???程強いものはない

以前、某女性議員が「私バカだから分からない」という excuse をした、云々……という話を書いたことがあるが、馬鹿程強いものはない、と、今でもつくづく思う。(社会保障の不備への excuse としての意味ではない)「自己責任」というものが希薄なこの国では、特にそうなのかもしれないが。

自らの不明を責められたときに「私バカだから分からない」という excuse を展開するのは、まさに卑怯の極みと言ってもいいだろう。この言葉をちゃんと展開するならば、「私がバカってのが前提になっているんだから、私が分からないと言っても誰にも責めることなんかできないでしょう?」という居直りなのである。そこには、少しでも不明から抜け出そうという気概は欠片程も存在しない。まさに、こういう行為を表現するために「居直り」とか「逆ギレ」とかいう言葉が存在するのではないかと思う。

この「馬鹿」としばしば同じように使われ、しかも輪をかけて高圧的なのが「素人」という言葉である。某所でしばしば目にするのだけど、「素人なのでよろしくご教示下さいますようお願いいたします」というように、体裁だけでも低姿勢を装っているのなぞは極めて少数派で、

  • 「完全に素人なので解決方法について教えていただけると嬉しいです。」(はぁ、アンタは嬉しくても disturb される側は嬉しくないんだけど)
  • 「素人ながらいろいろ試してみて」(まだマシな方だけど、そんな枕詞には何も意味はないよね)
  • 「WindowsはMatlabを走らせるためにだけ利用している者ですからWindowsの設定について全くの素人ですから現実の問題云々は据え置いておいて下さい。」(論旨不明。素人だから windows に絡む問題は自力では何もしないってこと?)
  • 「素人のため、私にはこの意味が分かりません。素人に分かる言葉で、手順を説明していただけないでしょうか…?すみません。」(自分で調べなさいよ)
  • 「素人考えですが」(これも不要な枕詞ですな。下手な考え休むに似たり、という言葉を想起するなあ)
  • 「素人質問で申し訳ありませんが対処方法をお願いします.」(素人質問、という言葉はここで初めてお目にかかったな……しかしこの言葉は何ら excuse にすらなっていない)
  • 「素人です。お教えいただくとありがたいです。」(まだマシな方?しかし「素人です」という切り口上はいただけない)
  • 「素人なりの見解」(「私見」と書けばいいんじゃないの?)
……まあ、こんな調子である。「素人」という、本来己の不明を恥じる謙譲語が、実は「教えろやゴルァ」的な居直りとして機能していることの方が多いのは、こうやって並べてみれば一目瞭然なのである。

こういうことがあるから、僕が何か人に教えるときは当たりが強くなる。それに何がムカツいたのか知らないが、「thomas エラそう」とかいう検索語でここに来る阿呆を、アクセスログの解析で発見することが時々あったりするのだ。なんだかなあ。エラそうなのは僕じゃない。そういう検索をする阿呆の方なんだけど。

ロシアンブルー騒動

用事があって、帰宅するのが少し遅くなった日のこと。階段を上っていると、ふと目を落とした足下に鼠みたいな毛皮の塊があって、「わっ」と驚いて飛び退った。よく見てみるとそれは猫で、向こうも僕の声に驚いたのか、階段をひとつふたつ上って再び蹲った。野良猫か、と思いよく見てみると、大きなリボンの付いた首輪をしている。どうやらロシアンブルーらしいその猫は、野良猫のような警戒の色を見せることなく、途方に暮れたような顔をして、か細い声で鳴くのだった。

手を出してみると、労することなくその猫は掌中に収まった。ううむ、しかし、どうしよう。猫を拾って飼う余裕はないのだ。再びその猫を見ると、どうも人に抱かれ慣れているらしく、掌中の猫は身体の力を抜いて僕の手に身を委ねている。何かおかしいな、と思い、少し考えてみる。ここはペット可なので、この建物の中にこの猫を飼っている人がいるのかもしれない。この首輪の大きなリボンを考えると、普段から自由に外に出しているとは考えにくい。逃げようとしないことも併せて考えると、この建物内の誰かの部屋から出てきてはぐれてしまい、ここに蹲っていたのかもしれない。猫に視線を落とすと、不安気にまたか細い声で鳴いた。

