blow

何かに集中していると、妙なことが起きることがある。今日の場合もそういうことだった。

書きものを始める直前に、たまたま残っていたポップコーンを食べていた。数個つまんだだけで、いつも通りコーヒーを横に置いてキーボードを叩き始めたのだが、どうもポップコーンの殻か何かが喉の奥に引っかかっていたらしい。ちょっとややこしい年号の書き換えをしていて、ふと横を向いてコーヒーを飲もうと口に含んだら、抑制し難い程の喉からの反射がきた。気管に異物が流入するのを防ごうとしてこうなったのだと思うけれど、ヤバい! と思った僕は、顔をコンピュータの横へ向けることしかできなかった。

一瞬の後、僕はマーライオンのように口からコーヒーを吹き出した。床一面にコーヒーが広がる……あ゛〜、と、まだむせながらも、とりあえずはタオルを取って辺りを拭き始めた。服にまでコーヒーは染み込んでしまっている。もう、午前中から何やっているんだろう、俺は……

論理的思考力を試す問題

……というふれこみで、ネット上に掲載されていた問題を以下に示す。

ここに四枚のカードがあります。

「I」 「5」 「J」 「4」

どのカードも、片面にはアルファベット、もう片面には数字が書かれています。

カードには「片面に母音(A,E,I,O,U)が書いてあれば、もう片面には偶数が書いてある」というルールがあります。

このルールが正しいことを証明するためには、四枚のうち、最低どのカードを裏返せば良い? (裏返す必要のないカードを裏返してはいけません。)

この問題の正答率は数 % だ、とこのサイトには書かれている。僕はさくっと解けた(解くと言う程でもないのだけど)けれど、皆さんはどうだろうか。

提示されている「このカードのルール」というのは、

片面が母音(A,E,I,O,U)→もう片面は偶数
というものである。これが何を言っているのか、論理学的視点で理解できるかどうか……まあ、それが全てであって、それ以上は何も必要ない。

もしこのルールが正しいならば、母音が書かれたカードの裏には必ず偶数が書かれていなければならない。では、母音でない文字が書かれたカードの裏にはどのような数が書かれているのか? ここで「母音でない文字の裏には奇数」と考えてしまっているとしたら、そこで終わりである。

たとえば、以下のようなカードがあったとする:

A 3 C 6
2 B 4 D
これらのカードは、先のルールに抵触していない。

どういうことかというと、

片面が母音(A,E,I,O,U)→もう片面は偶数
片面が偶数→もう片面は母音
は違う、ということである。もし、
片面が母音(A,E,I,O,U)←→もう片面は偶数
であるならば、
片面が母音以外←→もう片面は奇数
が成り立つけれど、矢印が片方だったらそうじゃないですよ、ということだ。これは「必要条件」「十分条件」「必要十分条件」の三者の区別ができていないと、ちょっと分からないかもしれない。

ただし、

片面が母音→もう片面は偶数
が成り立つとき、これだけは成立する:
片面が奇数→もう片面は母音以外
これはいわゆる「対偶」というやつだ。つまり、先のルールが成り立つときに言えることは、このふたつだけなのである。各々の逆、つまり、
片面が偶数→もう片面は母音
片面が母音以外→もう片面は奇数
を満たしているかどうか、ということは、分からないのである。

先の問題に戻ると、

「I」 「5」 「J」 「4」

のように表に出ているわけで、この中で「表が母音」のものと、「表が奇数」のものに注目して、その裏面をチェックしてやればよろしい。「表が母音以外」のものと、「表が偶数」のものは、裏に何がくるか、先のルールでは規定されない。だから「I」と「5」の2枚を裏返して、各々裏面が「偶数」、「母音以外」であれば、少なくともこの4枚のカード全てが、先のルールを満たしている、ということになる。

……うーん、しかし、これって中学か高校1年位でやりますよね?

