天主堂?天守堂?

久々にここに書くわけだが、実はこの春から生活拠点を移したりしたこともあって、ちゃんと日記位書こうかなあ、と思っていたりもする。まあ、以前のように連綿と続くかどうかは分からないけれど。

そう言えば、COVID-19 問題で行動の自由が制限されるようになってから、Quora にちょこちょこ回答を書くようになった。どうも相当平均年齢が高いようで、こちらの書いた回答の全体を読まずに噛み付いてくる輩とか、どうにも論理的なやりとりができない輩とか、粘着的に攻撃してくる輩とか、まあ色々いるので、正直、これは時間の無駄だなあ、と思うことも多いわけなのだが、特にキリスト教関連の質問に対しては、書けるときには回答を書くことにしている。まあ、そんなところに書くよりも自分の書くべきものを書くべきなのだけど……

さて、で、その Quora で目にしたのだけど「天堂」を「天堂」と書く方がおられる。たとえば「浦上天主堂」を「浦上天守堂」と書くわけだ。うーん……正直、そんな書き方を私は見たこともしたこともないのだ。

Google the Big Brother に聞いた結果を見ると……結構引っかかってくるものだなあ。私の使っている SKK の辞書にはそんなエントリーは存在しないし、そもそも「天を守る」ってどんだけ不遜なの、って話で、何処からこういう言葉が出てくるのかがとんと分からない。ただし、絶滅しないのもまた事実らしい。

カミサンに訊いてみたところ「あー、そういう変換候補出たことあるわ」と言う。やはりそうか……カミサンは mac OS 上で google 日本語変換を使っているのだが、私が思うに、google にこの現象の一因があるのではないだろうか。

google 日本語変換は、google のいわゆるコンプリーションの機能がスタート、つまり検索情報が辞書になっている。つまり、誤った単語であっても一定の使用量があれば、それが候補に入ってくるということだろう。そして、その変換によって書かれたテキストが web で公開され、それを google が拾って、検索結果に入ってくる……という、いわば悪循環が成立しているのではなかろうか。そんなことを考えるわけだ。なんだかなあ……やはり、日本人ってアホになっているんだろうか。

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alternative を見られる方は御一読を。それだけ。

「で、これはどうすればいいんですか?」

東大と東京藝大で教鞭を執っている伊東乾氏の『東大生はアウシュヴィッツを知らない――ナチスが分からない理系と行列を理解しない文系が「常識」化』なる文章を読む。ふむ。分かりますよ、仰りたいことはね。でもこれって、この10年位の間にじわじわと進行・浸透してきたものだよね。

この現象を何と言えばいいのだろうか、といつも考える。まあよく充てられるのが「反知性主義」という言葉だけど、僕は簡単にそう言い捨てるのには抵抗を感じる。そもそもこの言葉は、アメリカにおけるプロテスタントの中から生じてきたものなのだけど、その出自を知らぬままに濫用されることの多いものだという印象があるからだ。

宗教というものはいつの世でも、思想体系としての完成度と、民衆への受け入れられよう、という、ある種相反した要素を抱えつつ存在している。信仰は救いを希求するものだけど、その救いを求めて思想体系を磨き高度なものにしていくことが、それを誰よりも求めている満されない人々(多くの場合そういう人達は充分な教育を受けられず、文字の読み書きもできない)から救いを遠ざけてしまう……そういう現象は、いつの世においても確認され、問題とされてきたわけだ。

僕は仏教の話を聞く度にこれを思うわけだ。何故、念仏や題目というものが出現したのか。有り難い仏様や有り難い経典をいくら突き詰めても、民衆はそれを読み、知ることができない。そんな間にも戦が起き、飢饉が起き、病が流行り、理不尽にもどんどん人が苦しみ、死ぬ。そんな中で、「とにかくこの有り難い阿弥陀仏に取り縋りなさい」と「南無阿弥陀仏」と唱えさせる、あるいは「とにかくこの有り難い妙法蓮華経に取り縋りなさい」と「南無妙法蓮華経」と唱えさせた僧達の思いを考えるわけだ。

キリスト教でもこれは例外ではない。キリスト教はそもそも旧約聖書、そして新約聖書を構成する福音書、行伝、そして書簡というかたちで信仰が述べ伝えられていたわけだが、当然、当時のほとんどの人が文字など読めない。だから、ごくわずか存在した文字を読める信徒が、共同体においてそれらを読み聞かせることで、その内容を分かち合っていたわけだ。今もカトリックのミサで受け継がれている(そのくせこれを意識している信徒の何と少ないことか!)「ことばの典礼」がまさにそれである。