U に相談してみると、まあそれは保護するしかないんじゃないの、ということで、家に招き入れ、以前猫を預かっていたときに使っていたケージを組み立てて、その中に猫を入れた。どうもこの猫、相当なお嬢様らしく、妙なケージに入れられるのが厭だったのだろう、盛んに不満の声をあげて、僕の手を平手でパシパシ叩くのだが、牙や爪を手に立てるようなことはしない。ううむ。いよいよもって、これは誰かに飼われている猫に違いない。水と、プリスクリプション・ダイエット w/d(猫を飼う余裕がない、というのは、実は既に1匹いるからだったりするわけで、そいつの飯である)を与えて、ケージには布を被せて暗くしておくことにする。

U と今後の対応に関して話し合う。とりあえず、飼い主を探さなければならないだろう。デジカメで写真を撮って U に渡すと、その場でさくっとポスターを作成する。各戸に1枚ずつ、あとは掲示用のもの、合わせて20数枚を印刷した。

迷子の動物を見つけたときの対応、ということでネットで調べると、名古屋市では、市の動物愛護センターと保健所が中心となって、迷子の動物のデータベースを運用しているらしい。犬や猫が迷子になったら、そこに連絡して確認して下さい、ということになっているようだ。しかし、迷子の犬猫を見つけたときの対応に関しては、そこには書かれていない。うーん……拾得物か? と、近所に派出所があったのを思い出して、電話番号を調べると、最寄りの警察署にまず電話を、ということなので、某署に電話する。これこれこういうわけで、明らかに近隣で飼われているらしい猫を保護したのだけど、と言うと、

「もし飼い主が見つからない場合は、そちらで引き取る意思はおありですか?」

「いや、今はその余裕はないですねえ。1週間程度飼い主を探して、見つからない場合は譲渡先を探す、ということになってしまうと思いますが」

と言うと、なるほど、ではこれからそちらに伺います、と言う。時計を見ると、ついさっき日付が変わったところで、正直申し訳ないと思ったのだが、とりあえずお願いして待つことにする。

二人の警察官がやってきた。ケージを見せると、

「わー、綺麗な猫だなあ。これは確かに飼われてる猫ですねえ」

と、しばしそんな会話があった後、「一時預り書」なるものを作成して、署名を求められる。一応、警察の扱いとしては、遺失物収得者がその遺失物を一時預かる、ということになるらしい。先の迷い動物データベースの話をすると、朝になった時点で保健所等への届けを警察の方でしてくれる、ということになった。また、飼い主が現われた場合も、身元確認等を警察を通してしてもらえる、という。なるほど。迷い犬や迷い猫を保護した場合は、やはり警察に届けるのが一番確実だ、ということらしい。

警察官が帰ってから、全戸のポストにポスターを放り込み、共用の掲示板にも何枚かを掲示した。終わって家に戻ると、時刻はもう午前二時近くだ。とりあえず寝ることにする。

翌朝。猫の様子を見てみると、水はかなり飲んだようだが、食事の方はほとんど食べていない。しかし、未知の場所に怯えているというわけでもなさそうだ。警戒はしているものの、拾ったときのようなか細い声で鳴く。まあ……早く、家の人が迎えに来てくれるといいよな、と呟いて、食事を食べてから書きものをしていると、もう昼である。

昼は何を食おうかな……などと考えていたところに、電話が鳴った。U が出ると……おお、飼い主からである。とりあえず警察署に電話してもらうように依頼すると、2、30分程して、今度は警察から電話が来る。身元の確認をした、とのことなので、こちらに来てもらうよう、警察の方から伝えてもらうように依頼して、更に2、30分の後、飼い主がやってきた。

