知人のM女史が風邪をひいた。僕がM女史に会うときには彼女はマスクをしているので大丈夫だろうと思っていたのだが、どうもウイルスを貰ってしまったらしく、今日になってから、鼻がムズムズしてどうもいけない。
風邪といえば、今年の夏の始めに緑膿菌に喉をやられたときのことを思い出す。このときは、一番近くにある耳鼻咽喉科を受診したら、ろくに内診もせずに抗生物質だけ渡されて、後で違う耳鼻咽喉科に受診し直したのだった。もうあの一軒目の耳鼻咽喉科には絶対に行かないようにしようと思っている。
ひとつ気になっているのが、最近 RS ウイルスの感染が流行っていることだ。大人が感染した場合、たいていの場合は鼻風邪程度で済むものの、場合によっては気管支炎やインフルエンザ様の症状が発現して、まれに重篤な状態に至ることもあるらしい。この RS ウイルスには抗ウイルス薬のシナジス© が有効であることが分かっているのだが、このシナジス© というのが、まあ、実に馬鹿みたいに高いクスリなのだ(詳細はこちらを御参照下さい)。大人に投与することは、おそらく事実上無理と言っていいだろう。乳幼児の場合、たとえば早産で生まれた子などに対して、主に予防的に用いられるようだけど、2割負担としてもとんでもない額がかかることになる。
戦後の混乱期、結核に対するストレプトマイシンなどは、おそらくこういう感覚の代物だったのかなあ、などと思ったりする。遠藤周作の『快男児・怪男児』という小説で、淡い恋心を抱く男のために春を鬻いでストレプトマイシンを送り続ける女性が出てくるけれど、病というものの残酷さは、常人に手の届かない処に特効薬があることで、かえって更に際立ってしまう。おそらく、RS ウイルスとシナジス© においても、この薬価故の辛い話があるような気がしてしまうのだ。
季節の変わりめ、と言うには既にどっぷり秋になってしまったけれど、この時期には困ることが結構ある。
まず、米。秋になると、僕の実家の親戚が新米を送ってくれるので、今年もそのお裾分けにあずかった。しかし……これの水加減が実に難しいのだ。新米だから、ちゃんと炊いて美味しく食べたいと思うわけだけど、含水率が微妙に高いようで、どうしても柔らかめになってしまう。えーこんなに減らすのー? という位まで水を減らして、ようやく丁度良い感じになるのだ。
某筋から、大きめの連子鯛(正式な和名はキダイと言う)を貰った。丁度ぎりぎり炊飯用の土鍋(鍋ものに使う土鍋ではなく、炊飯専用のものがあるのだ)に入る位の大きさだったので、これだったら鯛飯でしょう……ということで、炊き込んだのだけど、痛恨の水加減ミス! で、米が少し柔らかくなってしまった。水分量は相当詰めたし、勿論調味料の分は水量から引いてあるわけだけど、それでも柔らかくなってしまう。これ程までに、この時期の米は水加減が難しい。
そして、パン。ホームベーカリーを持っていて、食パンはそれで焼いているのだけど、この時期は水の加減が難しい。夏は生地がダれるので水量を控えめにしていたのだけど、もう大丈夫だろう、と思って水量を戻すと……あー、今日は昼間暖かかったせいか、生地が柔らかめになる。これが発酵時の膨らみ加減に直結するのだ。うーん。まあ別に、こんなことに悩む必要はないのかもしれないけれど、せっかく焼くなら、程良く膨らんだパンを美味しく食べたいので、ついつい考えてしまうわけだ。
これで、もう少し寒くなってくると、今度は衣服で悩むことになる。季節の変わりめは、何かと面倒な時期なのだ。
最近、スーパーでヤガラを売っていることがある、という話は聞いていた。しかし、今日、たまたま別件で買い物に出かけたときに、頭を落としてぶつ切りにされたヤガラがトレイひとつ200円で売られているのを見つけて、おいおい……と呟いてしまった。
ヤガラ……ここで言及しているのはアカヤガラのことである……は高級魚である。詳細はWEB魚図鑑のエントリ「アカヤガラ」を御参照いただきたい。非常に長い口を持つ、細長い魚なのだが、刺身にしてよし、焼きものにしてよし、と、非常に評判がよろしい。
まあ、この辺の人達はこういうお魚のことをよく知らないんでしょう……と思いながら、トレイひとつを購入し、帰宅後、料理にかかる。
まず、腹腔の少し後側の身を刺身にする。この手の魚を捌くときには、いわゆる「大名おろし」と呼ばれるおろし方をすればよい……ただし、中落ちにぶ厚く肉が残ることになるので、これと皮をとっておく。おろした両側の身の表面の皮を外して、薄めに引けば刺身の完成である。
次に、尾に近い身を同じように三枚におろして、これはぶ厚く切る。中落ちと皮を、先の刺身のときの中落ちと皮と共に鍋に入れて水を張り煮立たせ、アクを引きながら中火でしばらくおいて出汁を取る。これを漉し、酒、塩、少しだけの醤油で味を整え、先のぶ厚く切った身に片栗粉をまぶしたものを出汁に落として火を通す。食べる寸前に刻んだみょうがを入れて椀に盛れば、吸い物の完成である。