しかし、プロテスタントは "Sola scriptura"(聖書のみ)という言葉のもと、いわゆる聖伝(使徒からの伝承)を否定する。そして聖書に対しては自由解釈ということになっているわけだ。だから、先のような、思想体系とそれを享受し難い民衆の対立という構図があっても、そこに指導者の介入が行われた際に、それを批判するのではなく否定する、という現象がより起き易いのだろうと思う。実際、高度な神学論を否定し、平易な説教が受け入れられ、そして「そもそも我々に受け入れ難いものなんて真理じゃない」という主張にまで至る……まあ、アメリカにおける反知性主義というのは、こういうもの(いわゆるプロテスタントの言う「リバイバル」そのものと言ってもいいのかもしれないが)だと僕は理解しているわけだ。

僕はこれを全面的に否定する気はない。神の皮を被った人の誘導、そしてその結果としての腐敗、というものへの警戒、それはまさに彼等の原点だろうと思うし、中世からのカトリックにそういう腐敗があったことは事実なのだから。ただ、このような反知性主義というものには「数の論理」が介入している、ということも指摘しておかねばなるまい。これも簡単に衆愚主義だと言い捨てる気にはなれないのだが、賛成者多数であるものが真理だ、というのは、これはただただ暴論だとしか言い様がない。

そして、この「数の論理」、実のところかなり怪しい代物である。大衆の扇動によってうつろうものに過ぎない、というのもあるけれど、実際のところ、数の論理が主張されるときに、それが「多数」かどうかという検証がちゃんとなされていないことがまあ多いのだ。それが多数である、という主張をよくよく聞いてみると、結局のところ「自分はそう思っている」→「自分は普通である」→「だからこれが多数の意見である」という、まあ稚拙な三段論法でそれがなされていることの何と多いことか。

いや、ネットでも皆そう言ってるよ、と主張する人が最近は多いのかもしれない。でも、そんな印象操作、実際のところはどうとでもなるのだ。Twitter におけるいくつかのアカウントの発言を考えてみれば一目瞭然だろう。人が客観的な検証作業だと思ってやっていることが、実際には、自分と同じことを権威然として言っている人、そして多くの他者から賛意を向けられている人を探していることに過ぎない……まあ、よくある話なわけで、そういう人達の欲求を満すアカウントを運用しておけば、そこに人は集まり、そして曖昧だった人達もそちらに靡いていく。それが社会的規模において可能であることが、この何年かの間だけでも既に証明されているわけなのだから。

まあそんなわけで、反知性主義というものは(ここで僕が言うまでもなく)危うい代物だと思うわけだが、伊東氏の言うような問題というのは、むしろ「反教養主義」とでも言うべき代物なのではないかと思う。

たとえば数学で、一次方程式の問題について解説することを考えよう。ある問題でミスがあって、見てみると移項する際に符号を間違えていたことが原因だった。そこで移項という概念に関して解説を行うとどうなるか。最近の中学生、特にこういうことで間違えるような理解程度の生徒に限って、かなりの高い確率でこういうことを言われる。
「で、これはどうすればいいんですか?」

こう言われて、たとえば僕ならどう言うか:

あのさ、ここでこれをどうすればいいのか、ということは、ここでしか使えない話だぞ。数学の問題を解くってのは、言ってみればジャングルの中を通ってゴールにまで到達するような行為だよ。今この小さなジャングルで、右行って左行って真っ直ぐ、って聞いて、ああそうか、これでジャングル抜けるのオッケーじゃん、って思って、もっとでかくて鬱蒼と茂ったジャングルに入ったらどうなる? 同じように歩いて、はい、抜けられない、でオシマイだぞ? 大事なのは、そこで自分は何をしなければならないのか、を「自分で」判断できるようにすることだろう。僕はそれを教えているんだから。
こう聞いて黙り込む彼等の顔の、まあ不満そうなことったら!いや、そもそも「鬱蒼」という言葉が理解できないか、この話の筋を追い掛けることもできないか、のどちらかかもしれない。まあ、お寒い現状なのである。今のこの国は。

一般論というものを考えるには、ある程度の広さ、深さのある理解が必要である。しかし今の日本で教育を受けている人達は、それを享受する余裕がない。アップアップなのだ。私が見る限り、その原因は、学問における効率主義とでもいうものが世に定着しているせいなのではないか、と思うわけだ。