かまびすしい

時々、何の気なしに使った言葉で混乱を招くことがある。どうも僕の日本語は古臭い代物らしく、21世紀を生きる人々には通じないことがしばしばあるのだ。

たとえば「しどけない」という言葉がある。「乙な年増のしどけない寝姿」なんて言い方をしたら、おそらくニュアンスが分かっていただきやすいと思うのだけど、要するに「だらしない、乱れている」という位の意味の言葉である。これを使うと、おそらくかなり高い確率で「?」という反応が返ってくるのだが、やはり、こういうときは「だらしない」じゃなくて「しどけない」がぴったりくるんだ、というときに、その言葉を使わない、というのは、僕としては口を塞いでいるような心地がするのだ。

「喧(かまびす)しい」、あるいは「囂(かまびす)しい」というのもそうだ。まあ分かりやすく言えば「やかましい」ということになるんだろうけれど、でもやはり「囂しい」と言いたいシチュエーションというものがあって、僕の言語感覚では、それを「やかましい」と表現するのは、薄っぺらいというか、貧しいというか、そんな気がするのだ。

そう言えば「姦(かしま)しい」というのも最近はあまり使わないのだろうか。昔、この言葉を初めて目にしたときに、父に意味を聞いたら「お前、よく演芸番組観てるのに『かしまし娘』とか知らないか?」と言われて「あーなるほど」と納得した記憶があるけれど、最近の人はそもそも「かしまし娘」を知らない可能性が高い。辛うじて「女三人寄れば姦しい」というのが諺をまとめた本などに載っている位しか、もうこの言葉との接点はないのかもしれない。

漢語で言うと、「唯唯諾諾」なんてのが典型だ。たしかにメディア等でこの言葉を聞くことは少ないかもしれないけれど、でもこれってそんなに分かりにくい言葉なのだろうか?使うとほぼ全ての人に「?」と返されるのだけど。

よく、人から「Thomas さんはなんでそんな古い言葉を使うのか」と聞かれることがあるのだけど、僕は豊かな日本語表現を享受してきたので、自らの日本語表現にそれが反映されているだけのことである。別に僕にとってそれらの言葉は古くも何ともない。暴言との謗りを覚悟してあえて言うなら、世間の日本語が薄っぺらく、貧しくなってきているだけのことである。

先日、NHK の報道番組を観ていたのだけど、福島県在住の男性が、自分達の被曝状況を記録するために手帳を作り、たまたま講演に訪れた広島原爆の被爆者にその手帳についての意見を求めているところが映っていた。その画面の隅に「被ばく者の対話」というようなタイトルがついていたのだけど、僕はこれを一目みて、

「これはずるいなあ」

と呟いた。要するに「被ばく」と書けば、「被曝」と「被爆」の区別をしなくてもいい、という理屈なんだろうけれど、天下の NHK がそんなことをしていたら、ますます世間の人々の間で「被曝」と「被爆」の区別がされなくなってしまう。要するに、面倒事を避けるための措置なのに「どんな人が観ても分かってもらえるように」なんて妙な建前を主張する結果、余計そういう面倒事が増えてしまうわけだ。

「障碍者」と「障害者」の場合もちょっと似ている。これは、実は終戦後、国語審議会が旧字を排除するまでは「障碍者」(もしくは「障礙者」)と書かれていたのが、戦後に「害」の字をあてるようになってしまった結果である。で、最近、障碍者が害を為しているわけではないんだから、旧来の表記に改めよ、という。うーん……じゃあ、「疎通」「疏通」はどうなのよ?そもそも「疎」って「疎外」の「疎」でしょ?「疎通」の意味を辞書でひくと……

[名](スル)ふさがっているものがとどこおりなく通じること。また、筋道がよく通ること。「意思の―を欠く」「意思が―する」

(『デジタル大辞泉』より引用……goo辞書のエントリへのリンク

とあるんだけど、これに「疎外」の「疎」を持ってくるって、一体どういう神経なんだろう。こちらの方が「障害」か「障碍」かという問題よりも、言葉としては深刻な問題だと思うんだけどなあ。

そう言えば、いつだったか、政治評論家の三宅久之氏が怒りを込めて言っていたけれど、「独壇場(どくだんじょう)」というのもこの手合いである。そもそも「独壇場」などという言葉は存在しない。これを言うなら「独擅場(どくぜんじょう)」なのだけど、どういう訳か「独壇場」という言葉は世間でひろく使われてしまっている。

