人口比1パーセント

統合失調症、というと、皆さんあまりいい顔をされることはないだろう。そういうものを、自らの耳目から遠ざけておきたい、というのが、ほとんどの方の態度だろうと思う。

しかし、統合失調症は決して珍しい病気ではない。統合失調症の罹患率は、人口比で1パーセントを少し切る位である。たとえば肺がんの場合、2006年の死亡者数が 63255人、罹患者数がこの 1.2〜1.3 倍だというから、多めに見積っても、罹患率の人口比は 0.06 % 程度だ。これを考えても、統合失調症というものが「ありふれた」病気であるということがお分かりいただけるのではないかと思う。

さて。実は U が、先月から早朝のミサに行くようになった。僕等の所属教会は朝の7時から早朝のミサを行っていて、聖職者(仏教における「朝の勤行」と同じだと思っていただければいいと思う)や会社に出かける前の人が与っている。この早朝ミサは、毎日のものなので淡々と(粛々と、と言うべきかもしれないが)行われるし、日曜の午前中のミサのときのような、教会の共同体内で自分の権益を示すような輩は来ないので、朝起きることさえ苦にならなければ、これはなかなか良いものである。

しかし、ひとつだけ困ったことがあって、この朝のミサに行くと、いわゆる「コわれた人々」との遭遇率が非常に高くなる。教会というところには、元々そういう人が集まりやすいところがあって、この地区の司教座教会で規模も大きなこの教会では、尚更そういう人々が来易いわけだ。勿論、そういう人々がただ来てミサに与る、それだけならば何も問題はない。こういう病気を患う人にしばしばみられる、不意に大声を出してしまったりするようなことがあっても、それ位で誰も迷惑がったりはしない。

しかし、そういう「コわれた人々」が問題なのは、信仰を持っていて教会に通っているとは限らない、ということである。教会が、彼らの独特な信念による奇妙な儀式の場としておあつらえむきだから、この教会に毎日姿を見せている……そういう人々が、残念ながら複数実在するのである。

これは僕も話に聞いたことがあるのだけど、信者の間で問題視されている、ある女性がいる。この女性は、毎朝、早朝のミサに与った後、しばらく聖堂に籠って独自の「儀式」を行っているらしいのだが、ローソクを持ち込んで、祭壇に勝手に置いて火を点けていたりするので、度々注意を受けているらしい。挙句の果てには、神父様が外出すると、それをクルマで追跡して、出先の教会や修道会でミサに与れないか、と出没するのだという。この女性は明らかに統合失調症で、教会の神父様がこの女性の親族に連絡を取ったらしいのだが、親族は「よろしくお願いします」と言うだけ、なのだそうだ。

で、U も御他聞に漏れず、この女性にからまれることがあるらしい。なんでも今日、U は祭壇の掃除当番で、早朝ミサの後に祭壇を電気掃除機で掃除しようとしたら、その女性が大声で、

「待て!」

「まだだ!」

と怒鳴るのだ、という。あーなんか怖いなー、と思いつつも、U は掃除を続けていたらしい。まああまり確率が高いわけではないにせよ、何せ相手はローソクと火種を持ち込んでいる。この上刃物でも持っていたら、とか、火で何かされたりしたら……と考えると、簡単に大丈夫だよとは言えない。

U はまた、告解室の前で頭を抱えて呻吟している人に出喰わしたりもしたらしい。告解室はおそらく普段は鍵を締めてあるとは思うのだが、もし開いていて、中に引きずり込まれたりしたら、と考えると、これも簡単に大丈夫だなどとは言えない話である。

僕はこの話を聞いて、もう一つ心配していることがある。このような「コわれた人々」、果たしてちゃんと、精神科で治療を受けているのであろうか? 統合失調症の本当に怖いのは、寛解の状態を維持するように努めずに放置された場合、患者の精神世界の荒廃が昂進し、その後治療しても回復し難いところである。もし、上述の「コわれた人々」の親族が、

「朝に教会で儀式をやってくれば家ではおとなしくしていてくれる」

などと納得し、そのまま彼らを放置しているのだとしたら、こんな無責任なことはない。彼・彼女の精神世界を壊しているのは、間違いなくこの親族達だということになるのだから。まあそんなわけで、色々心配な今日この頃なのである。

暗黙のマナー

愛知県というところに住むようになって、未だに慣れず、いらいらさせられることがある。僕は仕事で全国の大概の地方都市には行ったことがあるのだけど、暗黙のマナーというものがこれ程守られない土地を、僕は愛知県以外には知らないのだ。

