用事があって、帰宅するのが少し遅くなった日のこと。階段を上っていると、ふと目を落とした足下に鼠みたいな毛皮の塊があって、「わっ」と驚いて飛び退った。よく見てみるとそれは猫で、向こうも僕の声に驚いたのか、階段をひとつふたつ上って再び蹲った。野良猫か、と思いよく見てみると、大きなリボンの付いた首輪をしている。どうやらロシアンブルーらしいその猫は、野良猫のような警戒の色を見せることなく、途方に暮れたような顔をして、か細い声で鳴くのだった。
手を出してみると、労することなくその猫は掌中に収まった。ううむ、しかし、どうしよう。猫を拾って飼う余裕はないのだ。再びその猫を見ると、どうも人に抱かれ慣れているらしく、掌中の猫は身体の力を抜いて僕の手に身を委ねている。何かおかしいな、と思い、少し考えてみる。ここはペット可なので、この建物の中にこの猫を飼っている人がいるのかもしれない。この首輪の大きなリボンを考えると、普段から自由に外に出しているとは考えにくい。逃げようとしないことも併せて考えると、この建物内の誰かの部屋から出てきてはぐれてしまい、ここに蹲っていたのかもしれない。猫に視線を落とすと、不安気にまたか細い声で鳴いた。
U に相談してみると、まあそれは保護するしかないんじゃないの、ということで、家に招き入れ、以前猫を預かっていたときに使っていたケージを組み立てて、その中に猫を入れた。どうもこの猫、相当なお嬢様らしく、妙なケージに入れられるのが厭だったのだろう、盛んに不満の声をあげて、僕の手を平手でパシパシ叩くのだが、牙や爪を手に立てるようなことはしない。ううむ。いよいよもって、これは誰かに飼われている猫に違いない。水と、プリスクリプション・ダイエット w/d(猫を飼う余裕がない、というのは、実は既に1匹いるからだったりするわけで、そいつの飯である)を与えて、ケージには布を被せて暗くしておくことにする。
U と今後の対応に関して話し合う。とりあえず、飼い主を探さなければならないだろう。デジカメで写真を撮って U に渡すと、その場でさくっとポスターを作成する。各戸に1枚ずつ、あとは掲示用のもの、合わせて20数枚を印刷した。
迷子の動物を見つけたときの対応、ということでネットで調べると、名古屋市では、市の動物愛護センターと保健所が中心となって、迷子の動物のデータベースを運用しているらしい。犬や猫が迷子になったら、そこに連絡して確認して下さい、ということになっているようだ。しかし、迷子の犬猫を見つけたときの対応に関しては、そこには書かれていない。うーん……拾得物か? と、近所に派出所があったのを思い出して、電話番号を調べると、最寄りの警察署にまず電話を、ということなので、某署に電話する。これこれこういうわけで、明らかに近隣で飼われているらしい猫を保護したのだけど、と言うと、
「もし飼い主が見つからない場合は、そちらで引き取る意思はおありですか?」
「いや、今はその余裕はないですねえ。1週間程度飼い主を探して、見つからない場合は譲渡先を探す、ということになってしまうと思いますが」
と言うと、なるほど、ではこれからそちらに伺います、と言う。時計を見ると、ついさっき日付が変わったところで、正直申し訳ないと思ったのだが、とりあえずお願いして待つことにする。
二人の警察官がやってきた。ケージを見せると、
「わー、綺麗な猫だなあ。これは確かに飼われてる猫ですねえ」
と、しばしそんな会話があった後、「一時預り書」なるものを作成して、署名を求められる。一応、警察の扱いとしては、遺失物収得者がその遺失物を一時預かる、ということになるらしい。先の迷い動物データベースの話をすると、朝になった時点で保健所等への届けを警察の方でしてくれる、ということになった。また、飼い主が現われた場合も、身元確認等を警察を通してしてもらえる、という。なるほど。迷い犬や迷い猫を保護した場合は、やはり警察に届けるのが一番確実だ、ということらしい。
警察官が帰ってから、全戸のポストにポスターを放り込み、共用の掲示板にも何枚かを掲示した。終わって家に戻ると、時刻はもう午前二時近くだ。とりあえず寝ることにする。
翌朝。猫の様子を見てみると、水はかなり飲んだようだが、食事の方はほとんど食べていない。しかし、未知の場所に怯えているというわけでもなさそうだ。警戒はしているものの、拾ったときのようなか細い声で鳴く。まあ……早く、家の人が迎えに来てくれるといいよな、と呟いて、食事を食べてから書きものをしていると、もう昼である。
昼は何を食おうかな……などと考えていたところに、電話が鳴った。U が出ると……おお、飼い主からである。とりあえず警察署に電話してもらうように依頼すると、2、30分程して、今度は警察から電話が来る。身元の確認をした、とのことなので、こちらに来てもらうよう、警察の方から伝えてもらうように依頼して、更に2、30分の後、飼い主がやってきた。
飼い主はまだ若い女性で、ご主人か恋人か、男性が付き添いで一緒に来ていた。ドアを開けてケージを示すと、女性は顔を両手で押さえて嗚咽した。まあ……よかった。見つかって。話を聞くと、どうやら1週間前位に姿が見えなくなって、どうしたらいいか分からぬままに日が過ぎていたところに、僕が放り込んだポスターを見たらしい。泣きじゃくる飼い主を前に、僕、U、そして男性が3人で「有り難うございました」「いえいえ、よかったですね」とやりとりがあって、ケージから出て女性に抱かれた猫と一緒に、飼い主達は帰っていった。
そして、それから数日が経過した昨夕のこと。クリスマスイブのミサに行く準備をしていたところに、飼い主の女性が菓子折りを持って礼に来た。僕は、ずっと引っかかっていたことを聞いてみることにした。
「あの、1週間位前に見えなくなって、って仰ってましたよね」
「はい、そうなんです」
「うーん……僕があの子を見つけたとき、特にやつれている様子もなくて、で、夜に水と食べ物を出したんですが、食べ物の方にはほとんど手をつけていなかったんですよ。これは僕の推測ですけれど……」
僕の推測というのはこうだ。飼い主の家のベランダから抜け出した猫を、誰かが拾って連れ去ったのではないか。たとえば、近所の子供が「わー可愛い」と連れ帰って、こっそり飼ってみたけれど、「元のところに返してきなさい!」という話になって戻された、そこに僕は通りがかったのではないだろうか。1週間というタイムラグと、猫が空腹感を訴えなかったことの辻褄を合わせようとすると、そんなことがあったのではないか、と思うのだ。まあ、気をつけて下さいね、と飼い主に話をして、菓子折りに入っていた和菓子を U と美味しくいただいたのであった。