この主義に染まった人達にとって、勉強の目的は与えられた課題なり試験なりをクリアすることだ。そしてそれは楽しみのある行為ではない。だから効率という項目が出てくることになる。学校で教わる内容を最大効率でこなせること。そのためには、目的達成に効果的でないことは無駄なのだ。そして、無知であればある程、一般的な知識の有用性ということを理解しないし、俯瞰して分野を眺めるということをしないので、目前の問題を最大効率で解く為の手段を求める。今、目の前にあることをクリアすればいい。他のことなんて知ったことではない。そうなるわけだ。

そしてこの「効率化」という思考は更に適用範囲を拡大していく。手間がかかるが滋味深いこと、ものの類には関わらない。その理由を問われれば、「効率的でないから価値がない」、その説明すら効率的でないと思うなら「面倒だから」……そう言って、そういう物事を可能な限り回避しようとするわけだ。

興味深いのが、そういう判断をする人々が、ゲームに関しては皆熱心だということ。私はゲームを否定する気は何もないのだけど、ゲームというものは「効率性」というものの彼岸にあるものだ、ということは声を大にして主張したい。人の楽しみというのは本来効率とは何も関係のないものだし、物質的、社会的に何も得られることのないゲームというものは、この「効率主義」からみれば、まさに効率的でないもののはずなのだ(それで一向に構わないのだけど……趣味とか娯楽とかいうものはそういうものだからね)。でも彼等の多くはがっつりゲームをやっている……私はこの現象は、彼等にとってゲームにおける操作という行為が「効率的作業」という行為のプロセスに類似していると感じられて、そのことが安心感をもたらすからなのではないか、と密かに疑っている。でなきゃ、ぐりぐりスワイプしてツムを消すゲームを、あれ程、少しの暇があればやっていることの説明がつかないからねえ。

この手合い、そして彼等の物の考え方を見ていて僕が思うのは、うわー何てパッサパッサなんだろう、潤いがないんだろう、ということ。でもそこにあるのは哀れみばかりではない。こういう手合いが徒党を組んで、近視眼的効率性を唱えたり、その価値基準で物事を主張し、動かしていくようになることへの恐怖を感じるわけだ。そしてその恐怖は、残念ながら現実になりつつある。伊東氏の指摘されていることは、表層的な所見でなく、もはやこの社会やその構成メンバーにおいては、深く深く染み込んでしまっているのかもしれない。そう思うのだ。

かつて住んでいた土地の名を聞くとき

大学に入ってからの学部時代の4年間は、豊中キャンパスの外れにある寮に住んでいた。そして修士課程に進んでからは、箕面市の農家の納屋の二階に住んでいた。そこを出なければならないことになって、私は不動産情報を探し始めた。とにかく金がなかったので、とにかくどんなところでも良いから……と探した挙句、四畳、風呂なしトイレ共同、コインシャワーとコインランドリー付きで家賃14000円という物件を見つけた。

緑地公園駅の傍にあった不動産屋だったと思うけれど、そこが管理する物件ということで直接そこに行ったのだった。すると、同業の別の不動産屋のオッチャンがそこに来ていて、横で話を聞いていたのだが、

「兄ちゃん、それはあかんよ。そんな風呂トイレなし4畳なんて、今時の若い子が住めるとこちゃうわ。ちょっとワシも一緒に探したるわ」

と、そこの不動産屋の人と一緒になって、二時間近くもあちこちに電話をかけて探してくれた。しかし、なにせ先立つものがないのが現実で、結局その14000円の物件に入居することになった。

その物件は今も残っている。阪急千里線の千里山駅で下車し、千里線の北向きの線路に沿って数分歩いたところにある、薄っぺらい7階建のアパート。名前だけはメゾン千里山という豪奢な名前だが、まあ内実は上に書いた通りだ。千里山駅からひとつ南の関大前駅までの間は、その名の通り関西大学のキャンパスがあるし、千里線の終点の北千里駅まで行けば私の母校である阪大もある。だから、住んでいるのは大学生が多かったのだろうと思う。と思う、というのは、カタギな時間にこの建物にいることがまずなかったから。いつだったか、珍しく早い時間に帰ったら、青年が一人入口に座り、同じ位の年齢の女の子に髪を切ってもらっているのに出喰わしたのを、今でもよく覚えている。ひょっとしたら、関大生と美容専門学校の生徒のカップル、とか、そんな感じだったのかもしれないが。