これに関しては前にも何度も書いているけれど、たとえばエスカレータを自分の身体と荷物で塞いでいる人がいたり、なんてのは序の口で、歩道を歩いていると、自転車で横並びで平気な顔をして走っている高校生がいるかと思うと、これまた横一列になってヘラヘラ笑っているサラリーマンの一団がいたり、公的交通機関に乗ると、ベンチシートの自分の隣に平気で荷物を座らせて、どれだけ混んでもどけようとしない奴がいたり……まあ、ひどいものである。

僕の知る限り、都市というものには暗黙のマナーというものがあって、それを守れない人は都市の群集に排除される。東京だったら「ち」とか舌打ちでもされて、実に冷たくあしらわれるし、大阪だったら「アンタ邪魔や」とかはっきりと言われるだろう。混んでいてもスムースにやる術を考えない輩は、都会においては有害なだけの存在なのだ。しかし、たとえば名古屋ではこの定石があてはまらない。まあ早い話が、愛知県は都市部ではない、名古屋はドンくさいイナカモノの集まる市なんだ、というだけのことなのだけど、そういう暗黙のマナーに比較的厳しかった水戸という街で生まれ育った者として、こんなに暮しにくい場所は他にない。

で、この様相は、教会に行っても変わらない。他で出来なくても、せめて教会で位はちゃんとするように努めるものなんじゃないのか、と思うのだが、残念なことに、この辺の連中はそうは思わないらしい。

僕の所属教会も、もちろんその例外ではない。たとえば、この教会にはボーイスカウトとガールスカウトがあるのだけど、そのガールスカウトの方の女の子が二人、いつも指導者(の服を着ているけれど、おそらくあれはあの子達の母親なのではないかと思う)に連れられてミサに来ている。この子達が、聖堂の中でも帽子をとろうとしないのだ。

ガールスカウトの制服は、水色のベレー帽がセットになっている。ベレー帽というのはそう頻繁に被ったり取ったりしないかもしれないけれど、聖堂の中では取るのがマナーというものである。しかし、この女の子の片方は、どういう訳か、いつもテンガロンハットを被っている(後記: U によると、このテンガロンハットは最新のガールスカウトの制服なのだそうな)。おそらく親に仕立てられたものなのだろうけれど、この女の子、そのテンガロンハットを一度たりとも取ったことがない。これは僕の想像だが、おそらくあれはずれないようにヘアピンか何かで髪に留めているのかもしれない。しかし、カトリックの聖堂に入るときには帽子を取る、というのは、これはマナーというより常識の範疇だと思う。だから、ヘアピンがどうこうというのは理由にはならないだろう。

しかし、だ。この女の子、いつも指導者と一緒に居るのに、この指導者は帽子のことを何も言わない。先に書いたように、おそらくはあの指導者はあの女の子の親か何かで、あのテンガロンハットを仕立てている張本人なのであろう。しかし、横にいるもう一人の女の子(この子はベレー帽を被っている)も含めて、決して帽子を取ろうとはしない。指導者も取らせようとしない。毎度毎度この調子なので、僕もさすがに、今度会ったらはっきり言わなければならない、と思っているのだが、僕が言うとどうもひどくキツくとられる傾向にあるので、難しいところである。

先日の日記に書いた某修道会のシスターに、一度この件に関して相談してみたことがある。シスターは、

「あー、あれねえ。確かに問題なんだけど、最近は、ちょっと言いにくいのよねえ」

まあ、シスターの言いたいことは分かる。教会には、たとえば抗がん剤の副作用などで頭髪を失った人が来ていたりするので、そういう人を捕まえて「帽子を取りなさい」というのは、まあこれは確かに暴力的なことかもしれない。あのテンガロンハットの子が小児がんを患っていたことがあって、抗がん剤の副作用で失った頭髪がまだ回復していない、という可能性もないわけではない。だったら、指導者に確認してみればいい話だから、今度会ったら確認してみることにしよう。

僕がこういうことを気にするのには理由がある。最近、こういう「ミニハット」が流行っているからだ:

Minihat

これを付けている人に「帽子を取れ」とか言うと「これは髪飾りだから取れない」とか平気な顔して言う。ヘアピンで留めてるから取れないし……という話になるわけだ。しかし、だ。教会の聖堂(だけじゃなくて、室内での式典一般や神社仏閣でも一緒だと思うけれど)で帽子を取るというのは、これは最低限のマナーだし、そういうことで誤解を受ける必要のないカジュアルな場でならともかく、帽子を取るという暗黙のドレスコードがあるところにこれを付けていく、ということがそもそも手前勝手、もしくは傍若無人な態度なのではなかろうか?少しはそういうことを、考えてはもらえないものだろうか。