まあそんなわけで、どうにも薄っぺらい日本語に辟易(これも誰だったか「ヘキヘキ」とか書いている人がいたなあそう言えば)することが多いわけだ。どうもなあ。

差し歯・雀

今日は、肝を冷やされるようなことがいくつかあった。今、冷や汗を拭いながらこれを書いている。

まずひとつめ。今日、昼食を食べようとしたときに、前歯の辺りが何かむずむずとした。指で摘むと……

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……と、前歯が抜けたのである。

差し歯にされている方はご存知だと思うけれど、差し歯というのは、歯根を残してその中にキャビティ(縦孔)を掘り、そこにコア(芯)を立てる。このコアの上に、クラウンと呼ばれる、歯の外観をした「冠」を被せるわけだ。通常、差し歯が取れた、というときには、ほとんどの場合はクラウンの脱落だろうと思うのだが、今日の僕のケースでは、クラウンがその土台のコアごと抜けてしまったのである。

僕もこういう経験がそう多いわけではないのだけど、この精神的衝撃というのは、相当のものだった。あ゛〜、これで結構な額が飛んでいくのかー……というのもあるけれど、前歯が抜けるというのは、これだけでも結構な精神的ダメージである。

とりあえず食事をして、歯を磨き、かかりつけの歯科医院に電話をすると、午後5時少し前だったらいけまっせ、との返事だったので、そこに予約を入れて、ちょこちょこと仕事をしながら午後を過ごした。しかし、今日は少しリラックスして過ごそうと思っていたのになあ……もう、台無しである。

歯医者の時間の少し前、もう一度歯を磨いていて、抜けた差し歯をブラシで洗おうとしていたら、手が滑って、洗面台の排水溝の中に「カラ〜ン」と、それはそれは綺麗な音を立てて落ちた。思わず声を上げてしまう。絶望感に苛まれながら、排水管の経路だけでも見ておこう、と思って洗面台の下を開けてみると、この洗面台は樹脂管で、U字の部分はドレンが付いていて手で外せそうである。そこらの器で受けながらドレンを外すと……「カラ〜ン」と、これまた綺麗な音を立てて歯が落ちてきた。はぁ、と溜息をつき、しばし脱力する。

時間が来たので歯医者に向かった。道すがら、はぁ……と溜息をつく。まあ、溜息をついても仕方ないんだけど、ここまででも結構な精神的ダメージだ。なんだかなあ……と思いつつ、診察券を歯科助手に渡す。

歯科医師は、ドレンから取り出して持ってきた差し歯と、僕の歯根のキャビティを見ながら……「これは……」「これは?」「これは……付けられそうだよ」「え?」で、キャビティの掃除をしてから、セメントを練って、装着。この差し歯を作った歯科医院ではないので、しめて500円取られたけれど、差し歯の作り直しとか、いやもうこれは部分入れ歯なんじゃないか、とか、悪いことばかり考えていたのが、嘘のように呆気なく、現状回復されたわけだ。

で、戻ってきたわけだけど……今根城にしているビルは、1階が大きなガラスの観音開きのドアなのだけど、その中に雀が2羽いた。僕が入ってきたのにびっくりしたのか、1羽は外に開いている方に向かって飛んでいったのだが、もう1羽が……よせばいいのに、僕がくぐったばかりの、そのガラス戸に全力でぶつかったのである。雀は地面に転がり、嘴だけをひくひくと動かしている。

雀は、どうやら脳震盪を起こしたらしい。両手で包み込んでも、逃げるどころか、身体をよじることもできずにいる。とりあえず、持っていた荷物を部屋に置いて、U に事情を話し、二人でまたガラス戸の前に行った。雀は、まだ動けずにいた。

「どうしよう」「どうしようって言われても、ねえ……」

などと言っているうちに、雀は意識を回復したらしく、地面の上を跳ねながら、影の方へと逃げていく。もし飛べなくなっているならば、保護しないと、この辺りには野良猫もいるので危険である。ブロック塀の方に追い込むように向かっていくと、雀はようやく意識を完全に回復したのか、はばたき、飛んで逃げていった。

僕が入ってきたのにびっくりしてこうなったわけで、そのせいで雀が死ぬようなことがあったら寝覚めの悪い話である。だから戻ってきたのだけど、とりあえずこうやって無事に逃げられたのだから、大丈夫だったのだろう。そう思うことにした。たかが雀一匹の話であるかもしれないが、歯の件も合わせて、今日の僕にとっては精神的ダメージの大きな事件であった。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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