また発熱

昨日、喉がえがらっぽい、という話を書いていたけれど、夜になっていよいよしんどくなってきた。帰りの電車の中で、節々が痛くてシートに当たる身体の位置を変えながら、iPod で音楽でも聞いて気を紛らわせようと思ってかけた曲が Todd Rundgren の "Influenza":

だった。いや、節々の痛さで「あーこれぁまたやっちまったか」と本気で思っていたのだった。

帰宅後検温してみると、体温は 38.3 度……あーこれぁ駄目だ、と思った。とりあえず手近にあった PL を飲み、なんとか床に就いたのだった。

で、今朝起きてみると……ん? 少し楽だぞ? どういうこと? 検温してみると、体温は微熱と言えるところまで落ちている。まあ可能性は二つあって、風邪だったのか、あるいは一度感染した新型インフルエンザのウイルスに再感染したのか、のどちらかだろう。しかし、日曜に雨で濡れたせいなのか、扇風機でがんがん風を浴びていたせいなのか……よく分からない発熱であった。

喉が……

いがらっぽい。昨夜毛布をかけずに寝て、明け方に寒くてかけ直した記憶があるので、そのせいかもしれない。

で、そのことを blog に書こうとして、ふと思ったのだ:「いがらっぽい」ってどういう意味か、と。いや、辞書に書いてあるような意味……たとえば「喉が刺激に弱くなっている」とか「不快な刺激を感ずる」とか……は分かるのだが、そもそも「いがらっぽい」という言葉の由来は何なのだろうか。存外、人はこうして日本語を知らないものである。

で、辞書をひいてみると……いやあ、今日僕は不明にして初めて知りましたよ。「がらっぽい」は「がらっぽい」の慣用表現だったのだ。漢字で書くと「蘞辛っぽい」である。もともとは「蘞辛い」(えがらい)という言葉があって、ここから派生して「蘞辛っぽい」と言うようになったようだ。辞書には漱石の『虞美人草』の一節が文例として引用してあった。

 黒い影は折れて故(もと)のごとく低くなる。えがらっぽい咳が二つ三つ出る。
「咳が出ますか」
「から――からっ咳が出て……」と云い懸(か)ける途端(とたん)にまた二つ三つ込み上げる。小野さんは憮然(ぶぜん)として咳の終るを待つ。
「横になって温(あった)まっていらしったら好いでしょう。冷えると毒です」
「いえ、もう大丈夫。出だすと一時(いちじ)いけないんだがね。――年を取ると意気地がなくなって――何でも若いうちの事だよ」

「今日で世界が終わる」って?

山形浩生氏の web ページを見ていたら、興味深い記述をみつけた。今日、つまり2011年5月21日(って、もうすぐ日付も代わるのだが)に、世界が滅亡するというのだ。

これに関して興味がおありの方は、google で "May 21 Judgement day" で検索していただけるとよろしい。おそらく検索すると一番最初に出てくるのはこの URL だろう:
http://judgementday2011.com/may-21-judgement-day/
この URL を見ると、"Judgement Day is May 21, 2011 The Rapture is Coming !" と書かれている、あーはいはい、rapture ね、と思われる方は……おそらく日本人ではそう多くないかもしれないが、rapture というのは日本語で「携挙」と言われるものである。

携挙というのは何か、と言われると、僕としては少々困ってしまう。これはキリスト教の言葉ではあるのだが、カトリックで用いられることのない言葉だからだ。「携挙」とはプロテスタント、特に終末思想を強く主張する福音派の人々や、いわゆる fundamentalism(聖書根本主義)を信奉する人々が主張する概念である。ざっくりした話は、上にリンクしておいた Wikipedia のエントリーにコンパクトに書かれているけれど、この世の終わりが来たときに、人が天に上げられることをこう呼んでいて、この言葉を使う人々は、以下の聖書の記述が実現されることだ、としている。

主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。

―― 1 テサロニケ 4:15 - 18

この 1 テサロニケ、つまり『テサロニケの信徒への手紙 一』というのは、パウロが最初期のキリスト教宣教において遺したと言われている文書で、おそらくこの記述は、共観福音書で「終末の徴」と書かれる箇所(マタ 24:3 - 14, マコ 13:3 - 13, ルカ 21:7 - 19)を反映したものだと思われる。

ではなぜ僕達カトリックが携挙を重要視しないのか、というと、『テサロニケの信徒への手紙 一』で述べられている主の再臨というのが、この書簡を読んでいる人達の存命中に起きることを意図して書かれているからである。当時、キリスト教というのは迫害の対象で、特にパウロの生きていた頃はローマ皇帝があの悪名高きネロだった頃だから、キリスト教徒は一種のスケープゴートとして、たとえばローマの大火の後に虐殺されたりしていた。当時の人々にとって、苦難の時期とは、彼らが生きているその時代そのものだったし、彼らの生きているうちにそこからの救済が齎されることが、彼らの心の支えだったのである。

しかし、プロテスタントはそんなことは考えない。彼らの信仰の根本にあるのは "sola scriptura"、つまり「聖書のみ(に依る)」、という姿勢だから、聖書にそう書いてあったら、今の自分達に神から齎された真理だ、と考える(いや、皆が皆そうだと言うわけでもないんですが)。だから「携挙」なんて話になるわけだ。

これが、現代の人々、特にアメリカのプロテスタントにどれ位リアリティのある話なのか、おそらく日本の普通の方々には分からないと思う。アメリカで、この「携挙」に与れずに「取り残された」人々の姿を描いた『レフトビハインド』(Left Behind)という本が、全米でなんと650万部以上を売り上げるベストセラーとなり、映画化もされ、シリーズは現在第12弾が発売中、という状態であることは、この国で暮していると耳目に触れることはまずない。映画の方は、一応『人間消失』という題名で日本でも DVD 等が販売されているのだが、まあ日本人には受けないだろうし、実際受けていない。

しかし、この blog でも何度か触れている通り、アメリカ人の大体3割程度が福音派のプロテスタントであり、程度の差こそあれ、このような世界観を現実のものとして信じている。こう書いても信じてもらえないかもしれないが、これは厳然たる事実である。

今回の 5/21 世界滅亡説に関しては、さすがにアメリカ国内でも「何だかなぁ」という感じで受け止められているようだが、とにかくこういう話は今回が初めてではない。かつて、1970年にハル・リンゼイが発表した "The Late, Great Planet Earth" という本が、同じように熱狂的に受容されたという経緯もあるし、今後も同じような話は散発するだろう。そのときには是非注意して、頭に留めておいていただきたいのだ。信じ難いかもしれないが、彼らは、そして多くのアメリカ人は、実は結構本気なのだということを。

的中

昨日からの嫌な予感は、思いもかけぬかたちで「的中」することになってしまった。

2日程前から、どうも奥歯の辺りが痛かった。歯肉炎を起こしてこうなることが時々あるので、今回もそれかと思っていたが、どうも痛みが激しい。知人の医師に無理矢理ロキソニンを処方してもらい、飲んだのだけど、どうも、やはり痛い……うーん、どこだろう……まさか……被せてある下か!

歯科医院に行くと、ずばり的中、しばらく通うことになってしまった。はあ……

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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