【後記】 U の指摘により調べてみたところ、欧米では女性の着帽は正装の一部と見做されるので、むしろ帽子は取ってはならない、とのこと。でもねえ、ここで言っているのはテンガロンハットだからねえ……

教会内で帽子などの「かぶり物」をどうすべきか、というのは、実は聖書(新約聖書『コリントの信徒への手紙 一』11:2 ― 16)に書いてある。

あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。

この解釈に関しては、カトリック内でも統一的なものは実はない。たとえば長崎教区では『ミサ中のベール着用について』という文書を web で公開しているが、これからも分かるように、女性の(カトリック)教会におけるかぶり物というのは、暗にベールを指す。特にいわゆる第二公会議以降は、女性でもベールを被らない人が多数派だし、上に引用したパウロ書簡も(おそらくは『創世記』2:21 ― 22 における「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、」のくだりを想起しているのだろうけれど)男尊女卑的記述だ、ということで、現在はそれ程重視されているわけではない。

まあ、僕の印象としては、やはりテンガロンハットを被ったまま、というのは、大いに違和感を感じるんだよなあ。ドグマとしてではなくて、男だったらテンガロンハットを取らなきゃならなくて、女だから取らなくていい、というのは明らかにおかしいし、その逆だったら明らかに不遜な行為だと思うからね。

Wilkinson にがっかり

僕はウィルキンソンのジンジャーエールが好きである。まあバーで酒を飲んでいる人間だったらジンジャーエールと言えばこれを口にすることが多いだろう。このジンジャーエールは、今迄は瓶のものしかなかったので、個人で買うというのはちょっと面倒だったのだが、最近ペットボトルが出た、という話を聞いて、僕は期待していたのである。

で、昨日、コンビニでそのペットボトルを発見した。さくっと購入し、駅までの道を歩きながら飲み始めたのだが……ん。おかしい。味が変だ。ん?

ちなみに、販売元のアサヒ飲料での該当商品のページにリンクしておくが……あ゛、いかんなあ、これ、アレが入っているんじゃあ……と思い、ラベルを見ると、あ゛〜……

原材料名
食物繊維(難消化性デキストリン)、酸味料、香料、カラメル色素、甘味料(アセスルファムK、スクラロース、ステビア)
……駄目だよ、そんなもの入れちゃあ。

これは僕にとっての一種の踏み絵のようなものなのだ。とにかく、僕はこのアセスルファムカリウムスクラロースの組合せが入っているものが大嫌いなのである。甘味は不自然だし、いつまでもその不自然な甘味が口中に残る。いいことなど一つもありはしない。カロリーオフ?はぁ?清涼飲料水如きでカロリーが問題になる程清涼飲料水をガブ飲みすることが問題なんだろうが! その皺寄せをこんなかたちで社会に拡大しないでもらえないだろうか。

我慢の限界

僕は、あまり他人に対してマナーがどうとかモラルがどうとか言う方ではないと思う。そういうものに対して懐疑的だし、盲信するつもりもない。そもそも、他人と同じようにふるまうことは、僕にとっては何も安心感を齎さない。だから、マナーとかモラルに対して、普段は無頓着で、時に挑戦的ですらあると思っている。

しかし、そんな僕でも、もう我慢の限界なのだ。何がそうなのかというと、僕の所属教会(直接リンク)における、いわゆる主日のミサの状況の、あまりのひどさに対して、である。

僕の所属教会は、中部地区におけるいわゆる司教座教会というやつで、この辺の地区の中心的な教会、とされている。そのせいなのかどうか分からないけれど、どうもこの人、信仰においてブッ壊れてるんじゃないだろうか、という人の集積場のようになってしまっている。以下、いくつか実例を挙げて書くことにしよう。

まず、この教会、何がひどいって、ミサの最中に皆がろくに歌を歌わないのだ。カトリックのミサにおける歌というのは典礼、つまり祈りの一部をなすものなので、歌わないというのは祈らないというのに等しい行為である。まあ、技術的な問題というのもあるのかもしれないけれど、下手なら下手なりに、心を込めて歌えばそれでいい。それ以上の何をも要求されることはないはずなのだ。

しかし、この教会の信者の多くは、歌わない。司教座教会の面目を保つためなのか、結婚式に熱心なためなのか、この教会にはパイプオルガンが入っていて、その伴奏で皆で歌うことになっているのだけど、皆口すら開かない。あまりの状況に、せめて俺位はちゃんと歌おう、と声を大きく歌っていると、周囲の人々に、まるで珍種の生物でも見るかのような目を向けられるのである。

