺めている。僕は、父親の方に歩み寄った。

「失礼ですが……洗礼、受けられていますか?」

父親はん、はぁ、何だコイツ、みたいな顔をしてこちらを向き、

「え?……いえ、受けていませんが」

やっぱりだ。僕は多少声を荒げて、聖体拝領は受洗者しか受けられないことを説明して、

「それだけじゃない。あなたのお子さんは、よりによってホスチアを床に捨てましたね? 」

と言うと、この父親、何を思ったのか、にやにやしながら「はあ、そうですか」と言うと、踵を返して、子供と妻と一緒に、聖堂の中を周るように歩きながら出ていったのだった。

僕がそのとき何を思っていたかって?いやあ、あの二人の子供が可哀想で可哀想でならなかった。子供は親を選べない。あんな親に育てられたら、きっとあんな大人に育ってしまうことだろう。何と哀しいことではないか。本当に、哀しくてやりきれない思いだった。

「SEALDs とキリスト教」という切り口を考える

僕は普段から、自分がカトリックの信徒であることを公言している。それが原因で不利益を被ったこと、というのを考えてみると……まあ、ない。利益を受けることもない……いや、ないこともないか。クリスマス・イブに仕事を早上がりする理由を聞かれて、
「教会に行くからです」
と答えると、素直に納得してもらえる。またまたぁ、誰か女の人とどうのこうの、じゃないのぉ? などと下衆な言葉で勘繰られて、ああ面倒くせぇなぁ、とイラッとすることは避けられているわけだ。しかしまあ、これ位のものである。

最近、SEALDs の主要メンバーがキリスト教系の学校、特にキリスト教愛真高等学校の出身である、という話が流れたわけだけど、この手の話が流れる度に、キリスト教徒のひとりとして、なんだかなあ、という思いをするわけだ。その前には……えーと、神社仏閣に油を撒いた、と評判の、アメリカ在住の医師52歳が運営しているのがIMMというキリスト教系(と自称する)団体だ、という話があって、僕も何人かの人に「キリスト教ってお清めに油を撒くの?」と聞かれたんだった。

ちなみに、キリスト教で、日本人が連想するお清めに近いニュアンスで撒くのは「聖水」、つまり水だ。油を額に注ぐ「塗油」というのはあるけれど、油を撒くなんて、少なくともカトリックでは聞いたことも見たこともない。どうも、「キリスト教」と付くと途端に「お前もあの手合いか」みたいな目を向けられるのがもう嫌で嫌で仕方がない。

日本人にとってより身近であろう仏教の場合を考えてみてほしい。仏教と呼ばれるものの中にだってとんでもないのがあるじゃないですか。古くは密教の立川流とか、現在は……まあ、ちょっと考えてみてもらったら分かると思うけれど。もちろん大多数の仏教徒や聖職者はちゃんとしている。この fugenji.org だって、名前で分かる通りお寺の所有するサーバなのだ。fugenji.org のオーナーであるOは、お盆の辺りになると、関西エリア中をクルマであちこち回って、古くからの檀家さんの法事を行っている。軽自動車をほんの何年かで乗り潰す位の過酷な日々である。そうやって、魂の平安のために身を削るようにして人生を献げている人は、キリスト教にも仏教にも、そして他の宗教でもちゃんと存在しているのだ。

まあ、人の話はどうでもよろしい。じゃあ Thomas、お前はどうなんだ、という話である。僕の場合はどうなのか……おそらく、僕の宗教観、そしてそれを人生に反映させる上での考え方というのは、他の信徒よりかなり厳しいと思う。いや、それを他人に誇ろうとしてそう言っているのではない。それはあくまでも僕の信条であって、他人がそれをどう見るか、ということに影響されるようなものではない。核が炸裂したり、疫病が流行ったりして、この地上に僕以外の人間が存在しない状況になったとしても、これは何も変わらない。何故って、それは僕と主の個人的関係が反映されるものだからだ。

もし、SEALDs のメンバーの言行に、キリスト教が影響を与えているのだとすれば、それはおそらく、

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ 7:7-8, 新共同訳聖書から引用)
この辺りだろうか。俗に「求めよ、さらばあたへられん」と引用される箇所だ。いやそんなに単純じゃないでしょう、とか言われそうだけど、まあおそらく根っこはこんなものですよ、きっと。

まず、キリスト教の信者でない人はこう思うんじゃないだろうか:
「求めて与えられるなんて、そんな簡単なものじゃないだろう」
それに僕はこう答えたい:
「はい、私もそう思います」

そもそも、マタイ福音書のその後の部分を読めば、この文言の意味するところは明白なのだ。

あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(マタイ 7:9-11, 新共同訳聖書から引用)
つまり、求める相手は天の父、つまり主なのだ。国会議事堂前でがなるんだったら、その前に祈れ、という話なのだ。このように、聖書の文言というのは、その周辺を読んでおかないと誤解しがちなものである。特にプロテスタントの場合、 "sola scriptura"、つまり「聖書のみ(に依る)」、という姿勢をとっているから、尚更その危険があるわけなのだが……

ちなみに、上の最初の引用部は "「" で始まっていたけれど、これが閉じられる部分を見てみると、

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ 7:12, 新共同訳聖書から引用)
まあ、聖書に限ったことではないけれど、宗教書ってのは大抵、「人にこうしてもらえ」って話ではなく「お前がこうすべきだ」って話をしているわけですよ。どうか、キリスト教の信者でない方には、この辺りをご理解いただいて、その上で「SEALDs とキリスト教」という切り口を眺めていただきたいのである。

ちなみに、このマタイ福音書7章ってのが、どういう風に書き始まっているかも引用しておこう。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(マタイ 7:1-6, 新共同訳聖書から引用)
どうです?彼らがキリスト者だとしたら、ここをどのように読んでいるのか、あるいは読んでいないのか、興味深いところだと思うんだけどなあ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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