千里山駅から出たところには踏切があって、その近くの角にはたこ焼の屋台がよく出ていた。甘辛く煮付けた蒟蒻を細かく切ったものが入っていて美味かったので、よく帰りに買って家で食べた。時々関大前の方に歩いていって、関大生向けの丼物の店で安い鶏丼などを食べるのが贅沢だった。関大生達のように青春を謳歌するみたいな立場ではなかったわけだけど、あれが私の青春の1ページなのかもしれない。

その千里山の名を、まさかこんな風に聞くことになるとは思いもしなかった:

交番襲撃、拳銃奪われる=都内30代男の逮捕状請求へ−26歳巡査重体・大阪
2019年06月17日00時51分

16日午前5時40分ごろ、大阪府吹田市千里山霧が丘の府警吹田署千里山交番前の路上で「警官が血を流して倒れている」と、近くの駅員から110番があった。同交番勤務の古瀬鈴之佑巡査(26)が包丁で胸などを刺され意識不明の重体となり、刺した男は拳銃1丁を奪って逃走した。府警は吹田署に捜査本部を設置。東京都内在住の30代の男が関与したとみて、強盗殺人未遂容疑で逮捕状を請求する方針を固めた。

捜査本部によると、事件前に空き巣被害を訴える虚偽の110番があり、交番の警察官2人が急行。古瀬巡査は1人残った際に襲われたとみられ、計画的な犯行の可能性がある。交番の防犯カメラに不審な男が映っており、土地勘がある30代の男とみて行方を追っている。

石田高久府警本部長は同署で取材に応じ、「拳銃を奪取されたことは極めて残念。不審人物を見掛けたら通報をお願いしたい」と話した。

交番は阪急千里線千里山駅前のロータリーに面し、当時3人が勤務。古瀬巡査は左胸など7カ所を刺されて交番前の駐輪スペースで倒れていた。包丁は刃渡り約15センチで、防刃チョッキの脇から刺された傷は肺を貫通して心臓に達していた。拳銃は回転式で実弾5発が入っており、つりひもの留め金具が外されていた。

交番の防犯カメラには午前4時15分〜同5時ごろ、不審な男が行き来する様子が映っていた。

事件前の同5時半ごろには、公衆電話から男の声で「家に帰ると室内が荒らされていた」と110番があり、交番の男性巡査部長(44)と男性巡査長(33)が、バイクで近くのアパートに急行。古瀬巡査も遅れて向かおうとしたところ、交番前で襲われたとみられる。

電話は隣の関大前駅構内からかけられていたが、実際に被害はなく、アパートの住人は事件と無関係だった。捜査本部は駅の防犯カメラなどを詳しく調べている。

その後、箕面の山中にいる容疑者が逮捕され、5発中4発の弾丸の残った拳銃も回収された。しかし……この事件、どうも根の深そうな事件だと思われる。

容疑者は精神障害者保健福祉手帳を持っていた、と報道されている。精神障害者保健福祉手帳というのは、身体障害者手帳のメンタル版とでも言うべきものだが、一級から三級までの障害等級が定められている。この中で三級に関しては、身体障害者手帳の場合よりも広い範囲への適用が行われる傾向がある。だから、たとえばうつや適応障害でどうにも暮していけないという人が取得する例も結構あるわけだ。しかし、今回の容疑者は二級の認定だったらしい。

二級ということは、先の三級とは大分事情が違ってくる。アルバイト先の責任者の会見におけるコメントから、容疑者は統合失調症である可能性が高いと思われるわけだが、二級の手帳を持っているということからは、決して軽い状況ではなかったことが推測されるわけだ。それに加え、バイトを休んでいた理由などからすると、最近の状況が悪化していた(それが病状としてのものなのか、病識が希薄であったために治療を中断していたせいなのかは判然としないが)様子もうかがえる。

私が特に強くひっかかるのは、容疑者が箕面の山に入り込んだ後も、登ったり下りたりを尋常でない回数繰り返していたという話、あとは逮捕後の彼の、

私のやったことではない。私の思うことは、病気がひどくなったせい、周りの人がひどくなったせい、ということ
という供述だ。まるで他人事のようなことを供述しやがって、と感じる方もおられるかもしれないが、私にはこの容疑者の語った言葉は、彼の中で意思や行動論理の統合が行えていない結果のものであるように思える。拙速に断じてはいけない事案だと思うのだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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