会衆が歌わない大きな原因が、この教会で幅を利かせている「合唱隊」なるものの存在である。オルガンの鍵盤がしつらえてある楽廊で、主に老齢と言っていい年代の女性で構成されるこの「合唱隊」は歌っているのだけど、この人達は、何を勘違いしているのか、自分達の声をわざわざマイクで拾ってスピーカーで聖堂内に流している。グレゴリアンチャントの昔から、教会というところは人の声が響くように作られていて、そこで合唱するのにマイクを使うなんていうのは、隣の人に声をかけるのに拡声器を持つような愚行である。しかし、この「合唱隊」、そんなことは全くと言っていい程に気にもしないのである。

おまけに、この「合唱隊」、とにかく歌が下手糞でどうしようもない。特に迷惑なのは、ピッチが低いこと、それも四分音(半音の半音)分低いことである。この「合唱隊」には、一人、20代前半の女性がいて、この女性は学生時代にコーラスをやっていたとかで、この集団内では大手を振って振る舞っているらしいのだが、この女性は他人と声を合わせると必ずピッチが四分音分下がる。不完全だが絶対音感がある僕としては、これがもう苦痛で苦痛で仕方がない。幼少時に調音とかで絶対音感を獲得している人(カトリックの信者の中にはちょぼちょぼいると思う)などは、おそらく聖堂内にいるだけで耐え難い苦痛を感じていることが想像に難くない。

で、この「合唱隊」、ある古参信者の一家が隊の中で幅を利かせていて、この四分音女はそこの娘である。そういう立ち位置だから、マイクの前でガンガン先唱を歌う。そうするとどうなるか、というと、そういう輩が会衆をリードして歌っているわけだから、会衆全体がこのぶら下がった音程に慣れ、やがて自らその音で歌うようになってしまうのだ。丁度去年のことだけど、この僕ですら、多重録音でコーラスを録っていて綺麗に重ならず、あれーどうしたのかなあ、とチェックしたところが、低めにピッチをとるようになりかかっていたことがあって、慌てて修正したのだった。あの四分音女の存在は、本当に会衆にとって害以外のなにものでもない。

そして、このような技術的問題にもし目をつぶったとしても、尚この四分音女は罪深いのである。ミサの最中の「答唱詩篇」のところで、例によってこの四分音女は独唱をするわけだけど、どうも事前練習など一切やっていないらしく、歌詞を頻繁に間違える。ただ間違えるのもどうかと思うけれど、この四分音女、分からないところを勝手に歌詞を作って歌うのである。先に「答唱詩篇」と書いたけれど、ここの部分で歌われるのは旧約聖書の『詩篇』からの引用句、つまり聖書の文言である。それを勝手に作り変えてしれ〜っと歌うとはどういうことなのか。僕の情報網には、この四分音女がそうやって歌詞を捏造した場面を目撃した人の話が入ってきたけれど、この四分音女「舌を出してくすくす笑っていた」んだそうな。あまりに許し難い。有害この上ない。もう消えてほしい。ちなみにこの四分音女、なんと教師になったというのだけど、こんな教師に教わらざるを得ない生徒達が、もう気の毒で気の毒でならない。

そして、こういう勘違い連中が幅を利かせて、マイクとスピーカーで歌をがんがん流すものだから、会衆の多くは、自分達はもう歌わないでもいい、と思っているらしく、多くの信者は歌を歌わなくなってきている。これも許し難い話である。何度でも書くけれど、カトリックのミサにおいて歌わないということは、お祈りをしない、ということと同意なのだ。身体的な問題で歌えないのならまだしも、横向いてぺちゃくちゃ喋ったりできているんだから、声はちゃんと出せるらしい。でも、典礼の歌は、そういう連中の中では「人に歌わせておけばいい」もの、らしい。そんな連中と同じだなどと、俺は思われたくないんだよ。

ということで、日曜のミサで、僕は抵抗を開始した。典礼に関わる言葉も歌も、大きな声で明瞭にするように徹底している。最近は何人か「戦友」が現れた。やはり僕と同じように、この現状を憂慮している人がいないわけではないのだ。声でしか知らないその「戦友」達と、僕は毎週日曜日、孤独な、だけど信仰においては非常に重要な「抗戦」をしているのである。もう、我慢する必要など何もないのだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

New Entries

Comment

Categories

Archives(902)

Link

Search

Free

e-mail address:
e-mail address