胸鰭のある辺りは焼き物にする。これは塩をしてグリルで焼くだけだ。これだけで、刺身・吸い物・焼き物、と、ヤガラのフルコースである。
食べてみると……いや、非常に上品な味なのだけど、決して薄味ではない。おろしているときも感じていたのだけど、身から生臭みとかを一切感じさせない感じなのだ。それがそのまま食味に反映されている感じである。しかし……あれ、数尾分も積み上げてあったのだけど、喜んで買った人を他にはついぞ見かけなかった。200円でこんなに贅沢な思いができるというのに……つくづく、食わず嫌いは損をすると思うのである。
今日、たまたま家に居たときに、よみうりテレビ制作の『ミヤネ屋』を観ていたのだが、毎週火曜のこの番組では、かつて『探偵!ナイトスクープ』で人気を博した林裕人氏の料理コーナーというのが放映されている。林シェフが、料理に悩む主婦の家を訪問して料理を伝授する、という内容なのだけど、あまり何も考えずに、それを観ていたのだった。
今日登場した主婦は、あさりの入った海鮮塩焼きそばが上手く作れないのだ、と言う。まずその主婦に作らせて試食し、それから料理の伝授に入る、という構成なので、まず、その主婦が焼きそばを作るのだが……これを観ていて、僕は絶句してしまったのだった。
おそらくこの主婦は、料理はあまり得手ではないのだろう。だから料理にも力が入らない。まあそれは分からないでもないし、それを責める気は毛頭ないのだが、フライパンに材料を投入するその手つきが、どうにも他に言い様がない程に「ぞんざい」なのである。麺を入れるのにも、まるでフライパンの底面に叩き付けるが如く「放り込む」のだ……これを観ていて、何か、哀しくなってしまったのだった。
僕は別にグルマンを気取っているわけではないのだけど、まあ自分でも普通に料理を作る。おそらくUよりも僕の方が料理は上手いと思うのだが、しかし、Uも、こんな作り方はしない。もしそんなことをするようだったら、おそらく一緒には居られないと思うのだ。僕自身も、勿論そんな作り方はしない。したことがない、というよりも、そういう作り方をするなど、考えもしなかった。
料理を作るということは、作ったものを食べる、ということである。主婦だったら、その料理を旦那と一緒に、そして子供と一緒に食べるのだろう。誰かと一緒に食べるものは、それを食べるということが、ほんの少しでもよりよい生き方に繋がるように作る。そういうものとして食べてもらえるように、そして自分でもそういうものとして食べられるように作る。そういうものだと思うし、そうでないのだったら、そもそも作る意味がないと思うのだ。
たとえば、最近僕は料理にかける金をケチっていて、今日は出先でたまたま覗いたスーパーで、1個の 1/4 になった冬瓜が見切り品78円の値札が付いていたのを買ってきた。で、皮を剥いて、ワタを外す。身はちょっと大き目に切って、鶏肉を叩いたものを炒りつけたものと一緒に鰹出汁で煮て、醤油と塩、生姜の絞り汁で味を整えて餡を引いた。皮は千切りにして、胡麻油と鷹の爪を入れたフライパンで炒めて、醤油と味醂で味をつける……要するにキンピラである。ワタは、切り分けてからワカメと合わせて、土佐酢で和える。冬瓜のそぼろ餡掛け、冬瓜の皮のきんぴら、そして冬瓜のワタとわかめの土佐酢和え。冬瓜のフルコースである。
鶏肉にしても、他の調味料にしても、まあ金額は知れたものだ。本当に、今夜の料理には金がかかっていない。けれど、この残暑厳しい折に、こういうものを食べて、暑さの中を元気に生きていきたい。そう思うから、こういうものを作るわけだ。食べるものには、ほんの少し先の未来への思いがこもる。だから、ぞんざいにしたくないのだ。
かつて僕が共同研究をしていた某大学の OB に F 君という人がいる。彼は今アメリカで仕事をしているのだが、最近の彼は冷凍のアジフライを揚げて、タルタルソースとウスターソースをかけて食べるのがささやかな楽しみになっているらしい。彼は少し恥ずかし気に、そのことをブログに書いていたけれど、人が心を保つ上で、こういうささやかな行為は無視し難い程に意義深いものだ。ソウルフードとはよくも言ったもので、人は、ささやかな食の支えがあれば、過酷な状況においても魂が折れることを避けることすらできるのだ。
今日、テレビで観たその主婦が、まるでゴミをゴミ箱に放り込んでいるようなぞんざいさで、フライパンに蒸し麺を放り込んでいる光景を目の当たりにして、そういう食の機微とでもいうようなものを根底から否定されたような気がした。この国が、金の多寡の問題ではなく、ここまで貧しくなってしまったのか、と、ただただショックを受けたのだった。