飼い主はまだ若い女性で、ご主人か恋人か、男性が付き添いで一緒に来ていた。ドアを開けてケージを示すと、女性は顔を両手で押さえて嗚咽した。まあ……よかった。見つかって。話を聞くと、どうやら1週間前位に姿が見えなくなって、どうしたらいいか分からぬままに日が過ぎていたところに、僕が放り込んだポスターを見たらしい。泣きじゃくる飼い主を前に、僕、U、そして男性が3人で「有り難うございました」「いえいえ、よかったですね」とやりとりがあって、ケージから出て女性に抱かれた猫と一緒に、飼い主達は帰っていった。

そして、それから数日が経過した昨夕のこと。クリスマスイブのミサに行く準備をしていたところに、飼い主の女性が菓子折りを持って礼に来た。僕は、ずっと引っかかっていたことを聞いてみることにした。

「あの、1週間位前に見えなくなって、って仰ってましたよね」
「はい、そうなんです」
「うーん……僕があの子を見つけたとき、特にやつれている様子もなくて、で、夜に水と食べ物を出したんですが、食べ物の方にはほとんど手をつけていなかったんですよ。これは僕の推測ですけれど……」

僕の推測というのはこうだ。飼い主の家のベランダから抜け出した猫を、誰かが拾って連れ去ったのではないか。たとえば、近所の子供が「わー可愛い」と連れ帰って、こっそり飼ってみたけれど、「元のところに返してきなさい!」という話になって戻された、そこに僕は通りがかったのではないだろうか。1週間というタイムラグと、猫が空腹感を訴えなかったことの辻褄を合わせようとすると、そんなことがあったのではないか、と思うのだ。まあ、気をつけて下さいね、と飼い主に話をして、菓子折りに入っていた和菓子を U と美味しくいただいたのであった。

PHS更新

このスマホ全盛の世の中で、僕は PHS をメインに使用している。スマホで高密度情報を扱うのが疲れるのと、普段はほとんど PC からしかネットにアクセスしない(リアルなキーボードの使えないネット利用なんて!)からなのだけど、僕はこの何年か、その PHS の中でも相当シンプルな nine+ を使ってきた。無駄な機能もないし、軽いし、小さいし、最低限のことはできるし、着メロも自作のサウンドファイルが使えるし……と、便利に使ってきたのである。

しかし、とうとう Li バッテリが駄目になってきた。充電しても、バックライトが10分程度点灯しているだけでシャットダウンしてしまう。これぁどうしたものか……と思っていたら、U がニヤニヤしながら、丁度今使ってない端末あるけど、使ってみる? という。うーん……その端末というのがこれである……悪名高き Windows ケータイ。

しかし、バッテリには代えられない。しかもこの WS007SH、とんでもない大きさのバッテリパックを搭載していて、電池の持ちはなかなかよろしい。Windows Mobile 用のソフトをいくつか入手して、 nine+ から CSV 形式でエクスポートした電話帳をインポートする準備もして……で、今日、ついに完全移行を済ませた。

とりあえず今週一杯使ってみて、また何かあったらここに書こうと思うけど……うーむ、素直に iPhone 買った方がいいのかなあ。でも PHS って便利なんだよね。捨て難い点がいくつかあるもので。

かたちだけ

キリスト教徒でない方々も、洗礼という言葉はご存知だろうと思う。水に沈められることで死と復活、そして聖霊による再生を得る、という儀式で、カトリックではこの洗礼、堅い信仰を誓う堅信、そして聖体拝領を合わせて「入信の秘跡」と言う。要するに、クリスチャンになるための重要な第一歩ということである。

洗礼というものは、キリスト教の成立する前から行われていたものである。聖書を読むと:

 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。(マルコ 1:3-5)

とあるように、もともと洗礼というのが(ユダヤ教の世界における)罪の悔い改めの儀式だったことが分かる。実は、イエス・キリストもこの洗礼者ヨハネによって、ヨルダン川で洗礼を受けている。

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マルコ 1:9-11)

という具合に、かなりドラマティックな洗礼だったわけだけど。

カトリックの場合は、幼児洗礼と言って、日本のお七夜位の感覚で乳児のうちに洗礼を受けさせることがよく行われる。僕は、親の方針(プラス、僕が変わった子供だったことから)で、小学三年生のときに意志を確認され、自分で「受けたい」と言って洗礼を受けたので、この幼児洗礼ではないわけだけど、こういうのはむしろカトリックでは変わり種である。これに対して、プロテスタントのほとんどの教派では、この幼児洗礼は認めていない。また、カトリックの洗礼は、聖水を額に注ぐ(直下に容器を置いて流れた水を受ける)だけなのに対し、プロテスタントの洗礼の場合、バスタブやプール、あるいは聖書の記述にならって川で、全身を文字通り「水に漬ける」ことが多い。

この洗礼、特に「この時期でなければならない」ということはない。特に幼児洗礼の場合、それこそお七夜よろしく年中行われるわけだけど、自分の意志で洗礼を受ける人の場合、それが再生と復活の儀式であることから、復活祭(イースター)の時期に行われることが多いのだが、僕の現在の所属教会では、これに加えてクリスマスイブに洗礼式が行われる。

洗礼を受ける何週間か前に、自らの意志で洗礼を希望する旨署名する「洗礼志願式」というのが行われる。実は今日がその日だったのだが(長い前振りだった)、毎回毎回、この洗礼に関わるイベントでは、厭な思いをさせられることが多いのだ。

非常に残念な話なのだけど、教会には、信仰以外のものを求めてやってくる人が少なくない。彼らの求めているものは、「正統」としてのカトリックの伝統を我が身に纏うことだったり、宗教的な所作をアクセサリーとすることだったり、ヒエラルキーの中で権威たる存在に近しくなることだったり……いずれも、信仰というものには程遠いものだと思うのだけど、こういう手合い程熱心だからたちが悪い。しかし、そういう手合いはすぐ分かる。彼らには「祈り」というものが身に付いていないのだ。まさに「かたちだけ」。そして、僕の所属教会は、なまじ大きい教会であるが故に、そういう手合いが集まって来やすいのかもしれない。

U は、この教会で洗礼を受けたわけだけど、昨日、丁度こういう話になったのだった。

「大体だな、あんたと一緒に受洗した人は10人位いただろ。そのうちで、今でも教会で会う人って誰がいる?」

U は少し考えて、二人の人の名前を挙げた。他の人には、それ以来会ったことがない、という。まあ、こんな調子なのだ。

今日の洗礼志願式に現われた人々も、残念ながらこんな手合いなのだろう。歌は一つも歌わない。祈りも一つも口にしない……「回心の祈り」も、使徒信条すら口にしないのだ!

しかし、今日の手合いはそれにも増してひどかった。司祭の説教のときに舟を漕いでいる……よりにもよって、洗礼志願式で、それもひとりじゃない。二、三人もだ! で、聖体拝領のときになると、いそいそと司祭のところに行って祝福を求める。

きっと彼らは、教会に何かを貰いに来るのだろう。カトリックのアイテム。カトリックのお墨付き。そして、受洗した後は、ホスチアを食うためにミサにやってくるのだ。およそ、彼らは祈りなどというものの彼岸に居るに違いないのだ。

本当に、こういう手合いと同列に扱われたくない。そんなことのために、自分の一生の大半をカトリックとして過ごしてきたわけではないのだ。まあ、他人のことはどうでもいい、と普段は思っているのだけど、それにしても、いざこういう手合いを目の当たりにすると、つくづく厭な気分になる。本来なら、共同体へのニューカマーを共に祝福すべき日に、何故こんな気持ちにならなければならないのだろうか。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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